惜しいっ、 | ざっかん記

惜しいっ、




っじつにっっっ、

アンヌ・ケフェレック/上岡敏之/新日本フィル、楽聖《1番》コンチェルト、シューベルト《ザ・グレイト》2日目、済む、

っや、コンチェルトもシムフォニーも、っきのうに勝るすばらしい演奏だった、っしかし、ケフェレック女史がフィナーレのあのまんなかのチャーミングな主題の中途で楽譜が飛んでしまわれ、っとつじょとして数小節先まで遷られ、オケは当惑、っただ、上岡氏はわりに冷静で、っどうとか復帰せむとする絃の面々を、や、無理に戻ろうとするとかえって創口を拡げるからしばらく休んでいて、っと両手で制され、オーボー1番へ向かって、ここだよっ、わかるねっ、っと彼氏が吹く2拍前にするどく刺すように棒を向けて待機し、丁寧に予備拍を示して招じ入れ、全楽は辛くも復旧した、っその後の上岡氏は曲尾まで、ソロに対してまで親切に棒を振られており、っお人柄がよく出ていた、終演後、錦糸公園のJRガード下へ隠れてしばらくシガレットを服んでから、っいま駅まで戻ったが、っちょうど器の楽屋口前を通るときに女史が出て来られるところで、崔氏と抱擁して挨拶をなすっていた、っご当人としても痛恨というところであろう、

っしかし、っそれを除いてはほんとうに稀代の大演奏であった、っきのうは、抑制せられたホルンやトロムペットがやや吹きにくそうに窮窟な音をさせる嫌いがあり、っきょうも指揮者が中音量以下で開始したいシューベルトの全曲冒頭などはややその気味だったが、コンチェルトでは、1楽章のオケのみによる主題提示から、両者ともきのうよりもかなりキャラクタリスティックに瞭然と吹いており、っしたがって覇気漲る雄渾の響がする、っもちろん、っゆうべのバッティストーニ氏のような乱暴な力自慢ではなく、トュッティを収めた際の残響はあくまでも豊麗芳醇、っそして、っそこへいつも仄暗い翳りを帯びるのが、上岡敏之一流の音色、音の膚触りである、

っこれに導かれて登場するソロは、女史の境涯を映して曇りなく澄み渡り、オケのひびきとの間に妙なる対照をつくる、っきのうもきょうも2階正面の3列目、っきのうは左寄り、っきょうは右寄りだったが、っきょうのほうがピアノの音がよりクリアに聴こえ、左右の手の音の動きも等しく眼に視えるごと無碍に浮沈す、

フィナーレの件のトラブルに見舞われた主題は、敢えてどたどたとワイルドな足並みと強勢とでそこへ入ってゆくのが、楚々たるケフェレック女史の造形としては意想外だが、っつよく弾いてもそうだし、っふた節目で弱音へ落としても、っいずれもやや音型のチャームを殺ぐようにおもわれ、っぼくはこの主題はずっところころと小粒を揃えて転がしつづけるように弾くほうが楽想に似合わしいとおもっている、っそれにしても、っこのフィナーレへこの主題のあるなしで、全曲の印象はがらりと変わろう、楽聖その人の抱き締めたくなるような人懐こさよっ、



シューベルトは、ザ・グレイトとは名ばかりに、朗々とというよりはむしろおずおずとホルンふたりが吹いて始まる、っほとんど囁いているような、呟いているようなmpは、唄っている間にほんのかすかかすかに強弱や音のエッジを立てる立てないを操作せられる、っそれはすでにして高踏なる意匠であり、っそれだけに、奏者にはもっと万全の演奏能力とコンディションとを求めたい、活況著しい日本楽壇も、ホルンが滅多には吹き損じをやらずに安定している、っというのは、っなかなか越えられない最難関のハードルであるかもしれない、っそれと、っふぉーふぉーとばかり大人しく吹いていないで、隙あらばゔぉーゔぉーと吹く逞しさこそ、っあらまほしきことにちがいない、

っそれはとにかく、1楽章も主部へ入る前からもはや他の誰とも肖ていない別世界であり、波瀾万丈である、高絃のピッツィを背景としたヴィオラのアルコは、っあれはけっしてふかい音色で唸らせるというのではない、っもっと独得の手筈である、

主部では展開っっっ、入りからして絃全員のアルコをはっとせしめるようにfpしたかとおもえば、最弱音の裡に声部間の主題のリレーを追ってゆく、フィナーレにも同様の表現が聴かれたが、っその緊迫感は悪魔的で、コワいくらいにスリリングである、

終結部の全軍による冒頭主題の再現も、っもちろん音々へべったりと足裏を附けるのでなくさばさばと進み、強勢も快音の範囲へとどめる、っだから管が主題を担うときと絃が全員でユニゾンするときとの質感がともに鮮やかに発色し、ったがいに好対照を演じ合い、オーケストラというものが具えている機能が眼前に全開す、っついにトロムペットとティムパニとが豪傑のリズムを鳴らす終結句はヒロイズムの極致だが、っしかし途端に漸弱の裡に霧消し、謎めいた残響を棚引かせる、

2楽章は、跳ね弓放題のかるいかるい絃の上へオーボーがやはりさっぱりと乗って主題が運ばれてくる、っこういう造形がいちばんうれしい、っこんな主題をのんびりと歌へ浸っているばあいでないのは至極とうぜんであろう、ティムパニを交えて絃がフォルテで応ずる際にも、音がぞんぶんに跳ねていてこそ、和音が刃のごとこちとらの胸を貫くのである、っそしてその刃は、っくるしい登坂の頂においてついにぼくらへ致命傷を見舞う、

3楽章ではトリオ、っきのう聴いていて、人生の憂愁が胸へ迫って堪らなんだ、あ、なに、こんなに好い曲なの、ってなもので、っきょうもせつない心境でそれら音々を見送る、

フィナーレは、っきょうは開始から奔馬のごとなにか手の附けられない疾走感が出来し、指揮者もオケも夢中で頁々を追う、っもちろんそれでこそ極度の集中力を発散し、上記のとおりはらはらせしめる展開のスリルを經て、一気呵成に終結まで突っ切る、最終音の漸弱解釋は1楽章以上にオーヴァーで、っすぐさま弱音へ落としてそれをさらに最弱音へまで絶え入らしめて結ぶ、



っなるほどこの2曲を同日に演ると、㐧2拍への強勢という共通項が浮かび上がって興味深かったが、演目として、っあれは去年か、一昨年か、去年か、故ラルス・フォークト氏の代演で上岡氏がやはり新日フィルを振られた若手おふたりとのモーツァルト《フリュート&ハープ》コンチェルト、田部女史との楽聖《4番》コンチェルト、ブラームス《2番》シムフォニーという、2時間半におよぶ盛り沢山の公演がおもい返された、っあの楽聖もほんとうに異界から鳴っている音楽のようだったし、っやはりやはり他の誰とも肖ていなんだブラームスでは、っちょうどあのときにも2日目の3楽章トリオにおいて、Vnの数人が休みの小節数を数え間違うというエラーをやった、っあのような刺戟的のアヴァンテュールには、っいつの日も失敗が附きものであろう、



っさて、っあすは浜松日帰りにて、坂入健司郎氏と浜松響との公演、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(4)

 

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