っきのうほんとうは、 | ざっかん記

っきのうほんとうは、




有楽町の前に靖國、千鳥ヶ淵へ詣でたかったのだが、気温が上がりそうで、っちゃんとタイを締めてヤッケを羽織ると歩っていて汗を掻くかとおもい、っごろごろしているうちに時間がなくなってしまった、っきょうは曇天で20℃までゆくかゆかないかというところであり、っそのとおり、下はデニムだが上はタイを締めてヤッケを着てきたところ、っまあ室から南大沢の駅へは丘を登らねばならないのでやや身体がかっかしたが、玉の汗を発するほどではなくてよかった、市ヶ谷で降りて千鳥ヶ淵、靖國の順に詣でてから池袋へ遷る心算である、

っところで、っさきおとついの木嶋/坂入/N響の公演について、X上で、午前、川崎におく大西/沼尻/東響かな、っそのモーマチモーマチいっているからなんのことかとおもったらモーツァルト・マティネーのことらしいが、っそこから梯子して当該公演を聴いた人が、沼尻もよくなかったがこちらもなおわるく、前半で帰りたくなった、辛かった、っとこぼしたのへ木嶋女史が反駁され、っいわゆる炎上騒ぎになっていたようだ、

ようだ、っと云うのは、っぼくはその逐一をフォローしていないからで、奇しくもついこないだ大船へ坂入氏公演を聴きに行った際に云ったとおり、っその種のいざこざも、っぼくからすれば書く側、読む側双方の構文、読解の未熟未達、国語力の決定的の不足によってひたすらに誤解の創口を拡げてゆく水掛け論と堕すことを逃れないのであって、っそうなると外野としては、精神衛生上もうはや正視に堪えない、2ちゃんねるのむかしからさようの現代日本人の民度とネット言論との不幸なケミストリーに不愉快を嘗めてきたぼくとしては、っあるいざこざがそのレヴェルへ入ったら、っもう努めて事の顚末を見ないようにするというのが、最も得策である、



、、、っあ、って駄弁を書していたら、調布で特急へ乗り換え損なってしまった、



っどんなに委曲を盡した心算の文脈でも、っいっさいの誤解を逃れることは能わないと、文を織る者はまずこころすべきである、っぼくの貧しい経験からしても、え、この文脈をそんな悪意に取るのかよ、っという不本意は1度や2度では済まない、っそのときに人は、俺を誤解するなよ、っとおもうであろうか、っそれが若気というものであろう、っそう、っそれでは青二才なのだ、発言者のおよそ意識もしない悪意がその文の読解において嗅がれるというのは、一種の驚異である、っや、っよろこんでいるのではなく、インタレスティングだというのである、っそのことを敷衍してゆけばすなわち、世間様とは理不盡である、っとの平凡な世間智を得るのにさほどの労は要しない、っただし、っそれこそここで誤解をしてはならない、世に悪意が充溢しているから理不盡を生ずるのではない、ったといよかれよかれとおもうのであろうとも、っその人々のふるまいふるまいを無数に集めれば、っすでにして理不盡の原資としてたくさんなのである、っまいど云うが、っそんなことは遙か古代ギリシアのむかしからよくよく人にわかられていたはずのことである、

っだから、不埒なやっかみに対して懸命に正論で応戦せむとするらしい文脈であっても、っぼくからすれば、肩入れしてやりたいのは山々ではあるのだがしかし、申し訳ないがあんたの国語力は国語力でまたたいがいで、ずいぶん不用意な文脈がたくさんあるから、そこを恰好の餌食としたい愚輩を誘き寄せるだけだよ、っとの無力感へ沈む、

再度、云うように、語釋というのはじつに愕くべき多様さを有つもので、っまずまず議論らしい議論を成り立たしめるためには、当事者間でせめて主要なタームの語釋についてくらいは最低限のコンセンサスが得られている必要がある、っそれもなしにいきなり野良試合をおっ始めて、っどっちへ軍配が上がるの上がらないのを競っても、っじつに不毛である、っちなみに云えば、匿名か否かということがネット言論ではしばしば問題にされるが、っぼくにはそれは議論にとっての本質的の要素とはおもわれない、一定程度、語釋や文脈を共有でき、っこちとらが読んで説得的と読める文脈を織りうる相手であれば、っその人が実名であろうと匿名であろうと、っぼくとして、それのなにがどうちがうの、ってなものだ、氏素性も知れない相手としかし有意義な議論を交わすことができたら、っそんな仕合わせもない、っよほど犯罪に類する言質が与えられたならば、っその際には匿名者の実名を発くことは技術的に可能である、っさらば実名か匿名かなどはべつに有意な差ではなかろう、っもっとも、っそのことを現に議論に与する者等がよろしく正解していないということから世のいざこざの大半が生ずるというのは、っそのとおりだとはおもうが、

っもって回らず約めて云えば、自分も不用意かもしれない、不特定の相手もその可能性が大である、っこの所与にしてすでに建設的の議論は希みえないと、っぼくらは弁えておくべきなのだろう、

、、、っかく申す、正直に自白しておけば、っぼくもその、前半で帰りたくなった、辛かった、っという投稿自身は見たのであるが、っそれで気をおおきくしたというわけでもないとは自身ではおもいたいところだが、っおそらくは多少なりとも影響は受けて、っそれで、木嶋女史のソロについてはむしろぼくは頗る好印象を有ったのであるが、N響については、つまんない音ばっかり出しやがって、やりたくないならそんな仕事疾っ疾と辞めろ、っなどと、っそれこそ不用意極まりない雑言を吐いたのであった、っべつにそれをいま訂正なり削除なりせむとはおもわないのだが、上の文脈を継げば、っぼくはN響のああした鳴り方に、悪意を前提しているのではけっしてない、よかれよかれとおもい合うその綜合としてしかし、無趣味で、なんらの問題意識をも発散しない演奏が出来することは、じつにありうべきことであって、N響という組織とは、構造的にそうした通弊を生じ勝ちなのじゃないか、っと云ったので、、、っだったらやっぱり、いやなら辞めろよ、っはあきらかに云いすぎだが、っぼくとしては、っある演奏を、諾うにせよ斥けるにせよ、判断の根據を示すことなしに結論のみを述べるとしたら、っそれはたしかにときに残酷であろうとはおもう、逆に云えば、っその担保を伴ないさえすれば、一定の雑言の類に曝されるのも、舞台人等の衆目を集める稼業においては、っいわゆる有名税のうちであろう、っその点で短文投稿というのは、っそれ自身がすでにして危険因子である、っだからぼくはXへの投稿はほんのちょびちょびとっきりせず、っただこの駄ブログのリンクを貼りつづけているのみである、聞けば現代人はもうはや一定分量以上の活字を読み熟せなくなっているというが、っぼくにすれば、不逞の論難者をもとより締め出すことができているならば、っむしろ所望である、

っこの1件でぼくが想い出したのは、宇野さんである、っあの方が、っもうだいぶん晩年でいらしたとおもうが、ジャニーヌ・ヤンセン女史に執心され、友人に云わせればあんなの欧州の本場では酷評の対象だとのことだがそんなのは知ったこっちゃない、誰有名評家が酷評しようが俺の耳によく聴こえればそれがよい演奏なのだとて、女史がN響へ来演されてメンデルスゾーンかなにかを弾かれるのを聴かれ、っその棒はたしかデ・ワールト氏だったのかとおもうが、女史のヴァイオリンにはいたくやられ、っしかしN響の雰囲気のないひびきには辟易されたと、っそしてそのコラムの掉尾はいまでも忘れない、曰く、後半はデ・ワールトが《アルペン》を振ったらしい、っという冷酷な1文であったが、っいまもむかしも宇野さんエピゴーネンをもって任ずるぼくはあの往時、よっ、乱麻を断つ快刀の切れ味っ、っと感じ入ったものだ、

っこれなど、そらみろ、こんかい前半で帰りたかったとほざいた輩と宇野とは同列じゃねえか、っともはや草葉の蔭の宇野さんへもなおも投石、唾棄を躊躇わない不逞の輩を生じそうであるが、っそれがだから、議席へ着く資格のない者たちの群なのである、っやはり判断の根據を明示し、汎く批判に俟つべきなのであって、っそれをしている者といない者との間には、遙けき隔たりがあるのだ、っその前提を共有できないことが判明した時点で、っどんなに尻尾を巻いて逃げやがったと嘲罵されるのが口惜しくとも、議席から去るのが賢明である、っこれも大船のときに云ったが、他所をやっかむことそれ自身が目的化した愚輩というのは、っどこにでもうじゃうじゃといるものである、



っさて、参詣を了えていま池袋、っまもなく開演であるが、果たしてN響は雄渾の響を上げてくれるであろうか、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)