大船、
坂入健司郎氏の棒、セレスチャルというかセレスティアル響なる団体で、楽聖とブラームスとのともに《4番》という硬派なプロ、
同団は3年ほど以前に結成せられ、過去3度の公演の指揮者はみな著名人である、っこんかい参加のプロフェッショナルのメムバーは、っみなN響の人かとおもったらちがって、東京フィルや新日本フィルの人もいた、絃の規模はフル・サイズといってよく、テクニークも、有名指揮者を呼ぶだけのことはあり、っじつに一端一廉である、
っずる休みへの必罰か、っほんとうに体調不良で、っやや鼻っ風邪の気味であり、演奏中もいまも、っずっとハンド・タオルが手放せない、40年附き合ってきた鼻のよわいこの身体だが、っまったく遣る瀬ない、1年に何度か、季節の変わり目にはかかる不快を耐えねばならない、っわるくすると鼻の周りの皮膚が切れて、っひりひりと痛い、
靴ノイズくそじじいだが、っいたのだろうか、っぼくは2階右方最前列に座を占めたが、っそこから1階席中央通路後部右方を覗き込んでも、っそれらしき胡麻塩頭は見当たらなんだ、っいなかったのならばさきわいで、っじっさい、演奏中も楽章間さえも、快い静寂が保たれていた、同小器でも公演があったようなので、っそちらにいた可能性もある、っただ、っぼくの1席置いて左隣の御仁は、っさかんにオペラ・グラスを覗き込んだりときどき拍を振ったりと、愚かな自己顕示慾の虜囚でやや目障りだった、
っぼくは演奏会へ行くのに、オペラ・グラスを携行したいとおもったことは露ない、演奏会におけるお客の視覚とは、っほどよい距離を有って舞台の全体を見渡していることである、っそれに、最も驅動せしむべきは聴覚なのだ、拡大鏡を覗いていては、必要以上に視覚への注意力が動員せられてしまうのではないか、っだいいち、懸命に演奏している者のその形相を視姦せむなぞとは、っひどく悪趣味である、演奏に合わせて拍を振るに至っては、ガキじゃあるまいし、っあんなよい歳をした大人のやることではない、恥を知れと云いたい、っただねえ、っそれこそ靴のノイズとか、ビニールのかさかさとか、パンフレットを団扇代わりにしてあおいでいるとか、っつまり完全に演奏に無関係のことならば、っぼくも直近にその人がいればやめてくれろと躊躇なく云えるのだが、オペラ・グラスはまあ演奏会の携行品として市民権を得てはいるし、拍を振るのも、っのべつ幕なしにド派手な振り幅でというのでないかぎり、っときおりほんのかすかに振るくらいのことは、、、っきょうの御仁はそうだったのだが、完全粛清すべきとまでは云えないように、っすくなくもぼくはおもう、っかく申す、っぼくも指先でほんのかすかにリズムを取るということがじつはないではないのだが、っただしその際には、腕を組んで手指を脇へ埋没せしめたその奥でとか、両手を膝上で重ねたその下の手でとか、っすなわちつい隣席の人にさえもぼくが指先でリズムを取っているということをぜったいに気取られないような仕方でする、指の腹で被服を叩くことにより、っごくかすかな衣擦れの音が発生してしまうかもしれない、っそれもぜったいにさせないような仕方でである、土台、音に合わせてリズムを取りたいという衝動は、っつまりは音楽にノりたいということである、っそういう自己満足ならば、脇へ隠した指先でリズムを取るだけでもおおきに達せられるはずである、っそれを周囲の人の視界に入るとわかっていて敢えて拍を振るというのは、っどうしたって幼稚な自己顕示である、っどうも、クラッシックというやつはヘタに高踏のものと映るせいで、いま演られている曲を俺は識っているんだぞ、っという自己主張を為したいという邪な気を、っある種の人をして起こせしめるようなところがあるのだ、フライング・ブラヴォーや拍手の類もその手合いであろう、っもう時効だろうから自白しておけば、っぼくもごく若くときは、本演目ではけっしてそんなことはせなんだが、アンコールで音が鳴り止むずっと以前から拍手を始めたりという罪業を犯したことが何度かあったものである、19、20歳のくそガキのやらかしたことと、っどうぞお嗤いいただきたく、
っさておき、演奏は、2曲ともにすばらしかったとおもう、坂入氏の棒は、技倆に勝れる団体を得ると、っよくもわるくも最大公約数的となり勝ちであるが、っぼくはなにもそれを振り解いて放埓に振る舞えなどと云わない、、、っや、っそうできるものならやってみてしまってくれたいが、っしかし、っとくになにもしていない演奏が、っそのとおりとくになにもしていないと聴こえたら、っそれはマズい演奏である、
、、、っううん、っこの云い種もなあ、お前がとくになにもしていないと安易に聴きすぐしている瞬間にも、指揮者もプレイヤーも刻一刻となにかしているんだよ、っとの諫言を喰いそうだが、っぼくはそれは半ば以上ウソだとおもう、っじっさい、漫然としてなんらの問題意識も発散しない演奏というのはある、演奏の現場の実情がどうであるかなどは知ったことではない、っその点でお客は、舞台人に対して卑屈な遠慮を有つべきではない、っいかに彼等が高度と称する問題意識を演奏の瞬間瞬間に動員していようとも、伝わっていなければ、っやはりつまらない演奏なのだ、っもちろん、っお客のひとりびとりにおいても、平素からありとある演奏の可能性へ能うかぎり胸襟を開いているという前提である、
っついでに云えば、鍛錬の結果として好悪を剋服しうるというのも、っぼくはウソにちがいないとおもう、っいつもの不謹愼な譬えだが、女といえば肥えているにかぎるという男にだって、瘠せぎすの女のファッション・センスの良否とかメイク・アップ術の巧拙だとかを判断することはでき、っその判断力をきょうにあすに刷新せしめることだってできる、っしかしいかな刷新を推し進めたところが、俺は肥った女がすきだ、っという彼の生理はあくまでもとどまるであろう、っそのときに、瘠せぎすの女の身形を詳細に把握しうることをあたかも自身の肥えた女への偏執と同列同等に語るとしたら、っぼくにすればむしろ彼氏は信頼のならない評者である、どこまで観察眼、判断力を研いても、やっぱり最後には肥った女がすきなんだけれどね、っとぺろっと舌を出して自白する人こそ、評価主体としてまさしく精確であろう、クラッシックのリスナーには、っどうかすると該博な人ほど、自身の馴染めない類の演奏でも、無下に斥けては己が聴体験の狭量を露呈するのではないかとて、片頰を引き攣らせつ、っぎこちない手附きでそれを褒めたような褒めないような扱いに処するといった挙措がしばしばみられる、っもっと生理に隨順すればよいのだ、スリムな彼女のファッション・センスは抜群、メイクもばっちり、でも俺はどうしても肥った女がすきだ、っと正面切って云えばよいのである、語り方において、判断力と生理的好悪とを截然と隔てる工夫を施しさえしていれば、っその弁別を解しない手合いは、っただ無視するのが至当である、っどこにでも他所をやっかむことそれ自身が目的化した愚輩はいるものである、っというよりも、ったいていの問題はそも構文と読解との未熟未達である、っみな短文の投稿などでよろしく国語を使役しえている心算が、っその実、世のいざこざの大半は、っぼくには単に書く側、読む側双方が日本語とその文法とに通じていないことから来ているとみえる、
駄弁だったが、楽聖では、両端楽章ともに展開の緊張緊迫が期せずして伝わる、絃の両翼はとくに前者において効果覿面で、っあのぎらつくような楽聖という人の不敵さを喉元へ突き附けらるごと、2楽章でもこの2声部の和音に眩惑を嘗めた、幸か不幸か、っぼくらの耳は浪漫派以降も近現代も知ってしまっている、音の要素のすくない古典派であれば、っほんの和音ひとつが清冽に鳴る鳴らないで、感銘は雲泥の差である、っとくになにもしていないという演奏がそれでもお客を満足させうるとしたら、っそうした音楽的の要素要素を抜かりなく叶えるということを、っその演奏はしているのにちがいない、
ブラームスも緊密な合奏で一貫す、紀尾井町で聴いた坂入氏の同《2番》はやや粗暴なテンションを頼るようで、ムラのある演奏だったが、っきょうはどこまでも物理音の集積として明晰でありつづけ、っちゃんと熱狂の抽象を聴いたという観がつよい、1楽章の再現からコーダまでなどはその好例で、っぞんぶんに熱しているが、っなお木管も金管も絃に包まれ、全体の響は颯爽として涼しいほどであり、高度のゆとりをもってして初めて可能な精華であろう、
2楽章は、っぼくがまたあの部分がすきなので、、、っすきというかアムビヴァレンツを喰むところがあるので、っそのおもい入れもあったかしれないが、泪とともに聴く、っすなわち終盤のティムパニを伴なってVnが迸るところである、っあそこは、っその手前の深い諦観の吐露もすばらしく、木管で音彩を加えつ連符で落下しながら当該部へ入ってゆく気分の変化も、っほんとうにブラームスという人をすぐ眞近に実感せずにいない、っそしてついにVnは、俺だって、朗らかな命を生られるものならそうしたかったさ、っという彼の老残の遠吼えを吼えるのである、次いでピッツィカートの足音をさせて楽章冒頭句をとぼとぼと降ってゆくクラリネットは、西陽を浴びるブラームスの哀しい背中そのものではないか、3楽章が屈託なく溌溂としているのが、っなお哀しい、
フィナーレは、澱みのない清潔な奏楽により、っともすると経緯不詳の憾のあるこの道程に一筋の見通しを立てた、途次、フリュートに独り舞台を演じさせるのは、っあるいは楽聖《エロイカ》を夢に見ているのかとおもうが、っあのように愉悦の極致に遊ぶことは叶わず、勝鬨を謳う英雄もおらず、っついに轟然たるトロムボーンによって組み敷かれ、運の苛烈の前に無慙にも斃れる、辛い終結である、最後まで冷徹な歩みのうちに踏破してこそ、っその痛みは聴く者のこころへ刺さって抜けないのであった、
っところで、っあした休みかよ、っずる休みから4連休になってしまった、っつぎの演奏会はまた坂入氏、N響とのショスタコーヴィチで、っこれが同響へのデビューでいらっしゃるのかな、佐藤雄一氏を聴けないのはざんねんなのだが、っその公演はYouTubeへupせられるものとおもわれる、
みずの自作アルヒーフ
《襷 ータスキー》(全4回)
https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)
《ぶきっちょ》(全4回)
https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)