池袋、 | ざっかん記

池袋、




下野竜也氏の棒、N響公演、済む、

演目は、っすぎやまこういち《DQ》スート《Ⅴ》の〈序曲のマーチ〉に始まり、エルガーの、作家自身が幼少期の作を掘り出してそれに触発せられて書いたという小品から3曲抜萃、次いですぎやま《DQ》へ戻り、《Ⅳ》から〈海図を広げて〉と〈栄光への戦い〉と、っそして前半最後はストラヴィンスキー《火の鳥》の、っあれは19年版スートかな、っその〈カスチェイ、、、〉から〈終曲〉まで、休憩後は《DQⅢ》のN響収録版スート全曲、アンコールに《同Ⅴ》から終曲〈結婚ワルツ〉であった、

N響と云う条、コン・マスは長原氏であり、絃バスには日本フィル、群響所属のあの細面の人がいられ、オーボー1番は日フィルの人、トロムペットへも読響の人が乗っていられた、っぼくがいま心配しているのは、っよくN響でクラリネットの2番を吹かれることのあるあの日フィルの人で、ったしかさきおとついも乗っていられ、井上キーミツとの公演などにも参加されていたが、っあの人がN響へ取られやしないかということである、っおもえば、セロの辻本氏にしても、っもとは日フィルで、っあっという間にN響へ移ってしまわれた、

っさておき、っその鳴り方であるが、渋谷や上野に比すればより音楽的の器である池袋を得て、っひとまずは沽券を護った観だ、っが、っきょう日、日本のオーケストラは、地方の楽団も含めて、っべつにN響とそれ以外とで、テクニークそれ自身としては、っぜんぜん歴然たる差はないとあらためておもわずにいなんだ、敢えてまずN響の難点のみを云えば、っあれでほんとうに、音色や音勢の相関として、この絃にしてこの木管、この金管、この打楽器、この木管にしてこの絃、この金管、この打楽器、この金管にしてこの絃、この木管、この打楽器、この打楽器にしてこの絃、この木管、この金管、っという眞に仕合わせなマリアージュが得られているのだろうか、っそれはきょうのみならず、っさきおとついほかでも感ずるところである、っそれから、音のパレットはほんとうに十全にして豊富であろうか、っどのパートもそうだが、っともすると精確なピッチとか強弱とか、歌の描線をシャープあらしめることに意識が傾き勝ちで、っもっと器の容積を篤と感じながらのひびきの雰囲気、色の調合、薫りをくゆらせることの奥行きが慾しくはないか、

っおもえばN響は、っえ、っいまでも泉岳寺の練習場なのか、ったぶんそうとおもうが、っそして、サントリーなどでも公演を有っているにせよ、ホームは渋谷である、対して日フィルなどは、杉並の新器落成爾来、っそこを本拠としており、っすなわち常時ホールで練習しているので、主戦場もまたサントリーである、サントリーを駄器悪器と云う向きもあるようだが、っぼくはそうはおもわず、っこんにちの日フィルのアンサムブルのたいへんなじゅうじつには、っそうした条件の蓄積がおおきく作用していようと、っぼくはおもっている、

っどこの楽団でも、っこんにちほどの腕がありさえすれば、っあと全体のひびきをいわゆる有機的のアンサムブルだといって褒めてもらうのには、っそれ以上の腕ということよりも、各声部の音色、音勢が相互に相応わしいか否かであって、っぼくは今次N響をたてつづけに聴いて、ったとえば、ホルンは全体のなかで音色としてもバランスとしてもキャラクターが薄弱ではないか、トロムペットははんたいに、ぱーん、っと破裂する吹奏を頼みすぎで、もっと、ふぁーん、とすっきり抜けてなお鋭い奏楽も当意即妙に遣い熟せなくては、Vn連中との最強奏のユニゾンにおいて不当に彼等を消してしまい、音量として十二分であっても、合奏全体としては瘠せ、格調を失するのではないか、、、っなどなどと彼等の合奏をややクリティカルに聴かずにはいられないのである、っそれこそ日フィルは、っこんにちトュッティにおいてそうした風格を体現しうるコンディションを獲得済みである、っまた、っかってはN響にとりあれほど自慢の種であった絃にしても、上に云うように、っなにか側鳴りとして精緻であることにばかり意が砕かれている憾で、っもっとひびいて残響をかむった音のそのムードを信頼したりといったことがあってもよいのではないか、っさもなくばずっとペン画の呵責のないクロッキーをばかり観せられているようであり、っもっと水彩絵具をさっと刷毛で掃いたような淡い色調だって盛り込まれてよいはずである、っぼくはそれも、っこんにちの日フィルからたびたび感得するのである、っだから、あるいは現時点では日フィルのほうが断然勝れているのじゃ、っとも云いたくなろうというものなのだ、

N響の内部事情として、声部間で、そんなにつよく吹かないでよ、っとか、そこそんな音色なのかな、俺ちがうとおもうんだけれど、っとかと忌憚なく云い合えるムードが、っいまあるのだろうか、っそれがしかしその有機的の合奏というやつに不可欠の条件であるとしたならば、オーケストラの良コンディションというものも、っじつにあすには崩壊するとも知れぬ砂上楼閣に相違あるまい、日フィルとて、っいつまたアヤしげになってくるか知れないのである、組織の裡で一個の人間とは、っひょっと有力でもあり、っまたしばしば無力でもある、己の役割に殉ずることなどわけはなく、っただ一所懸命に取り組めばよいだけのことである、っそうではなく、全体のムードを作るということ、っその次元までくるとやはり、個々のテクニークの有無などとは、っすでにしておよそ次元の異なる問題である、ムードを作れる人であるならば、っよしんばその人自身はテクニークに不足するとしても、っなお組織はその人を慰留すべきであると云ったとして、っけっして云いすぎではないであろう、N響がいまさようのムードを有てずにいるのだとすればそれは彼等の不幸であるが、っしかしそうした人間力を有つ者を指揮者や楽員に呼べるか否かは、っなにか物差しで測れるようなことではなく、っおよそ宝籤を当てるような頼りない話である、っぼくは近年、日フィルの演奏会にたびたび通って、っもう音が鳴っている瞬間瞬間に、仕合わせで仕合わせでたまらない、なんてすばらしい音を出すオーケストラなのだろうっ、っとうっとりと聴き惚れてしまうのである、っその多幸感がN響からは、っぜんぜんと云ってわるければ、っさして得られない、個々の士気が、っわざとそうしているのかと云いたいくらいに、っなにかいつもボタンを掛けちがい、空転し合うようなのである、演奏会が済んでのお客の㐧1声が、仕合わせだったっ、っであるならば、っそれは音楽家としても冥利に盡きるのではないか、N響が、っそうした満堂へ幸福を惠む楽団と成り遂せることを希ってやまぬものである、



演奏の具体だが、劈頭の〈序曲のマーチ〉は、音勢としてやや吹きすぎるトロムペットにより、絃と交代交代の主題ではその絃がよく聴こえず、っもっと周到な差配がありえた、

っすぎやま氏の筆はひじょうに質素質朴であり、っごちゃごちゃと多声が折り重なるでもなく、っだからアンサムブルとしてぜんぜん嘘が吐けない、っほんのすこしく合奏能力が脆弱であるだけで、っすでにして据わりのわるい音がしてしまう、っきょうのようにエルガーやストラヴィンスキーと並べて奏するとその観も一入で、多声的であれば、っどこかがよわくともべつのどこかで補えば、全体のひびきはぜんぜん丸く収まる、っその点できょう下野氏とN響とは、小曲の羅列とはいえ全奏に小1時間を要する《DQⅢ》においても、恆にまず非は打てない音を鳴らしつづけたのはそのとおりである、

前半の《Ⅳ》の〈栄光への戦い〉では、ロンドン・フィル盤では通常戦闘曲の前後半ともにリピートを止しているのに対し、N響盤ではそれを行なっており、っあるいは音盤ではきょうとちがって、全体のリピート後もまだ個々のリピートをしていたか、っそれはいま記憶にないが、っともかくそうだったので、っつまり音盤の収録内容も加味した再現となっているのかとおもい、俄かに〈そして伝説へ...〉の件の1小節にも期待が募るが、音圧がつよくてはっきりと聴き取り切れなんだとはいえ、当該部分はおそらく出版せられている譜面のとおりに奏されたのだとおもう、っもし音盤のとおり改変した音であるならば、Vnは高音域なので、っいかな全体の音圧がつよくともそのとおり聴こえたろうからである、っほかに、村の曲の冒頭のホルンの重奏は、っあれはロンドン・フィル盤時点でもいまだオクターヴ上であったか、っあそこはあのハイ・トーンでのハーモニーを聴くほうがずっとたのしいので、っあれでよかった、〈王宮のロンド〉は絃の後ろのほうのメムバーは休ませていたが、っとちゅう、っほんのすこしくコン・マスのソロがあり、音量バランスを慮ったのであろう、っその長原氏の音色、唄い方はすばらしく、っそれからすると、っさきおとついのショスタコーヴィチにおくマロ氏は、1楽章のコーダにせよ2楽章のトリオにせよ、っもっともっと一世一代の表情表現がありえたはずである、

っとちゅう、FC版にせよSFC版にせよゲイムを遊んだ記憶が去来し、不覚にも胸が震ったが、っぼくは《Ⅲ》のスートでは、〈祠〉の曲がすきである、前段の〈レクイエム〉は単純極まる楽曲だが、っそれはここではあたかも次曲への序奏であるかのようで、っすばらしいブリッジを經て〈祠〉へ至り、絃合奏の扱いはやはり質素そのものだが、っしかしその2ndやVaの役割こそは至妙である、

下野氏の造形では、〈冒険の旅〉の序奏をうんと腰を落としたテムポに感ずるセンスがうれしい、主題のリピートでとちゅうトロムペットをレガーティッシモにするのは、っそれこそN響盤における表現の忠実な再現であり、っおそらく譜面にそう指定せられているのだろう、っここはロンドン・フィル盤ではやや等閑にせられていた嫌いがあるので、讚意を示したい、

アンコールの〈結婚ワルツ〉はなんの変哲もないワルツなので、っすぎやま氏の存在感を示すという点では、《Ⅳ》の〈導かれし者たち〉などのほうがより独得の筆致かとはおもうが、っまあ、全体にまずまずの演奏内容ではあったか、《火の鳥》なども、っごくごくハイライトにすぎなかったというのに、下野氏のぎっちぎちの棒によってN響が彼等の演奏能力を満々と誇示し、〈カスチェイ、、、〉や〈終曲〉は怒濤のごとであったし、〈ララバイ〉は一転、っちゃんとムーディであり、っそこからホルンへ光明が差すまでの間の絃群の最弱音のトレモロは、っいかにもミステリオーソであったことだ、



っさて、っお次は木曜、上野小器にて、佐藤久成氏のリサイタルかな、っその日と前日とは板橋の試掘と云われているのだが、願わくは、板橋2日目が午后まで仕事があってくれたいもので、現場から直帰で上野へ向かいたい、ヘタに午前中で済んでしまうと、聖蹟別棟へ戻って仕事をつづけざるをえないからな、ボスは悠長ボスで、っぼくは一作業員として出向くので、っそのへんはごにょごにょこちょこちょっと交渉して、じゃあいいですよ、水野さんはもうここで上がってもらって、っと云ってもらうように巧く持ってゆかむ、、、っひどいこと云ってら俺、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)