上野、 | ざっかん記

上野、




井上キーミツの棒、都響公演、済む、演目は楽聖とショスタコーヴィチとのともに《6番》というおもしろいプロ、

《パストラール》は、去年、新日本フィルとの演奏を川崎で聴けるはずが、キーミツのご療養によりその棒は広上氏となって、っただ、彼氏はキーミツの趣意を酌まれ、楽聖《6・5番》をこの順に、前者は10型だか8型でセロ・バスが3、2だかで、後者は16型の最大編成でという落差で、っどんなにか風圧に差を生ずるであろうとたのしみに聴いたが、記憶では、《パストラール》をそんなに小さく感ぜず、《5番》をそんなに大きく感ぜず、っすくなくも、編成の規模に見る目に変化を与えたということの効果はあまり上がらなんだようにおもう、キーミツご自身はどういうお心算なのか、年末の読響との最終公演で委細は知れようけれども、っきょうは都響と、っそのうち《パストラール》のみをやはり小編成で演奏されたのであった、

っぼくは、っおそらく都響の定期を聴くのはこれが初めてなのかとおもうが、大器3階の正面、視覚としてはわずかに舞台が遠いが、っおもったよりも上から覗き込むようではなく、っなにより、音響がとても怜悧である、怜悧だが、っまあそうね、渋谷でN響を聴くのと似ていて、っわりかし輪廓偏重の音っきり聴こえない、っただ、っよく見なんだ、8型セロ・バス3、2だったとおもう楽聖でも、冒頭から、致命的に音量が足りないなあ、音像が遠すぎるなあ、っという憾はいっさい懐かなんだ、っそれこそ、こっちもスピーカー使っとるんか、っとおもったほどだ、

っこうした音場やオケの性質も多分にあったかとおもうが、広上氏が新日フィルを振られたときよりももっと透かし彫りのような職人技の風情で、分厚い合奏では聴いたこともないような声部がふんだんに主張を成す、キーミツからそうした手応えがするのは少々意外であり、フィナーレの、っあれは2度目の主題の変奏か、っそこなど老練そのもので、っほとんど分析臭がするくらいであった、

っゆうべあまり睡ていないこともあり、っめずらかにも休憩時は外出、喫煙せずに自席へいる、

ショスタコーヴィチは、2楽章をたっぷりと構えて異様な解像度を具現、なぜ《10番》ではこれをしてくれなかったんだろう、っと地団駄、っやはり全般に輪廓偏重に聴こえ勝ちの音におもったが、っそういうのが似合う作家、作風でもあり、っおおきにたのしむ、



、、、っいま聖蹟別棟までもどってもう日附が変わる直前、っあすは《雨月、、、》くんと哲学科出先輩のおふたりに午前中のみ一寸した作業をしてもらわねばならないのだが、っあさから雨のなかその段取りをさせるのもわるいので、っいまぼくがそれをせむとするも、数年来、雨っ曝しのずたぼろブルー・シートへ包まれたコンテナの内には水が溜まっており、手を入れて触ったビニール袋かなにかはぬめっとしている、っその瞬間に深夜サーヴィス残業の戦意を喪失し、石鹸で手を洗って、っいま帰り支度、、、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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