ざっかん記 -16ページ目

池袋、




井上キーミツのプッチーニ《ラ・ボエーム》、済む、演出、振附、美術、衣裳は森山開次氏、歌手は2ティームで重複もおおいが、ロドルフォは全公演で工藤和真氏、昨年のキーミツ自作でも主役でいらした、ミミはおとついきょうと仙台、京都とがルザン・マンタシャン女史、っほかは中川郁文女史であり、4公演を観るぼくは川崎千穐楽でのみ、中川女史を望みうる、オケは読響である、

シムフォニー・コンサートばかりでオペラ鑑賞の習慣のないぼくとして、今春の上野での音楽祭におく同曲公演のライヴ配信を録画して音声のみを抜き、っきょうまでにおそらく10と数回は全曲を通して聴いておいたが、オペラは大半のものが筋は単純だし、人間劇なので、っべつに音楽をよく識っていなくともおおきにたのしめるだろう、亡くなってしまわれた、、、っぼくはそれをヴァクツィン接種がためではないかと疑っているが、っうちの会社のアルバイトさんで、イタリィで日本人向けのツアー・コンダクターをされて喰い扶持を得られながら画描きをされていたという男性がいられたが、彼氏は彼の地でも劇場通いをたのしみのおひとつとされ、っご帰国後もお暇さえあればあれこれの催事を渉猟されていられた、っその彼氏を相手にぼくが、ぼくは専らシムフォニー・コンサートで、オペラはハードルが高いですね、っと云うと、彼氏は、いやあ、シムフォニー・コンサートのほうがぜんぜんハードルが高いですよ、っとおっしゃられていたものだ、っそうかもしれない、シムフォニーは、曲がりなりにも曲をわかっていて、っこちとらから主体的に音楽をたのしみにゆくことができなければならない、っさもなくば2時間の公演中、っひたすらの退窟か、っもしくは疎外感と睡魔とに襲われざるをえない、オペラはその点、っむこうからたのしませに来てくれるので、っお客はぼんやりと受身でいることも可能であろう、っふだんクラッシックとは縁もゆかりもないという人が飛び込みで劇場へ入ったとしても、っある程度は満足を得られるのにちがいないし、っすくなくもまったくのちんぷんかんぷんということはないはずだ、シムフォニーはそうはゆかない、自分なりに曲をわかっている心算でいて、っどのような演奏がその曲にとっての名演奏であるのかについての一定の認識があり、っもちろんそれは大半の演奏によっては叶えられない、っわるい演奏が行なわれるからというよりも、自分とはちがうかんがえ、っちがう感情を有った人が指揮台へいるからで、客席で、あ、俺の聴きたい演奏はそれとはちがうんだ、っとなったとき、待てよ、でもこういう演奏、こういう表現もあるのかもしれない、っという自己批判を動員する心理の瞬発力、っなどなどを具えており、っさように己の認識が当の演奏によって揺るがされることを自らたのしむことができないと、コンサートというものは完全に、っどうしようもなく退窟である、

っちなみに、SNS上で諸賢のコンサート所感を瞥見、、、僭越ながら、眞剣に読ませるだけの穿ちと筆力とを有っている人に、っぼくはいまだにひとりとして出っ喰わさない、っまず誰も、構文が凡庸窮まる、っもっと日本人として我等が国語を愛し愛して愛し抜いてくれないでは、文章というものへ本格の読み応えが宿ることはけっしてない、っさておき、っかなりの好楽家、コンサート・ゴーアーとおぼしき人でも、俺の望んでいる演奏をしてくれなんだ、式の不満を表白する人がしばしばいるのは、っぼくなどには少々意外だ、意外だし、っぼくはその人たちに対してこそ不満だ、っぼくはそうした傲慢、、、傲慢であろう、っちがうか、諸賢よ、っは、っせいぜい30歳がらみあたりを最後に、っきっぱりと卒業した、自分の望むのとちがう音が聴こえてきたとき、俺はこの曲のこの部分ならばこう奏するのがよいとおもっているのに、なぜこの人、、、指揮者のことだが、なぜこの人はそれとはちがうかかる音をしかし一途に信じて鳴らすのだろう、っとさようの音が勝れているとおもえるその彼彼女の信念へこちとらでも追い縋らむとする批判精神の雀躍をみずからたのしむ、っくりかえすが、っそれがぼくのシムフォニー・コンサートの客席における態度である、っぼくはいつも、自身の嗜好へ圧倒的の変更を迫られる瞬間をこころ待ちにしている、参りましたっ、っと云わされたがっている、俺の望むとおりの演奏だった、は感銘のでなくむしろ不満の表明でさえある、音楽家なら、舞台人なら、聴きに来るっきりのお気楽なお客ごときの信念なぞ、俺が私が塗り替えてみせるっ、とそのくらいの剣幕で音を鳴らしてこい、っと、っさようの姿勢を、すばらしい日本語の連なりだっ、やはり日本語はうつくしいっ、っと唸らせる文体で綴る人は、っかなしいかなSNSの巷へはついぞいた例がない、、、例はレイでなくためしと読んでね、

駄弁だったが、っそんなわけできょうは長大な上演時間にも拘わらず、コンサートのときのような精神力は要らず、っただただ舞台の豊饒へ身を預けていればよいっきりであった、、、豊饒と云う条、舞台上の彼等は物理的にはいかにもじり貧の若人たちなのであるが、

森山氏としては、兵庫においてストラヴィンスキー《火の鳥》でともに舞台を踏むこと能わなんだキーミツとの共同作業であり、年来の宿願の達成であるのに相違あるまい、演出として、不明のぼくは他のディレクトールディレクトールが過去にどのような采配を為してきたかを識らないが、ムゼッタあたり、人心の機微を解しない手合いでは単なるあばずれとして描いてしまい兼ねないのではと危ぶむ、っその点こんかいの森山氏は、2幕においてちゃんと彼女を、ミミとはおよそちがう仕方で、しかしこの人もちゃんと純眞純潔の人なのだ、っとありありと伝える、プッチーニの筆にしてからが、彼女が懸命に色情狂を装ってマルチェッロを挑発する際にミミに、あの人はほんとうは彼のことを愛しているんだわ、っと合いの手を入れさせる心憎さで、ミミの今際の際に、あたしはいいからどうかミミをお助けください、っとサンクタ・マリアへのしんからの祈りを捧げるのも、っほかならぬ彼女である、

っぼくはもう、主役おふたりの出逢いの場、ミミが鍵を失くしたと唄い始めるほんの序盤も序盤から、っしかし泪を誘われずにいなんだ、恋の胸苦しさよ、、、池袋の大会堂は瞬く間に狭く暗い屋根裏室へ比定せられ、時空は男女2人っきりに独占せらる、っがじっさいには、っその密室での秘密を2千人になんなむとする人間が固唾を飲んで目撃しているのである、っこれこそ舞台藝術たるものの眞なる醍醐味にほかなるまい、オケは1階席の前方を潰してそこへ居並んでおり、深くピットへ沈んでいるというのではないため、っその向こう側の舞台上の歌手の声は、っやや器楽に蔽われ勝ちとなるが、っまあ許容範囲であろう、テムポは概してゆっくりゆっくりとしていたようだし、単なる刺身のつまには終わらせず、っおもうさま伸縮を孕み、要所では身を擲げ出さむばかり音楽へ没入する棒捌きは、キーミツの生涯の総決算に相応わしい勇姿である、意気に感じた読響のアンサムブルもすばらしい、

1・2幕はつづけて上演さるが、幕間の舞台転換は、道化パルピニョールによるパントマイムで繫ぐという一興、っその2幕は絢爛たる喧騒が哀しさを浮き彫りにし、云ったようにムゼッタに無類の陰翳を与えて、主役2人の恋路に拮抗する太い太い伏線を形成、全体としての奥行ある悲劇を可能とす、咬ませ犬アルチンドロは、録画した上野での歌手が、っすっとぼけた地声の馳驅といい演技といい、手を焼きながらもじゃじゃ馬を囲っていられる自身に満悦しているご老体、っとの人物造形をみごとに体現しており、っそれからするときょうの歌手はやや眞面目に唄い、振る舞いすぎるようで、っもうひとつそのポジションが明確に伝わらなんだのではないか、

3幕はカップル2組のクヮルテットだが、上記、オケの音勢の問題もあり、音楽的にみれば、っふたつのドラマが並行して展開するという妙味は十全には発揮せられなんだようにおもう、っただ、痴話喧嘩の涯てについにムゼッタへ、魔女めっ、っと吐き棄てるマルチェッロの怒声はまったく迫眞で、客席のこちとらでもじつにどきりとしたものだ、

っそして終幕、敢えなくも可憐なる花は散る、男たちの軽口であっけらかんと幕を開けるのが怨めしいくらいだ、

《火の鳥》のときにも感じたことだが、森山氏の演出は、溢れるばかりアイディアがおありになり、消化、昇華にご当人、相当度の難儀をされるのではないかとおもうが、結果的にはおみせになりたいことの心棒が太く太く観る者の心裡へ印象し、っこちとらとしてはすんなりと作品世界へ惹き込まれ、っその空気をぞんぶんに呼吸することができる、一歩の間違いで無法に創意が氾濫し、ハレイションを起こしてしまっておかしくない異才でいらっしゃるはずだが、無用の要素は捨象し、切り詰めるということの大切を、永年のご経験から熟知していられるのだろう、キーミツもさぞややり甲斐のあるお仕事であるのにちがいない、っぼくはあと3度の機会、器の容積、形状がそのたび毎に異なり、オケが異なりコーラスが異なり、っそれによる手応えの変遷を心してたのしまむ、



っさて、っお次は土曜、っまた夕からで、川崎の、ミューザではない別の器にて、アマチュアのマーラー《5番》、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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っみなとみらい、




佐々木新平氏の棒、神奈川セリエス・オケなる団体の公演、済む、

っあさは池袋経由で、井上キーミツの写真展を観て来る、っやはり1時間ほどっきり滞在しえなんだのだが、っなんだか各施設の催事を掲示するモニタには、っきょうもコンサート・ホールはキーミツたちがご使用中とあったような気がするから、中1日も舞台上でプローべなのかもしれない、っぼくはその脇のギャラリーへいたわけだが、っありがたいことに、っぼくのいた小1時間中には、っお客はぼくともうおひとりおっちゃんのみで、落ち着いて観られた、

っそれにしても、キーミツは、っとくにお若くとき、っそれに幼少時は、っあきらかに白人の血の混ざった風采をしていられる、っいっぽうご両親はいずれもこってこての日本人のお顔附きだ、っそれでご当人、中年へ至るまで実父のご存在を勘繰ってみられなんだというのは、っどうしたっておかしい、っおそらくは、兼ねてより俺の父親はこの育ての父とはちがう人だなとおもわれながら、っじっさいにご母堂へお訊きになって眞相を知らされたのが遙けく後年であったというだけのことであろう、

っぞんがいたくさんのお写真があり、中途からやや駈け足となってしまったが、っひとりの人間の幼年から老年までをあのように短時間で観ると、細胞は日に日に作り替えらるというのに、その再生能力はたしかに衰え、いずれは活動を停止せずにいないのだ、っというありふれた事実へおもい至らぬわけにゆかない、願わくは、っあと3月余、っあとほんの3月余だ、病ももう無体ないけずをしないで、去り行く老兵へしかしまばゆい光芒を放つことを許されたい、っそしてぼくらには、っただそれを客席でみ届けることっきりできない、っそれがいつの日も、演奏会の演者とお客とというものである、



っさて、JRで桜木町より¥100ほど割高だが、乗り換えなしでみなとみらいまで来られるので、っきょうは副都心線にて、っそれできょうの掲題は桜木町でなくみなとみらいだ、

演目は外山雄三《ラプソディ》、ドビュッシー《小組曲》、伊福部昭《SF、、、1番》、っそしてサン=サーンス《オルガン》である、去年から、っこの器で《オルガン》を聴くのはもう何度目になるのか、

っまるで同器、っしかもほぼおなじ位置で大横綱、日本フィルの貫祿を聴き届けたきのうのきょうで、大谷と草野球とくらいの落差だが、オケは若い面々から成り、アマチュアとしてはまずまずの合奏能力だ、っしかも、開幕からしばらくは音の凝集力、密度に不足し、隙間っ風が吹き勝ちであったところ、伊福部のゴジラのテーマが去り、低音から歌謡楽句が出るあたりから俄かに精彩を得、っのち、曲はあのとおり轟々たる進撃となるが、金管も打楽器もみごとにひびきがすかっと抜け、騒音とは無縁、っちゃんと意味を有った音色が薫るようになる、っそして《オルガン》においてもこの好調を維持し、っなかなかの好結果を生んだ、

棒の佐々木氏は、っぼくが入場すると舞台上でマイクを持たれて曲目の紹介、解説をなすっており、長身瘦軀のしゅっとしたあんちゃんで、っさいきんの役者さんみたような風附きでいられた、棒はといえば、フォルテは定まって力瘤を作って撲り附けるように振らなくては気の済まない、っつまりいまだ尻の青い感触だが、掲げた左手を宙空へ浮かせたままにしつづけられると、若いオケからはそのとおりしばしばセンプレ・マルカートやセンプレ・テヌートの励行が聴かれ、っとくになにということはない平凡な指揮者とオケとかとおもって侮って聴いていたぼくは、おや、っとややかんがえを改む、

っそれをちゃんとしてくれる指揮者、楽団の、っなんと世に稀なことか、瞭然たる強勢の要さる場面で、フレイズの頭のみかっちりと鳴らして、っしかしのち、っふわあああっといつの間にかフェイド・アウトせしめてしまう誤魔化しの奏楽は、っじつに市井に澎湃としている、っちがうだろっ、大事な楽句はそれを弾いている間、っずっとずっとマルカートなんだよっ、っという、スタミナが保たないとか、っそんなことはこちとら知ったこっちゃない、保たないのなら、っそのスタミナをつけるべきなので、スタミナ温存のために音楽を犠牲にしていてどうするのか、っそれに、スタミナがというのは演奏家からはよく聞く話なのではあるが、楽器をまったくやらないぼくは、っそれはいったいほんとうだろうかといつも訝っている、っだって練習では場合によっては本番よりずっと長い時間、音を出しつづけることがあるだろうし、っまた、道中でのほんのすこしくの強勢を維持するかサボって減衰せしめるか程度の差が、全曲の大団円へ至ったときの余力に決定的、致命的に影響するともおもわれないからである、っむかしはプロフェッショナルの楽団だって、午、っよるダブル・ヘッダー公演みたようなことを平気でやっていたのだ、スタミナが切れたら途端に音が出せなくなるとか、音色が汚れるなどということはないとおもう、切れたら切れたなりに、っわずかの力でも最大限の音量を得る方法とか、疲れていても音色の清浄を保つ方法とか、っそのくらいのことは身体で識っているというのが、演奏家ではないのか、、、楽器なんにもできやしないのに、っここまでの雑言を吐くという、

っま、っともかく、っそんなわけでエンジンが掛かってくるとなかなかに気骨のある奏楽と成り、っしかもそのことが粗暴さへ繫がらずに、っほかでもない《SF1番》みたようなけたたましい楽曲を演っている最中に一種のハイ・モード、労せずとも自然と音楽が羽搏いていってくれる状態が訪れたことで、っきょうは勝負あった、っあれを客席で見届けているときの心境というのはじつに名状に堪えないもので、あ、もうこの人たち大丈夫だわ、こういう音が出たらもう大丈夫だわ、ずっと好い音楽を聴かせてくれるわ、っというふうに批判精神が吹っ飛んでしまう、っお客は娯楽のために来場するのだから、2時間の公演をずっとクリティカルに意地悪に聴いていねばならないというのも、っそれこそ疲れる話である、っぼくのいつもいわゆる、仕合わせ、っそれを惠んでくれるのが、最もすばらしい演奏であるのにちがいあるまい、

《オルガン》は、楽器構成の薄い個所など、っもちろんときおり脆弱な音がしはする、っけれども1楽章前半のさいしょのトュッティ、っよりおおきく膨れる2度目のそれが、っともに十二分の迫力を有ってしかし音場へさっぱりと抜けてゆく爽快は、っけだし仕合わせである、っきのうの日フィルも、っかかる音を発していたのだ、

同章後半では、ルーシーのオーガズムが音場を微震動せしめるあの感触こそは器へいなくては体験の叶わないところで、絃は後半ではディヴィジもあってひびきが薄いが、っかえって静けさを演出す、木管各種の実力にはややばらつきがみらるが、っなかではオーボー1番の女性がたいへんな腕利きで、っその円滑な吹奏にはじつにうっとりとしてしまう、

2楽章前半は、っあの絃の冒頭の動機へ合わせるティムパニがどうもタイミングといい音の硬さといいしっくり来ない演奏がおおいなか、っきょうのだいぶん頭が薄くなられている男性奏者はもののみごと、ピアノは大人しそうな女性で、高音が煌めかず、トリオへ虹を懸けてくれないのが惜しい、

っついにルーシーもストップ全開の同章後半は、彼女、、、ルーシーって女性名だよね、っの音量は弾き方によってはやや過剰の気味があり、舞台上のオケとの間でアンバランスを来たすのを惧れるが、っむしろ最良、っただ、コーダは、オルガンは最後の全音符まで最大音量を我慢してくれたが、っそれでもトロムペットのポリリズムは音型をかっちりと聴かせるには及ばなんだ、っやはり、っせっかくに最後の最後にあんなにもカッコいい名場面が用意せられているのだから、っあのトロムペットはきっちりかっちりと聴きたい、っとはいえ、全体のひびきの手応えとしてノーブルであったのはそのとおりで、慾を云えばの話、



公演事後は、器の近くへ三和の名古屋コーチンの親子丼を食べさせる店があるのをきのうそのへんをぶらついていて見附けたので、入って食す、愛知県人には馴染みのあのローカルCM、♪とってーもやわらかどなたもほめる、さんわさんわさんわのーわかどり、おいっしいったらないね、っというあれはまだいまでも放送せられているのかなあ、ったしかニワトリとかが出てくる古ぼけたアニメイションのCMだったように記憶するが、

っそれから、っきのうのカーチュン・ウォン氏の公演の配信動画は視聴権を購入しておいたので、っまたうれしく録画しておくとせむ、



っさて、っあすは池袋、っついにキーミツの《ラ・ボエーム》、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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桜木町、




ゲルハルト・オピッツ/カーチュン・ウォン/日本フィル公演2日目、済む、演目はブラームス《2番》コンチェルトとチャイコフスキー《4番》と、

午前のみ仕事をし、っようやっと世田谷の中学校校庭調査の概報下見せを世田谷区お役人へ送附す、試掘調査と云う条、何十mというトレンチを10本掘ったため、図面を作るのでも一苦労、貼附する写真を撰ぶのも手間で、結果的に32頁、32頁の冊子ってけっこうだよ、っそりゃ半月の余も掛かるわな、現地調査中に考古志望の高校生が見学に来られて、夏休み明け、っそのことのレポートを提出せねばならぬので調査写真を何枚か送ってくれろと頼まれ、電話で話すと高校生にして受け応えのしっかりとした女の子だったが、写真だけではわかりわるかろうと説明の文書を打っていたらそれもWord.で3枚くらいになっちゃうわで、っいろいろと手間取った、っこれで三鷹の試掘の報告も宿題だわ、来週末と再来週頭には狛江の試掘へ行ってくれろと云わるわ、っなにかと立て込んできた、

っしかし、っやはりこのくらいのほうが仕事仕事している、三鷹の試掘は病院の構内で本体工事の業者と相伴、、、読みはショウバンだが、っご承知のとおり現場界隈では定まってアイバンと読まる、作業ということもあり、社長が事前に下見へ行こうというのでその車へ乗った際、っどうしても永遠に了わらないかにおもえる中央区仕事の話になり、っぼくが、いま世田谷の報告書作っていて、なんというか、健康だなとおもいますよ、っと云うと、そうだよねえ、了わりがあるからねえ、そこに向けてやろうかってなるよねえ、それが仕事ってもんだよ、っと云わる、っほんとうにそのとおりだが、っまあ云っても詮ない、っさりげなく、いまの中央区の仕事は水野くんなに、遺構の事実記載かなにかやっているんでしょ、それはあとどのくらいで了わるの、っと探りを入れられたので、年内には目処を附ける心算です、っと応えてしまった、言質を取られた、水野くんあんとき年内って云ったよな、っという話だ、っまあ社長とて、間へ試掘やらなんやらほかの仕事が挿まらなければという前提くらい共有してくだすっているとはおもうが、っでも、っじっさいそのくらいでいったんは目処が立つ、っあまりに作業量がおおいので、っそのあとまだ残務整理がだいぶんありそうだが、っそれもしかし、っこちとらの一稿ができるというにすぎず、先方が赤を入れてこられて直してまた赤が入って、、、っそれ以前に、っぼくの担当分っきりでおそらく300頁超の原稿、っまず先方が目を通されるだけでも一寸したお時間が要ろう、っとうぜんながら本体工事は疾くのむかしに済んで現地にはすでにマンションが建ち、人が棲んでいる、っそんな巨大な建造物がものの数年で建つというのに、ったった1冊の報告書がいまだに出来ないとは、っさて刊行は何年先のことやら、、、

駄弁というか愚痴だったが、半どんで帰宅してシャワーを浴び、池袋で井上キーミツの写真展を観てから横浜行とおもうも、仕事が午休憩へ入ってその間つい喫煙仲間とだべっていて退勤が遅くなってしまい、池袋へ小1時間っきりいられなさそうなタイミングとなったので、っあすまた横浜行のその前に寄らむとおもう、っおまえはどうせあさって池袋行なんだろうがという話だが、当のキーミツの公演当日のため、っついでに写真展も見物せむかというお客でごった返すのを惧れているのである、

っさて、っきょうだが、っやはりきのうとおなじような位置、っきのうよりもなおオルガンへ寄り、楽員のほぼ全員のお背中を見る格好、っその位置は3段の階段状の座席となっており、っその3段目、っが、入場するや見る目に窮窟で、オケが鳴ったら直接音直接音してしまいそうな初台とちがい、場内でも視界が展けている感触がし、お、これならこんな舞台へ近くてもひびいたあとの音の成分も感得せらるかもしれない、っと期待を有つと、っじつにそのとおりであった、

っそして1日熟して日フィルもついに本領発揮っっっ、っきのうが不良コンディションであったわけではけっしてなかろうが、っすくなくも器との共振は、っほぼ同様の位置で聴いたぼくとして、断然きょうのほうが快適であった、っいつものあの絶好調の日フィルの音がするのである、

ブラームスは、っあのような曲調において滋味がしんしんと胸裡へ迫るためには、っむしろ楽音がいつもフレッシュで、音彩が鮮明に活きてこそとおもう、っきょう日フィルは、ったとえば2楽章のトリオ、っそして再現あたり、閃めくようなその鳴り方はいつもながら驚異的で、っこの曲では滅多に吹くことがないトロムペットを交えて最強音を鳴らしていてさえ、和音が透明度を逸することなく、音場の空間全体が水彩画具で爽快に染め抜かるようなあの感触は、在京のほかの楽団ではついぞ味わわない、ったとえば古部氏はトラとしてきのうきょうと乗られて、うわっ、これ俺たちもうかうかしていられないわっ、っと内心穏やかではいられなんだのではないかと拝察す、彼氏にかぎらず、近来のカーチュン氏公演では、N響勇退組、クラリネット横川氏、Va小野氏が乗られたことがあったが、っいずれも、え、N響ってぜんぜん頭ひとつ抜けていないんじゃない、むしろ頭ひとつ抜かれちゃっているんじゃない、っと冷汗を掻かれたのではないかとさえおもえる、っぼくの画学生時分、20年ほど以前には、日フィルがN響を脅やかす存在へ伸し上がるなぞ、誰ひとりとしておよそ想像だにできなんだことだろう、

っそういえば、っそのむかしの日フィルは、傍鳴り放題、絃はf字孔がこちらへ向いていない位置へ坐すと、ああ、音があっちへ行っちゃっているなあ、、、っというもろにそういう楽団だったものだ、っそれがきょうは、背中側から聴くVaもVcも、っまったく姿形も見えない絃バスも、っちゃんと全方位へひびいて、っこんなにも偏った位置で聴いているのに、全楽としてアンバランスのアの字もおもわせない、っごく近年に演奏会通いを始められた若い人のうちには、それしきのこと、っとおもわれる向きもあるいはあらむこととおもうが、在京の大半の楽団が、っごく近年までそれしきのことさえ満足にできなんだのが、東京の音楽事情というものなのである、っそのなかでもまさかの日フィルが最近になって一頭地を抜いてこられたというのが、っぼくなどにはまことにうれしい、ざまみろN響っ、っとは云わないことにするにしても、っほんとうにいま、日フィルは及び難い天下の名楽団である、っしかも、若手の有望株を誰も彼もN響ほかの楽団へ引き抜かれてしまってなお、彼等の移籍先のどの楽団よりも柔軟な響を発するのだから、っやっぱりぼくは、ざまみろっっっ、っと声を大にして叫びたい、

っそしてきょうはまた、オピッツ氏のピアノの聴こえ方もきのうに倍する感動であった、ブラームスのあの高絃同士のなお高音の和音は、っよほどの演奏で聴くのでなければぎらぎらと耳に痛いっきりで、っぜんぜん共感もなにもできるものではない、っおそらくは現代よりももっと狭い音場で、っわんわんとひびきまくることを念頭におもっての筆なのかとおもうが、っきょうはその高音の軋りがまるできんきんすることなく、っむしろ、ブラームスのよさ、っという云い種をしては不遜かもしらんが、っそれをありったけ発散し、1楽章の道中から、っそのバックに抱擁せられたソロは、っほんとうにドイッチュ後期保守浪漫の眞髓をこの現代の遠く異国へまざまざと伝道す、若くときのぼくはといえば、ブラームスを愛す、っという科白を聞いては、あんな不健康な和声とリズムとオーケストレイションとを愛しうるなぞ、気が触れてでもいるにちがいない、っと唾棄したものだが、っきょうのピアノとオケとの交響を聴いていると、っその心境も理解できる気がしてくるものだ、っそしていま、嘘佯りなく、っばかりか敬意を有ってかくおもうには、ブラームス党は、っちゃんとよい演奏をよい環境で聴かれる経験を得て、っさようの愛着を涵養してこられたにちがいないということである、っきんきんきゃんきゃんする刺戟的の音響では、っけっしてこの作曲家の醍醐味へ触れるには及ばないであろう、



っきのうは、っこんにちの日フィルの最大の武器のひとつ、ホルンが隙あらばごつごつぼこぼことしたワイルドな質感で、音量を出さないよりは出さむとする果敢さが、器との相性がわるくやや空回りする憾で、なにもそんなに吹かなくとも、っとときおりおもわせたところ、っきょうはどんなに吹いてもがっしりと音場が受け止めてくれ、っそうするともう痛快も痛快である、チャイコフスキーはさように始まって、っきのうよりも音響に勝れるため、っきょうはちゃんとカーチュン氏の造形をわかりながら聴いていられる、1楽章のコーダなどはたいへんに凝った造りで、全員での㐧1テーマ絶叫の直前にはルフト・パウゼ挿入、っその絶叫において金管、ティムパニを弱音で始めて襲い掛かるように漸強せしめるのは朝比奈さんとおなじやり口、最後の疾走へ至る直前には絃の偶数拍強調と、一歩間違えば足並みの乱れを生じ兼ねない語法の乱打で、聴いているこちとらのほうがひやひやしてしまう、心臓にわるい、

2楽章は稠密な漸強弱の操作による情緒の訴えがことのほか印象的で、っきのうとおなじく木管の1ピース1ピースが潤いを帯びて煌めくのがかえって胸苦しい、

3楽章主部は、っきのうよりもさいしょの主題の2nd、っとちゅうからのVaの動きの強調、っそして1stの高く上がる1音にギタールな倍音を発せしめる意匠が意慾的に為され、ったのしさ全開、全曲に亙って単純なエラーの有無という点でもきょうはすばらしい仕上がりだったが、トリオではクラリネット1番が1度っきり、きゃんっ、っとやってしまわれる、っご当人さぞかし口惜しかったことであろう、

フィナーレでは、演奏に直接関係のないことだが、2度目の祭典的の部分のあと、中速で絃合奏へ㐧1テーマが出て、中途から横笛が16分音符の合いの手を入れ始める、っその運指が難儀であるのか、っきのうもきょうも、っそこを1番氏が無事に、っというか美事に吹き了えられると、ピキェロの女性が左手で膝を叩かれ、密かに彼氏へ讚辞を送っていられるのが微笑ましかった、立ち開かる運命動機におくシムバル、グラン・カッサは、グィロティンでも降るかの無慚、残響を遠く遠く見送る間合いのふかさはカーチュン氏の眞剣の證し、っまんなかの静かなところからティムパニが再起すると、彼氏はクレッシェンドの間ずっと絃バスの方を向かれて彼等へ地鳴りのごと轟音を要請、日フィルは懸命にそれへ応じ、頭上で聴いているぼくのもとへもその唸りはずずいとひびいてきた、コーダのアッチェレランドも手に汗握るスリルだが、っそれでいて最終音はべったりと地を這う粘着力で、っしかも団子にならずにホルン、トロムペット、ロウ・ブラスそれぞれの最も快い質感がおなじ時間に並び立って鳴っているという、日フィルの日フィルたるの所以を象徴する完璧の幕切れであったことだ、

っきょうのプログラムへカーチュン氏の寄せられた挨拶文によると、彼氏は目下、っご家族と神奈川へお棲まいとのことで、ってっきり公演の前後のみ来日されるのかとおもっていたぼくには、っなにかうれしい、ハレ管のシェフへも就かれたことであり、っあれほどはっきりとご自身の音楽を有っていられ、っあの若さにしてそれを十全に叶えられるだけの手腕も具えていられるとなると、日フィルを退かれたあとはぜひにうちへ、っという声は、現時点でもかなりの名門からさえいくつも掛かっていると想像される、っよくかようの人を捕まえられたものだと、日フィル事務方へは衷心からなる感謝を述べたい、



っさて、っあすはまたここ、っなんだかアマチュアの演奏会、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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初台、




カーチュン・ウォン氏の棒、日本フィル公演、済む、

っきのうは仕事を休み、青葉で上岡敏之氏のピアノ・リサイタルのはずが、っおとついも晩になって主催から発表があり、演者の手指故障のために中止とのこと、各地で開催の公演のうち、っぼくはきのうとあと王子ホールへ行くはずであったが、っいずれもキャンセル、っまことにざんねんだが、オケ公演のほうは問題ないようで、札響も新日本フィルもとくになんの発表もしていない、っぼくは仕事が発掘調査と云う条、っまあ土木作業なのであり、四十路へ至ってようよう仕事仲間と身体の不調のことを話題にするようになってきたが、っおもえば音楽業界は会社勤めならば疾くのとうに定年の人たちがしかし雲霞のごと犇めく特殊な環境なのであり、ったまに公演キャンセルがあるほうがむしろあたりまえかもしれない、っそれに怒ってもよいが、じゃあおまえ一年中いっさい休まずに現場へ出られんのか、っと詰められたら、押し黙らざるをえない、

っきょうの演目は泰斗ゲルハルト・オピッツ氏を招いてブラームス《2番》コンチェルト、っそしてチャイコフスキー《4番》である、

初台で日フィルを聴くのも珍かな体験だが、2階正面の方へ良席がなかったのだろうか、同階右翼の舞台をすぐ眼下へ見下ろすぼくにしては偏った位置取り、っが、結果としてその位置でよかった、ったまにこのくらい直接音直接音したライヴもたのしい、

ブラームス《2番》コンチェルトのような曲想は、っお察しのとおりぼくごとき怠惰な耳ではこれまでほぼ完全スルーのまますぐしてきてしまったが、っきょうはまったく幻惑せられた、っいつものほどよい距離を取って聴く日フィルは無類の精妙が印象的だが、至近距離だともっと融け合う以前の、演奏の現場の音がする、っとうぜん木管のバランスがつよく、っひとりびとりの息遣いまで手に取るようにわかる、絃も、っほんの弾いたか弾かないかのような音まで細大漏らさず聴こえ、っその情報量の豊富を望めない2階正面という遠方で聴いていては、睡魔に勝てなんだ可能性大だ、

オピッツ氏はお伽話へ出てくる凄腕の鍛冶屋のじいさんみたような風采だが、っぼくの位置からは直接音はピアノの蓋の向こう側であり、っそれがかえって音々を円く削り、快い、脱力の極致といったその語り口には、安心し切って心身を委ねうる、

日フィルは恆のとおり席次がくっちゃくちゃで、なんであなたがそんな後ろへいられるんですか、っと見る目にたのしい、っきょうはオーボーの1番が新日フィルの古部氏、フリュートの1番はいつもは2番以下の男性、クラリネットも見たことがない人だった、ホルンの1番は丸山氏で、っなんだか足元が覚束ずによたよたと登壇されるように見えたが、開幕からひとりぽっちで吹かねばならない彼氏は、っちゃんとプリンシパルたるの面目を示された、

音が近いので、っひびいたあとのニュアンスや雰囲気は摑み辛い憾があったが、全曲の経緯をよく識らないまま聴いていて、曲想として、2楽章のせわしい主題を出したあとのVnとVaとの悩ましい歌が、ったとえばあれがイタリィ風情の発露だろうかとおもったり、3楽章のセロのソロには平凡にもほっこりとさせられたり、っそしてフィナーレは、彼の《ピアノ・トリオ》に聴くジプシー趣味ほどではないにせよ、っなにか抗し難い哀感を嗅ぎ、っずっとたのしんでいられた、っしかし、っこうした穏やかな情緒は、20代のがきんちょの頃では受け附けられなくてとうぜんであったとおもう、



チャイコフスキーでは俄然、鮮烈な音響となり、っそのコントラストも痛快だが、っここでも2楽章あたり、っすべて目に見えるように鳴る木管の動向が鮮やかだった、っただ、っいつものように距離のある位置から聴いたとしたら、っこれで特有のアッピールのある演奏だろうかとときおり勘繰ってみたが、先般聴いた彼氏の同《5番》からすると、っわりによく聴くチャイコフスキー《4番》の閾をおおきく超脱するものではなかったようにもおもう、

っあすも彼等の横浜での同プロで、午前中のみ仕事をし、公演は夕からで、気力があれば、っきのう行こうかともおもった池袋での井上キーミツの写真展へ寄ってからの横浜行とせむ、っその池袋ではついにキーミツの《ラ・ボエーム》初陣であり、っあすのカーチュン氏公演の動画配信があると予め知っていたら、っそちらを聴いていたところだ、っぼくは23日旗日のほうを聴き、っその後、仙台、京都、川崎千穐楽と4公演を巡る、演目はおなじでも全部オーケストラがちがうので、病み上がりのキーミツにはさぞかし重労働にちがいない、



っはてさて、っあした着て行く服がないので、っまだこれから帰って洗濯機を回さにゃ、っなんか記憶では、っあしたの切符もきょうとおんなじような位置だった気がするのだが、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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ギロッポン、




角田鋼亮氏の棒、シュレーカーのオペラの題から採ったというデア・フェルネ・クラングなる団体の公演、済む、演目はスクリャービン《法悦の詩》とマーラー《復活》とで、スクリャービンへもコーラスが参加す、

オケは青年晩期から壮年早期くらいの人たちが過半を占め、っおそらくは全員か大半かが専門の教育を受けた人たちである、コン・マスは、登壇されたその風采が、っどこかで見憶えのある人のような気がする、ったしか、知己トロムボーン奏者さんが乗られた三鷹でのマーラーを主演目にした公演で、っそれは《大地の歌》と《巨人》の初稿とと2度の機会があったが、っうちどちらかか、っあるは両のコン・マスが、っあんなかんじの人だったようにおもう、っまた、セロのトップは新日本フィルの人でいらしたり、っほかにもぼくのよく識らないプロフェッショナルの人が乗られていたかしれない、絃は1st18からちゃんと各声部2ずつ減ってバスは10と、規格外の巨大編成である、

っよってそのテクニークはそれなりだが、っただどうだろうねえ、っなにかこう、音が薄いんだよねえ、っしゃびしゃびしていて水っぽいというのか、っどうしてだろう、っそれはわりに腕聴き連中のしかし常時いっしょには弾いていない、臨時編成のオケではしばしば起こることで、不可思議のひとつであるが、っぼくのおもい違えでなければ、本格のオーケストラってのは、っもっとこうどすんと重かったり、っねちっと粘っこかったりといった音を縦横に発しうるものだが、

スクリャービンはしかし、っさっぱりとした清潔さをまだしも購えないじゃなく、ハープ、チャレスタ、グロッケン・シュピールといった音彩も星のごと瞬き、細かい音型も軒並みかちっと入るので、見通しが立ってきもちがよい、っしかし終盤ともなると、っまああの曲はああいう曲ではあるが、凝集したトュッティはどこか硬質で栄養価に乏しく、っその音量音圧とは裏腹に、っわずかに空々しさをおぼえずにいなんだ、え、もう曲終わっちゃうけれど、コーラスはどう加わるのかな、っとおもうと、っほんの最後の数小節で、あーーー、っというっきりであった、っそれでも彼等は譜面を携えていたのだったが、

棒の角田氏は、読響とコンチェルトを3つ演る公演を目黒で聴き、醒めた人だなあという印象を有ったのだが、っあのような中器では放っておいても音量として飽和するので、名うての読響にも助けられてそれなりに豊麗な音がしたところ、っきょうのように腕は一定水準以上でもひびきの細い楽団でサントリーの大音場となると、指揮者の無趣味、無感動がそのまま音へも露呈す、っなんだか、スコアへ、いまはこう、つぎはこうなって、そのつぎはこうなる、っと書いてあるからそれへ隨って音が変転してゆくというだけで、っもっと溢れむばかりのこのいまのエスプレッシーヴォ、ムジツィーレンが必然にしてつぎなる展開を喚び覚まし、感動に打ち震えつ音楽が生起してくるという手応えの致命的の欠如は、っじつに如何ともし難い、複雑な経緯を辿ってゆく楽曲のそこかしこで、緊張感を保ち切れずに時間を持て余し、退窟だからはやくつぎの展開が来てくれたい、っと、客席のぼくのみならず、指揮台上の当の彼氏がそうおもってしまっているのじゃないか、っとたびたび訝られた、

っとくに木管連中のアッピールの乏しさが、っその憾みを助長したようだ、っなにか舞台上でのみ音が鳴っているようで、っそれがぜんぜん客席へ飛んで来ない、単に音量としてももっともっと各人が自己主張してくれてよいし、っなにより与えられたロールロールを謳歌し切らむとするやはりその熱意である、音勢の相関とはおもしろいもので、舞台の音がそんなだから、っきょうはいつも以上に客席からの咳払いがノイジーに耳へ附いたことだ、っあれで舞台でこぼれるばかりの感動が謳われていれば、仮におなじ程度の咳払いがしていても、っさして感興を殺がれたりはしなんだかもしれない、

1楽章では、低絃へ応えてオーボーほかが葬送の主題を出すその瞬間からもう音の密度が低く、っこちとら音楽へ乗ってゆけない、シムバルを交える全曲最初のトュッティは、っべつに騒音が慾しいわけじゃないが、抑制趣味が鼻持ちならない、展開においては、横笛の㐧2テーマがハープの上を快速に滑ってゆくところ、破綻という破綻が起きるでもない、合いの手を入れるコン・マスのソロなどはふるいつきたくなるような美音だったりするのだが、っそうした美質が個別声部に限局せられ、全員で大切にバトンを渡し渡してゆこうという気概に欠ける、っもっとホルンの和音とか、っもっと滑らかななかでのかすかなスタッカートとか、感銘を約束するための手筈はいくらでもあろうものを、特段の手立ても講じないまま、っあんなにもうつくしいはずの音楽をいとも容易く小手先へ流してしまう、偏に、指揮者がありったけこころを動かして音楽をしていないことの帰結なのであり、酷を承知で、万死に価する、っと云い切ってしまいたい、音楽をしろよ音楽をっ、

っこの弊は、っやはり木管が重要なキィとなる個所で定まって訪れ、3楽章全体や、フィナーレでは最後の審判の地獄画のような緊迫した場面でさえ、っどうも音楽がダレてくる、自分たちがいままさに鳴らしている楽曲が、必ずや聴く者へ感銘を与えるのだ、っと眞底から信じ切っていない人たちの音の脱殻である、

、、、っなんだかあまりにも酷い云い種だが、っこれもいつもいつも確認していることで、っそうした無感動な音と、っこちとらのこころをあざやかに拐ってしまうそれとでは、物理音としてはじつはそう大差がないのだとおもう、っなにか不幸な行き違いによって、感動は指間から零れ、っついにはまるで喪われてしまう、人間は感動屋ばかりではない、っとうぜんだ、っだから角田氏には、っべつに見る目に暑苦しい熱血漢になってくれたいわけじゃない、そう云うけれど水面下では俺のこころはこんなにも騒いでいるんだぞっ、っとちゃんと沽券を示してくれたいのだ、最も注意深く聴く者にはその執念がちゃんと仄見えるような、っさようの音楽を演ってくれたいのである、

っそうだ、ソプラノは森谷真理、アルトは池田香織の両女史、池田女史については、高関氏と東京シティ・フィルとの公演でヴァグナーを聴いた直後に病気療養が発表せられ、心配したものだが、っご復帰を祝したい、両女史とコーラスとを加えた最後の復活の高唱は、先般おなじここでフランス帰りの飄々としたおっちゃんが振られた同曲を聴いた際には、オケの元気がよすぎて声楽はまるで聴こえなんだところ、っきょうはちゃんと聴こえた、



っさて、っあすあさっては三鷹の試掘調査、っあす1日で終わっちゃいそうだけれど、夏休み中の世田谷の中学校校庭の調査の概要報告書もぞんがい作るのに手間を喰っており、急がにゃ、っしかし、一寸急がにゃならんくらいのほうが、仕事をしているという気がありありとするというのはありふれたイロニーで、っいつ了わるとも知れずにもう10年ちかくもつづけている中央区の仕事よりか遙けく精神衛生によい業務である、

っと云いつ、っつぎなる機会は今週木曜、暢気にも平日に休みを取り、横浜、青葉で上岡敏之氏のピアノ・リサイタル、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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高槻、




森口真司氏の棒、紫苑響なる団体の公演、済む、っいま、事後、器直近の王将で食事をし、在来線で京都へ移動中、京都からは新幹線だ、

演目はボロディン《プリンス・イゴール》序曲、シベリウス《7番》、ドヴォルザーク《新世界》、

器は去年、っいつかの大阪滞在時に足を伸ばし、大阪フィルを退かれた方が指導なすっている絃の小規模アンサムブルを聴きに来たそこであり、高槻城址の濠内に大中小器を一括したごく近年落成とみられる複合施設、っそのときは小器か中器かだったが、っきょうは大器、1,500席前後ではないかとおもわれるほどよい容積で、1、2階席ともに1席置きくらいの密度でほぼ客席全体が埋まる集客力、自由席で、着いたときにはもう長蛇の列だったが、っよろしく2階最前列右寄りの通路脇というぼくにとっての最良の位置を確保し、開演まで外出して喫煙するも、暑くてかなわず、汗だくになる、前半は絃9型くらい、後半は12型くらいで無理にがなくらなくとも優に飽和し、絃に対して木管などもつよめのバランスで聴こえる快いアコースティックである、

森口氏は先週、錦糸町でFAF管をお振りになり、マーラー《5番》ほかを披瀝なすったが、っそれは、棒自身は恆のとおり淡麗端然としてすばらしかったが、っざんねんながらオケの実力に不足し、っにも拘わらず後刻ほど力奏するのでようよう音色が汚れ、フィナーレの最後の最後にタテが乱れるという、っやや後味のわるい結果を遺した、

っきょうの紫苑響については練度が未知数で、東京くんだりから聴きに来てあまり巧くなかったらどうしてくれようとおもうが、開演前には舞台上へクヮルテットがお出になってドヴォルザークのなにかを演られており、っそのVaはすこしく音程が甘かったがみなまずまず弾ける人たちで、他の奏者もこれに準ずるテクニークであれば合奏全体として一廉ではないかと期待を有つと、っじつにほぼその通りのアンサムブルを望みえ、3曲2時間の公演全体を等分の解像度で聴かさる、っもちろんドヴォルザークも終局が近附くと相応の発奮がみられたが、っそれさえ美観を破ることなく、自然な昂りとして発露した、森口氏としてもこれでとんとんのレコンクィスタであろう、

っきょうぼくがうれしいのは、っこれまで音盤、実演を含めて何度も聴いて来ながらもうひとつなんのこっちゃよくわからなんだシベリウス《7番》が、初めてどういう曲だかわかり、ああ、いい曲だわこれ、聴いていてたのしいわ、っという実感を得られたことである、プログラムへ時系列順に展開を追った丁寧な解説を載せてくれていたのもおおきに鑑賞の助けとなった、っどうも、っあのトロムボーンによるコラールみたような主題が、重要動機であるにも拘わらず、っこの楽器の音色音勢として、巧く吹かせ、っまた他声部とのバランスを取らないと音型がよく伝わらず、っそれが伝わらないと全体の構成も見通せなくなってしまうのかとおもわれた、っそれがわかれば、っあとスケルツォ様のところは放っておいても音のほうで動いてくれるから退窟する心配はないし、っこの作曲家特有の和声や旋法も隨所に聴かれるし、っもう道へ迷うことはない、

っことしの暮れ、井上キーミツが彼氏の生涯最終公演で同曲をお振りになるが、せっかくの機会だのにこちとらよく馴染めない楽曲が含まれているのが難だなあ、いまからでも遅くないから当初のご計画通りマーラー《夜歌》に再変更、、、っちがうマーラーのお心算のところから楽聖になり、っでシベリウスを加えて、っそれをそっくりマーラーへ戻してしまえと云っているのだから、変更再変更の、再々変更か、っともかくそうしてくれたいとおもっていたくらいだが、っきょうでよい予習になった、っまだぜんぜん接触量が足りていないが、当日ある程度は、キーミツの演奏が好い演奏なのかどうかを判断しながら聴いていらりょう、っやはり演奏会というものは、曲がわかるかどうかなどという不案内な状態で客席へいても、っぜんぜんたのしくないものである、この曲であればあそこの表現をどうしてくるだろう、お、そう来たか、っというように、っつまり当の演奏がその曲にとって勝れているのかを曲がりなりにも裁定しうる状態で聴いているのが仕合わせなので、っそのきっかけがほんのいくらかでもないと、意慾を有って鳴っている音へ喰らい附いてゆけないのだ、

っその点《新世界》は、森口氏の棒とあらばもう大船へ乗った気でいられる、局所的に少々意外なテムポ設定、フレイズ感覚が聴かれたが、全体としてはもちろん硬派、辛口である、管楽器全般において、どこまで音を伸ばす、どこではっきりと切る、っということが意識的に為されていたが、っそのすべてを指揮者が註文を附けて励行せしめているとはおもわれないから、っやはりもとよりかなりのオートノミーを有つ楽団なのである、っこちとらでもとちゅうからそのことに気が附くと、聴き古したはずの《新世界》も途端にどこもかしこも新鮮に映じて、っまことにこころうれしい、

っとはいえ、っよほどの演奏能力を有つアマチュアであっても、っこの曲のフィナーレあたりは、《新世界》フィナーレのレプリカ、っというか、垂涎してしまうばかりほんとうの旨い食事でなく樹脂で拵えたその食品サムプルを見せられている、っみたような印象へ落着してしまい勝ちであるものだ、まずまず音が落ちないくらいには弾けます、程度では、本格の聴き応えからは遙けく遠いのである、っそれがきょうは、っあれでなかなかのアッピールであった、勝因は迫力更新が絃主体に成されたことで、バスもしばしばごりごりとワイルドな風圧を発すれば、Vnも熾烈に迸り、っそれが力自慢と堕さずに曲の発展にとって必然の昂奮として鳴っていた、



っさて、新幹線内はほぼ熟睡で新横まで戻ったので、っいままだこれを書き切れずに南大沢の喫煙所、っあすの旗日も演奏会で、サントリーで角田鋼亮氏がマーラー《復活》をお振りになる、

新幹線といえば、来月に2度、森口氏を聴きに大分までの日帰り旅程を強行するが、っその乗車日の1月前に売り出す割引切符の売れ行きを侮っており、っまず1公演目のほうの往路はよろしく購えたが、復路はゆうべ夜間で購入不能だったのでけさ再検索するに、っぜんぜん購えない、敢えなく次に安いグリーン券を購うが、最安の席よりも¥4,000ほども高い、抜かった、2公演目のほうはちゃんと往復とも最安のものを購えるように努めむ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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錦糸町、




森口真司氏の棒、FAF管公演、済む、演目はヴァグナー《トリスタン、、、》前奏と歌手なしで〈愛の死〉とと、マーラー《5番》とである、

っこの公演があしたであってくれたらなあ、っさすればゆうべは上岡敏之氏がピアノを弾かれるペーター・ローデル氏の《冬の旅》が聴け、っきょうはカーチュン氏を聴き、っあした森口氏だったものを、っしかもそのばあい、聴けないゆうべのカーチュン氏は配信動画で望みうるというまさしくザ・ベストの日程、っま、っしかし、演奏会の巡り合わせとはえてしてさようのものであらむ、

っきょうのFAF管は、っおなじ森口氏の棒で昨年、川崎で初めて実演を聴いたのであり、YouTubeには彼氏の棒になる、ライヴ・ノーツ・レイベルで馴染みのナミ・レコードが動画収録した数年前の錦糸町におくショスタコーヴィチ《10番》の公演の模様も上がっているが、川崎のときは自由席で、入場したのが遅く、2階の最良の部類の席は埋まってしまっており、3階正面右寄りで妥協するところ、彼等はやや線の細い、ったっぷりと満ち溢れない合奏であり、森口氏の辛口の造形は実感しえたが、物理音の量感としては不満を遺した、YouTubeのショスタコーヴィチにせよ、この手応えの合奏を客席で聴けば、脆弱さをおぼえずにいないだろうな、っという程度である、

っそれできょうもその覚悟を定めて来る、開演前の舞台上での浚いはまずまず豊富な音量であり、っこちとら理想的の位置取り、2階右翼の前方へ坐して、っこれはひょっとするとひょっとするかもしれないと期待を募らせるも、果たして、っやはりややよわいアンサムブルである、ヴァグナー冒頭から誰にも助けてもらえない弱音のセロのアルコは音程が甘く、産まれたての仔鹿みたようにぷるぷると頼りなく音が揺れている、っありふれたアマチュアの姿だ、っただ、森口氏の棒はあいかわらず淡麗にして厳密厳格であり、オケの技倆に制約のあるなかでも能うかぎりの曲趣のアッピールを成す、

マーラーは、プログラムを読んでいて膝を打つ、フィナーレのロンド主題はあきらかにブルックナー《8番》のフィナーレ㐧1テーマとアダージョのコーダの音型とを組み合わせたものだが、っこれまで音盤のライナー・ノーツや演奏会の楽曲解説などでその旨への言及をついぞ読まなんだ、っそれがきょうのプログラムへはちゃんと書いてあった、っこれまでそのことに気附きながらもどこへもそれが書いていないので、え、あんなに肖ているのに単なる偶然の一致で意図的な拝借じゃないのかよ、、、っと訝っていたぼくだが、っじつに溜飲を下げた、

っがその演奏は、後半になるほど息切れを来たし、ホルンの1番は3楽章においてもう音量がか細く、っはんたいにトロムペットは終局が近附くほど羽目を外し、放埓な音量と、相応の音色の汚濁とを結果す、っやはりマーラーは、っきょう日においてもアマチュアにとっては高い壁だ、

トロムペットの1番は女性で、次席に楽器を持ってもらい、松葉杖を突いてのご登壇であるが、曲頭のファンファールは、っわずかに1音吹き損じたものの、っその音色は、ぱ、っと開いた手応えで太い質感であり、っまことに快い、っこのファンファールを、ぱぱぱぱー、っとでなく、ぺぺぺぺー、っと細い、っぎすぎすした音質で来られると、っいかに上質の吹奏能力を有つ奏者であろうと、っぼくとしては馴染めないものだ、っやはりトロムペットは、ぱ、っと開いた音色、低い音域においては、ぽ、っと唸るような深い音色こそが基本のキであり、ぺ、っと喉を詰めたような窮窟な音質は聴いていてけっして愉快ではない、

葬送の門出はもたつかずすっきりと唄ってゆき、音色も濁らない、っそのうえ、厳粛のうちにもVaのリズムを弾み、音楽に活性が与えらる、流石に練達の森口氏である、

っこれはほんとうにおもしろいことだが、指揮者によって確乎として自分のひびきを有っている人もいれば、オケによって安定を欠き、バランスからなにからてんでばらばらになる人もいる、っゆうべのカーチュン氏にしてもきょうの森口氏にしても、典型的の前者の人であり、っきょうのオケは盤石の合奏能力とはいえないが、っそれでも技倆に勝れればさぞかしとおもわせるだけの音が絶えずしている、

2楽章の冒頭も、っなかなか迫力を出し切れずに、っなにか音楽が上滑りする憾を遺す演奏はプロフェッショナルでも珍かではないところ、っちゃんとぎっしりと各対位が殺到す、っただし、絃は細かい音型でまともな音量を出せず、対して金管はこの時点ですでにして必死に吹くだけ音色を汚しており、っゆとりがない、フィナーレと通有の主題で迎える束の間の勝鬨は、バーンスタインを筆頭とせるばたばたとした駈け足を嫌うぼくとして、っどっしりと腰を落とす森口氏には感謝深謝、っそうでなくてはっ、

3楽章は、云ったようにホルンの1番は乗っけからもう辛そうで、彼のみならず誰にせよあっぷあっぷ、っしかし、絃のトップ連によるピッツィのワルツは、Vnがアルコとなり、ホルンの対位と絡む部分がこの楽章のせつなさ、孤絶を代表するある種の名場面であり、っきょうの奏楽はちゃんと折れそうな繊細を伝えた、

アダージェットは、音量としては充ち足りないが、っふだん以上にハープの動きを賞味する時間だとおもうことにする、

フィナーレはますます金管が吹き荒んで来、っしばしば絃が消されてしまうのがざんねんであり、大団円は力盡くの粗暴さ、コーダは最後の最後で足並みが乱れたのがまことに惜しい、指揮者、楽員としても悔しかったことだろう、

っこの楽団へは、背伸びをせず、身の丈へ合ったプログラミングを望みたい、最も煩瑣な瞬間においてさえまだ若干の余力があります、っというのでなければ、っやはりマーラーを十全に乗り切り遂せるのは不可能である、

っさて、っあすはひざびさの予定のない日曜、っのんびりとカーチュン氏のブルックナーを録画するとせむ、っそれにしても、可能のかぎり演奏会へ行きまくらむとした去年とことしとで、通っている公演数はさほどちがわないのじゃないか、っこれから年末へ掛けても、土日のおおくは演奏会で埋まっており、平日に休みを取って行く公演もあり、ダブル・ヘッダーの機会も複数ある、地方へも何度も出掛け、宿を取っての旅程もいくつかある、っお銭を遣いすぎた2年間であり、来年以降はもっと節制せねば、、、

っお次は15日の日曜、高槻日帰りにて森口氏の公演である、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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ギロッポン、




カーチュン・ウォン氏の棒、日本フィルで、ブルックナー《9番》公演、済む、プログラムへファッスングの記載はないが、っまあどれであれおおきな異同はなかろう、アダージョまでを演って潔くはねる、拍手はソロ・カーテン・コールも含めて10分前後つづいたのかとおもうが、時計を見てもまだ20:20すぎだ、

客席は、閑古鳥が啼き勝ちであったのが惜しい、過去数種の公演はいずれも旗色闡明の大演奏揃いで、っそれを見届けてきた人も都近郊に大勢いようのに、っかかる重要プロへ挑まむとする彼氏の姿を望むべく駈け附けたいとはおもわないのだろうか、っその熱意のほどを疑る、

っとまれ、っこんかいもたいへんな演奏であった、っまず配置、絃は、Vnを左へ固め、Vaは表でVcは中とここまではなんの変哲もない、っがバスはホリゾントで、っしかも10もいる、っさようの配置を採ってもそのことによる音響効果がぜんぜん発揮せられない演奏も世に澎湃としているが、っきょうは覿面で、っもとよりカーチュン氏の際の日フィルの絃バスはごりごりとかなりソリッドな質感を志向しており、っそれがしばしばオルガンの最重低音と紛うばかりの質感を体現す、管については、木管は佐藤雄一氏みたように後列を通例と逆にはしていないが、金管はそうで、トロムペットが右、トロムボーン、テューバが左へいる、ホルン、ヴァグナー・テューバは左へ固め、ティムパニは右である、コン・マスはいつもの田之倉氏ではなくゲストで、っなんだか外国の若いあんちゃんでいらした、

っしかし、日フィルはきょうもまたいったいなんたる響を上げることだろうか、っほんとうに、聴いていてぜんぶが嘘か夢幻のようである、っどこまでもどこまでも無碍に羽搏いて、っおよそ留まるところを知らない、

1楽章の開始は、上岡敏之氏ほどではないにせよ、原始霧は最弱音、テムポは極めて遅く、木管の和音が鳴ると、早くも尋常ならざる色調である、ホルンの味も苦く、全員でクレッシェンドするとごつごつとしたすばらしい隆起を示す、トュッティによる㐧1テーマの確保へ向けて絃が動き出すとすかさずヴィブラートが効き、っはっと心裡の隙へ這い込まれるようで、っじつに鮮やかな手並みだ、音色を抑えずに煌めかせる木管は閃くように鳴り、っかえって大トュッティへ至らないうちからもう狂気の相へ踏ん込んでいるここちがする、っついに音型が細かくなり、金管、ティムパニを交え、トュッティへ達すると、っなおゆとりを余した鉄壁無類の合奏により、サントリーの大音場がびりびりと痺れる、曲頭から有無を云わせぬ鉄鎚の降下であるが、っこうでなければブルックナー《9番》は始まるまい、

っつづく経過ではピッツィをしっかりと高い質量で爪弾かせるのもとうぜんで、㐧2テーマへ遷るとやはりゆっくりとこころゆくまで謳う、ホルンの1番は信末氏ではなく客演でいられたようだが、っわずかな吹き損じをしかしご当人、気にして焦りを生じていられるのが挙措に露呈し、っのち、っほとんど全曲に亙ってトュッティでは吹かずにみなへ任され、っずっと楽器をくるくるくるくるさせていられるのがやや目へ障るといえば障った、っほかはみな吹かれているからホルンの方を観ていたいのに、大将も大将があたふたしながら、このままだと音ひっくり返っちゃうから、このままだと音ひっくり返っちゃうから、っというふうだからである、っまあしかし、っその必死の対処のお蔭もあり、彼氏はそれほど手痛いエラーを頻発されたというのでもなかった、閑話休題、同テーマ後半部へ入る部分では最上段横一線の絃バスがずしんと鳴って満堂を法悦境へ浸す、GPは遠く残響を見送ってなべて長く長く取られ、テーマ前半部へ還ると進行につれて自然と歩幅を詰め、抜かりなく音楽の失活を未然に防ぐ、

っけれども、㐧3テーマあたり、っやや抵抗なくさらさら流しすぎる嫌いがせぬでもなかったが、っそれも全体から逆算してのペイス配分であろう、

っここから先、展開、再現と逐次的に書いていたのでは夜が明けてしまうが、っどこか、っどこだろう、っそうさホルンがゲシュトップフトを用いるマルチアな部分、っあそこは宇野さんが日大管をお振りになった新宿文化センターでのライヴ盤のほんとうに軍隊行進みたようなきっぱりとした歩調もきもちよいが、本職の指揮者にはむしろのんびりとしたテムポのままの人がおおい、カーチュン氏はといえば、っもちろん宇野さんほどではないが、っほかの部分からすれば意図して前進性を強調されており、流石である、っそしてあそこでは、痛ましい歩みだったのに、中途から一寸っきりトロムペットが晴れがましい調へ移るのが憎い、人生の束の間の栄光を垣間見るここちだ、

っそれから再現㐧2テーマ手前の延々たる下降における各声部の動き方、っまいどながら、っあれはほんとうによくもああいう音楽を書いたものだとおもう、っぼくは最後のセロの動きがすきだ、っすきというか、っあんなものはもはや狂気の沙汰である、

っそのうえなお、っあの激越なコーダがやってくる、っどこまで聴く者を嬲れば気が済むのであろうか、っそしてブルックナーのあの手の息の長い登坂では、っとちゅうへ踊り場みたようなところがあり、っそれまででも張り裂くほど胸いっぱいの音楽だのに、っそこからさらに急峻な登攀を敢行するサディズムときている、っしかもそれを恬淡としてやってのけるのだ、っきょうはまた、全霊を振り絞った日フィルの勇敢なることといったら、

スケルツォは、遅い、っというほどではないが上滑りしない愼重なテムポを用意し、大粒のピッツィを時空へ刻み附けつ始める、ティムパニ、ホルン、トロムボーンによるデモーニッシュな地団駄では、っおそらく通例はダウン-アップ-ダウン、アップ-ダウン-アップか、っもしくはセンプレ・ダウンで弾かれるのだろうVnの4分音符の下降音型をすべてアップ・ボウというワガママ炸裂、ったのしい、トリオではホルン、トロムペットの地味な役割へも周到な目配り、

大事を取ってアダージョ前には再テューニング、っその冒頭の1stは過たず乾坤一擲の懊悩、、、っという云い種もヘンだが、っに身を捩り、和してくる他声部もつい勢い込んで濃密な音色にしてしまいたくなるところ、そのために音量を出しすぎるな、っと指揮者は掌で抑えるアクション、っじつに冷静だ、落陽を望むファンファールも、トュッティへ向けて上昇を始めるVaの《7番》の音型も、っそしてそのトュッティも、っいずれ劣らぬすばらしい眺望、っやはり日フィルは、背伸びしてやっとその音でなく、っまだぜんぜん余裕綽々ですというように、っしかし非の打ち所のない奏楽を示す、っこちとら唖然としてしまう、

㐧2テーマでは乗っけからぞんがいねちっこく絃を唸らせているのが印象的で、っこころを動かさずに崇遠な音楽をというよりは、破滅の刻へ向けて安閑とはしていられないといったところだ、っいっぽうでは客観的の冷徹さも具えるカーチュン氏のしかしかかるパッションは、っじつに愛すべき美質である、っただ、っついぼくの気分の問題であったかしれないが、ピッツィの伴奏が失われて以降の泪々の時間は、っぼくはもっと泣かされる心算で聴いていたが、っさほどでもなかった、っどうも、テーマ前半を粘ったぶんだけこのあたりは流れを重視してかるく捌いているようなところがあり、っぼくとはボタンの掛け違えか、っぼくはここをこそ、やや躊躇うように1音1音のために時間を取り、Vnのトゥリラーとフリュートとの重なりを大切に扱い、っとしてくれたかったのだが、

っとまれともあれ、演奏は先へゆくほど惜しむようにGPを長く長く取り、、、っしかしとちゅう、例のLの神秘和音ではその直前から不届者の着信音が鳴り出す、っまたそれが神韻を予示するようなきらきらした音色であったのがいかにも癪だ、っぼくにはよるの19時20時をすぎて電話をしてくるような友人知人はいない、電話が着信する可能性はほぼ皆無だがそれでもちゃんと機内モードにするのに、っなぜ、っまいにちよるだろうと誰かから電話が掛かってきてしまうかもしれないと本人わからないはずがないその人が、スマート・フォンを音が出るままの状態にして演奏会の客席へいて平気なのだろうか、っよのなかいろいろの人がいるからと悟り澄ましたことを云ってもよいが、っあんなときばかりは、てめこんにゃろめっ、いっぺん死んで人間やり直しやがれこなちきしょうっ、っとどやし附けたくもなろうというものだ、っとつじょテメエの着信音が鳴り出したらどんなにか肝が潰れるか、っそのあとどんなにか針の筵へ坐らされているここちがするか、っその恐怖へ想像が及ばないような輩は、ったしかにのうのうと人間をやっていてはダメである、死んでやり直さにゃ死んで、

っまあしかし、舞台上が中弱音でもそれを破ってそちらのほうが派手に聞こえてしまうというタイプの着信音ではなかったのが不幸中の幸いで、っどうとか気を取り直し、っついに破滅の和音へ至る最後のトュッティも日フィルは駄目を押さないまま踏破、GPはこのあとを全曲中で最も長く取ったものとみられ、コーダは敢えてのあっさり、っはじめに定めたテムポのまま最後ホルンが《7番》動機を昇り、ピッツィもそのテムポのなかで弾かせて了わる、

カーチュン氏の音は、曲想に応じた厳しさのなかにも恆にいつもの健康美が脈打ち、日フィルの信じ難い精妙と剛毅との両立と、っまたきょうの変則的の配置の妙とも相俟ち、オーケストラを聴くよろこびもここに極まるような一夜であった、っあすはもっと大勢のお客がその精華を胸裡へ刻むのであってくれたいが、っぼくは錦糸町、森口真司氏のマーラー《5番》だ、っきょうの公演は動画配信があるので、っまた録画しておかむ、っいままだ永山の駅でこれを書いており、っもう日附が変わって1時前、っきょうは午前のみ仕事をする心算だったが、億劫だから休んじゃお、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

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参宮橋、




小柳英之氏の棒、アーベント・フィル公演、済む、予報が予報の態を成していない、っよるは降らないはずだったので安心していたところ、っひどい土砂降りで、駅まで歩くっきりでもずぶ濡れになる、癪だ、

っとまれ、チャイコフスキー《3・6番》、先回とおなじ器で、二重扉の外側がまだ故障中だったので、っまたひゅーひゅーいう演奏中のノイズを耐えねばならないのかとおもうが、っどういうわけかきょうはそのノイズは皆無であった、っところが、っこんどは冷房が効きすぎで、数えるほどっきりいないお客の幾人かも寒い寒い文句を云っている、っともかく万事が無粋な彼等の公演で、っとうぜんぼくはすべて微苦笑とともに甘受している、っあってあたりまえとおもうなホスピタリティ、望む所だ、多少の不自由は耐えてみせる、っそういう気概を理解しない人を、っぼくは軽蔑する、

登壇される小柳氏はあいかわらずのたどたどしさ、不細工放題の振り姿、っしかし、っきょうはいつもみたような出処の誤りはほぼ起こらない、っもちろんどたばたした奏楽にはちがいないが、っぼくはオーケストラのアンサムブルというものは、っある種あれでじゅうぶんではないかとおもう、っまずまず弾けていさえすれば、っそこから先に慾しいのはさらなる洗練よりは音楽を訴えるこころである、

《ポーランド》は、緩徐章あたり、っあるいはぼくは《5番》のそれを凌いでいるのじゃないかとおもうほどで、劈頭のファゴットと横笛との音色から不思議だし、ファゴットとホルンととの呟き、絃の静かなピッツィの緊張感、っそして絃合奏の歌謡主題はいかにも切ない、っきょうそこが始まると、っぼくは泣かされてしまう、スマートな作為というものからあまりにもあまりにも遠いので、スマートじゃない、っとクリティカルに云いたい気がこちとらほんとうに完封せられてしまう、スマートさを志向していない人を相手に、あなたはスマートじゃない、っと云ってもそれは批判として成立していない、ええ、わかっていますよ、目指していませんからスマートを、っという話だ、っそしてくりかえすが、っかかる不細工な奏楽を、っぼくはぜんぜん演奏藝術のうちに数えてよいとおもう、っや、ぜったいに数えなければならない、っという当為をつよくおぼえる、

っそれまでの経緯に対してフィナーレの曲想が唐突かつ軽薄だと云われ勝ちの同曲だが、っきょうのそこはどっしりと野太く、フーガも野暮臭く、初めてこの曲の終曲たるの面目を示した格好だ、右へ固めた金管は荒ぶる咆哮を上げるが、渋く快い音色で、少数の絃はしかしこの野獣の群れみたような連中と懸命に渡り合う、

っそれでも《悲愴》では、1楽章の㐧2テーマあたり、っせめてもう一回りおおきな編成が慾しかったが、全体のぎしぎしいう合奏はここでも魅惑満載、ダサい小柳氏もしかし、1楽章の展開の中途でテーマを全員で絶叫する際にがくんとブレイキを踏んだり、2楽章のトリオ、3楽章の頂点もそう、っひびきを全開にしてゆっくりと全楽を見渡している姿は、裸の王様もここまで突き抜けるともはやカッコいい、どうぞそのまま素っ裸でいてください、っというところだ、

っところで、絃バスには佐藤雄一氏の関係団体のいくつかでも乗られている男性と女性とがいられた、っあんなにも性格性格の異なる怪人怪人と共同作業ができて、っさぞかし演奏家冥利に盡きることだろう、



っさて、っお次は金曜、カーチュン・ウォン氏と日本フィルとのブルックナー《9番》、翌土曜は森口真司氏のマーラー《5番》である、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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錦糸町、




森口真司氏の棒、東京楽友協会響なる60と余年の来歴を有つという楽団の公演、済む、

演目は、バッハのオルガン曲《幻想曲とフーガと》をエルガーがオーケストレイションしたものと、マーラー《トラギッシェ》ととである、森口氏は昨年フライハイト響でマーラー《9番》をお振りになったが、っそのときも前プロへシェーンベルクが編んだバッハが置かれていた、バッハ/エルガーは10分に満たない小品だが、事後は20分休憩、っが、開演直前に降りはじめた雨は同曲後もまだ降りつづいており、喫煙へ出られないで、っゆうべも帰宅が遅かったこともあり、自席へ戻って瞑目している、

オケはアマチュアとして老舗の閾へ存るだけのことはあり、バッハの時点ではほとんどプロフェッショナルと遜色がないとしうるほど、全パートに等分の実力があり、綜奏は抜群に安定している、低絃を背景にオーボー、クラリネットがまず幻想曲の主題をリレーし、中絃、高絃を加えると、っその雰囲気はまさしくファンタスティック、ハープもよく活き、絃バスはアルコのときとピッツィのときとの質感の差が効果的である、っいちど打楽器を交えておおきく漸増するが、っその際の荘厳なひびき、管に吼えられても譲らないどっしりとした絃、っまったくすばらしい、一旦、終止し、っつづくフーガの主題は俄然、精彩を得て、オケはますます自在に羽搏く、

っこれは相当な団体だとおもい、マーラーへの期待も高まるが、っぼくのおもっていた最上の成果を達するためのオートノミーが示されたとはいえず、っややざんねん、っもっとも、冒頭から森口氏のテムポ、音の重さは、重すぎず軽すぎず、っまことにツボを当てて妙であり、っすくなくも絃、っそしてスネアあたりはその棒へ万全に応えるだけの用意がある、っが、トロムボーンはいきなり音を外し、トロムペットの1番もよく吹けずにしまう、前者は提示のリピートでは挽回したが、後者はその際もダメであり、萎縮して音量も出せずにいる、っあのハイ・トーンが吹けないのではなく、っその前の附点リズムが2度ともちゃんと処理できていなんだ、

っもちろん、っそれはごく個別のことであり、全体としては覇気漲るみごとな合奏で、著しく複雑な展開も敢然奮然とくぐり抜けてゆく、アルマを恋う㐧2テーマへ遷移する際に勿体ぶってテムポを撓めないのは森口氏の最大の美質で、っかつ、コーダでは最後の疾走へ入る手前のアラルガンドをぞんぶんに減速、っさようの定め所をちゃんと強調してくれるのもじつに親切設計だが、疾走句へ遷る途端のアクセル全開も諾なる哉、直前とおなじテムポのまま始め、っようようアクセルを踏んでゆく軟派な手口ではない、

2・3楽章はアンダンテ、スケルツォの演奏順、前者は、コール・アングレのテーマが出る際の横笛の音彩が、冴え冴えとしていてこそ胸苦しく、ハープの強奏はこころへガラスの破片が突き刺さるよう、ホルンがバトンを受け取ると、最も窮窟な精神の秘所へ連れ込まれる気がし、聴いていて辛いくらいだ、

スケルツォは煩瑣な変拍子へ丁寧に応接、森口氏の譜読みの穿ちもなかなかのもので、っとちゅう、ファゴットが敢えて優雅なワルツのようにたっぷりと唄ったりする、

フィナーレは、事前の予想ではもっと全員が全曲の終止まで冷静なままでいられる奏楽を描いていたが、っどっこい死力を盡した闘いであり、相応にどたばたもする、ハムマーは2度であったが、っその打撃を喰うたびに楽員は奮い立ち、シュトラウスをして過剰濃密と云わしめた楽想の欝積をこのいまにつよく実感せしめる、っついに斃れ、トロムボーン、テューバ、ホルンが弔いを見舞い、凄惨な破滅へ了わる、



っさて、渋谷へ移動中、小柳英之氏のチャイコフスキー《3・6番》だ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

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《ぶきっちょ》(全4回)

 

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