ギロッポン、 | ざっかん記

ギロッポン、




角田鋼亮氏の棒、シュレーカーのオペラの題から採ったというデア・フェルネ・クラングなる団体の公演、済む、演目はスクリャービン《法悦の詩》とマーラー《復活》とで、スクリャービンへもコーラスが参加す、

オケは青年晩期から壮年早期くらいの人たちが過半を占め、っおそらくは全員か大半かが専門の教育を受けた人たちである、コン・マスは、登壇されたその風采が、っどこかで見憶えのある人のような気がする、ったしか、知己トロムボーン奏者さんが乗られた三鷹でのマーラーを主演目にした公演で、っそれは《大地の歌》と《巨人》の初稿とと2度の機会があったが、っうちどちらかか、っあるは両のコン・マスが、っあんなかんじの人だったようにおもう、っまた、セロのトップは新日本フィルの人でいらしたり、っほかにもぼくのよく識らないプロフェッショナルの人が乗られていたかしれない、絃は1st18からちゃんと各声部2ずつ減ってバスは10と、規格外の巨大編成である、

っよってそのテクニークはそれなりだが、っただどうだろうねえ、っなにかこう、音が薄いんだよねえ、っしゃびしゃびしていて水っぽいというのか、っどうしてだろう、っそれはわりに腕聴き連中のしかし常時いっしょには弾いていない、臨時編成のオケではしばしば起こることで、不可思議のひとつであるが、っぼくのおもい違えでなければ、本格のオーケストラってのは、っもっとこうどすんと重かったり、っねちっと粘っこかったりといった音を縦横に発しうるものだが、

スクリャービンはしかし、っさっぱりとした清潔さをまだしも購えないじゃなく、ハープ、チャレスタ、グロッケン・シュピールといった音彩も星のごと瞬き、細かい音型も軒並みかちっと入るので、見通しが立ってきもちがよい、っしかし終盤ともなると、っまああの曲はああいう曲ではあるが、凝集したトュッティはどこか硬質で栄養価に乏しく、っその音量音圧とは裏腹に、っわずかに空々しさをおぼえずにいなんだ、え、もう曲終わっちゃうけれど、コーラスはどう加わるのかな、っとおもうと、っほんの最後の数小節で、あーーー、っというっきりであった、っそれでも彼等は譜面を携えていたのだったが、

棒の角田氏は、読響とコンチェルトを3つ演る公演を目黒で聴き、醒めた人だなあという印象を有ったのだが、っあのような中器では放っておいても音量として飽和するので、名うての読響にも助けられてそれなりに豊麗な音がしたところ、っきょうのように腕は一定水準以上でもひびきの細い楽団でサントリーの大音場となると、指揮者の無趣味、無感動がそのまま音へも露呈す、っなんだか、スコアへ、いまはこう、つぎはこうなって、そのつぎはこうなる、っと書いてあるからそれへ隨って音が変転してゆくというだけで、っもっと溢れむばかりのこのいまのエスプレッシーヴォ、ムジツィーレンが必然にしてつぎなる展開を喚び覚まし、感動に打ち震えつ音楽が生起してくるという手応えの致命的の欠如は、っじつに如何ともし難い、複雑な経緯を辿ってゆく楽曲のそこかしこで、緊張感を保ち切れずに時間を持て余し、退窟だからはやくつぎの展開が来てくれたい、っと、客席のぼくのみならず、指揮台上の当の彼氏がそうおもってしまっているのじゃないか、っとたびたび訝られた、

っとくに木管連中のアッピールの乏しさが、っその憾みを助長したようだ、っなにか舞台上でのみ音が鳴っているようで、っそれがぜんぜん客席へ飛んで来ない、単に音量としてももっともっと各人が自己主張してくれてよいし、っなにより与えられたロールロールを謳歌し切らむとするやはりその熱意である、音勢の相関とはおもしろいもので、舞台の音がそんなだから、っきょうはいつも以上に客席からの咳払いがノイジーに耳へ附いたことだ、っあれで舞台でこぼれるばかりの感動が謳われていれば、仮におなじ程度の咳払いがしていても、っさして感興を殺がれたりはしなんだかもしれない、

1楽章では、低絃へ応えてオーボーほかが葬送の主題を出すその瞬間からもう音の密度が低く、っこちとら音楽へ乗ってゆけない、シムバルを交える全曲最初のトュッティは、っべつに騒音が慾しいわけじゃないが、抑制趣味が鼻持ちならない、展開においては、横笛の㐧2テーマがハープの上を快速に滑ってゆくところ、破綻という破綻が起きるでもない、合いの手を入れるコン・マスのソロなどはふるいつきたくなるような美音だったりするのだが、っそうした美質が個別声部に限局せられ、全員で大切にバトンを渡し渡してゆこうという気概に欠ける、っもっとホルンの和音とか、っもっと滑らかななかでのかすかなスタッカートとか、感銘を約束するための手筈はいくらでもあろうものを、特段の手立ても講じないまま、っあんなにもうつくしいはずの音楽をいとも容易く小手先へ流してしまう、偏に、指揮者がありったけこころを動かして音楽をしていないことの帰結なのであり、酷を承知で、万死に価する、っと云い切ってしまいたい、音楽をしろよ音楽をっ、

っこの弊は、っやはり木管が重要なキィとなる個所で定まって訪れ、3楽章全体や、フィナーレでは最後の審判の地獄画のような緊迫した場面でさえ、っどうも音楽がダレてくる、自分たちがいままさに鳴らしている楽曲が、必ずや聴く者へ感銘を与えるのだ、っと眞底から信じ切っていない人たちの音の脱殻である、

、、、っなんだかあまりにも酷い云い種だが、っこれもいつもいつも確認していることで、っそうした無感動な音と、っこちとらのこころをあざやかに拐ってしまうそれとでは、物理音としてはじつはそう大差がないのだとおもう、っなにか不幸な行き違いによって、感動は指間から零れ、っついにはまるで喪われてしまう、人間は感動屋ばかりではない、っとうぜんだ、っだから角田氏には、っべつに見る目に暑苦しい熱血漢になってくれたいわけじゃない、そう云うけれど水面下では俺のこころはこんなにも騒いでいるんだぞっ、っとちゃんと沽券を示してくれたいのだ、最も注意深く聴く者にはその執念がちゃんと仄見えるような、っさようの音楽を演ってくれたいのである、

っそうだ、ソプラノは森谷真理、アルトは池田香織の両女史、池田女史については、高関氏と東京シティ・フィルとの公演でヴァグナーを聴いた直後に病気療養が発表せられ、心配したものだが、っご復帰を祝したい、両女史とコーラスとを加えた最後の復活の高唱は、先般おなじここでフランス帰りの飄々としたおっちゃんが振られた同曲を聴いた際には、オケの元気がよすぎて声楽はまるで聴こえなんだところ、っきょうはちゃんと聴こえた、



っさて、っあすあさっては三鷹の試掘調査、っあす1日で終わっちゃいそうだけれど、夏休み中の世田谷の中学校校庭の調査の概要報告書もぞんがい作るのに手間を喰っており、急がにゃ、っしかし、一寸急がにゃならんくらいのほうが、仕事をしているという気がありありとするというのはありふれたイロニーで、っいつ了わるとも知れずにもう10年ちかくもつづけている中央区の仕事よりか遙けく精神衛生によい業務である、

っと云いつ、っつぎなる機会は今週木曜、暢気にも平日に休みを取り、横浜、青葉で上岡敏之氏のピアノ・リサイタル、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)