金沢、 | ざっかん記

金沢、




井上キーミツとOEKとの最期のご共演、済む、演目は、先年物故せられた西村朗氏が同オケのために書かれ、岩城氏の棒で名古屋で初演せられたという《鳥のヘテロフォニー》と、ナジェジダ・パヴロヴァ女史と、っあの《バビ・ヤール》も記憶に新たしいアレクセイ・ティホミーロフ氏とを招いてショスタコーヴィチ《死者の歌》と、後者はキーミツの日比谷全集では、ソリストはたしかアンナ・シャファジンスカヤ女史とかのセルゲイ・アレクサーシキン氏とであり、オケは広響であったか、金沢でも10と数年前に彼氏が此地初演を果たしていられるらしいが、新全集を完成せしむるがための動かしえぬ機会とはいえ、っよもや最期の舞台がこんな珍曲になろうとは、指揮者、オケ双方が想像だにせなんだのではないか、

っしかし、っこの曲でよかったし、っこの曲がよかった、っこの曲でこそよかったという畢生の大舞台、大演奏ではなかったか、っぼくも実演では初めて聴いたのであるが、字幕がありがたく、詞の内容はよく諒解できたし、っこんな曲は指揮者独りがいくら気を吐こうがソリスト次第で味噌にも糞にもなろう代物で、ティホミーロフ氏へは開演前から全幅の信頼を寄せられるのもとうぜんのこととして、パヴロヴァ女史のすばらしい詩魂っ、音盤で聴いていると全編が灰色のシニシズムに蔽われた遣る瀬ない曲調と聴こえるが、彼女のリリックな語りによって、あ、こんなにも素直な歌のある曲なんだ、っとこちとらなにか呆気に取られるようでさえあり、作曲家の死者へのまなざし、っあるは人知れぬ死を俺だけは知らむとし、忘れずにいまいとする意志、っあるはまた美化という名の辱めを受く死への憤り、っほんの冗談ですら死神に影を踏まれているというありふれたしかし衝撃、っそれらの素描を通して彼の死生観はここでむしろごく素朴、簡潔に述べられているのだと篤とおもい知る、ショスタコーヴィチは困難な体制下で困難な時代を生きつ、っいつもいつも、っどんな作品のなかでも、俺たちもっとあたりまえに人間でいようぜ、どうしてこうも七面倒なことをかんがえちゃったのさ、っと呟いている、

小規模のOEKは、フル編成のシムフォニー・オーケストラにはみられない個別声部の満々たる自発性と、っその綜合としての高度の精妙を特色とするが、っそうした楽団の演目でまず誰しもが念頭へ浮かめるのはモーツァルトであり、ハイドンである、っこんかいのキーミツ公演だってさようの本寸法で有終の美を飾ってなんらおかしくはなかったはずだが、っぼくは従前より、OEKにかぎらず小編成の名うての楽団によるそれらの作品を聴くことに、っひどく苦手意識をおぼえずにいなんだ、っなんというか、っあまりにも鍛錬し盡されているアンサムブルであり、っそれがあたかもお客へ挑み掛かるような奏楽を示し、通りの向こうからやって来た人の顔を見たら、あ、モーツァルトだ、ハイドンだ、っとおもっても、身体を見たらむっきむきのボディ・ビルダーみたようだった、、、っという違和を感ぜずにいないのだ、っだからいっそショスタコーヴィチで、っやはりよかった、

西村作品も、っそのカップリングとしてじつに好適だった、誤解を惧れずに云えば、両作を通じて2時間弱の公演全編において、OEKの上げる音色は異界において開発せられたシンセサイザーの発する電子音みたようで、それはいったいどこでどのようにサムプリングしてきたのか、っとこちとらをして訝らしめるばかり効果的のひびきが、特殊奏法、っへんてこな和音等をもって乱れ飛び、幻惑され通しなのである、っここでは彼等の高精細の合奏能力いっさいがその人工美がためにのみ捧げられ、作り込んだ極点においてついに、っおよそ人に作ること能うとは信じ難い音響を結び、っそれが開演から終演まで、っほんのかたときも綻ぶことがない、っまさに驚異である、

《死者の歌》は、楽章間で多少のインターバルが置かることもあり、気が緩んで場内ちらほらと咳払いも起こったが、っぼくは音楽に釘附けにせられて身動ぎひとつできず、1時間ほどの間、っずっとおなじ姿勢で舞台を凝視し、っほとほと固唾を飲んだ、1楽章において絃が鳴らし、10楽章に回帰するその音型は、同《12番》の終局の勝鬨において執拗に繰り返さる動機に酷似するように聴こえ、人類の栄光が死と表裏を一にしていると示唆さる、

ソリストの開口一番はティホミーロフ氏だが、渋谷や中之島の大空間でもあれほどの存在感を誇る彼氏であってみれば、中規模級のきょうのような音場では最弱音に至るまで、細大漏らさずその慈愛を享受することが叶う、っふかい音色がそのまま慈愛なのである、っその彼氏が、8楽章においてあんなにも口汚ないコサックの罵詈讒謗を叫ばれるとはっ、

対するパヴロヴァ女史は、云ったように奇矯な書法の部分に対比せしめて十二分に抒情を謳歌されたため、3〜5楽章は直截にこちとらの胸を打ち、っとつじょ売女のごと下卑る6楽章をより鮮烈なものとすることに成功、っしばし休まれたのち、ティホミーロフ氏の叫ばれる人の世の理不盡への抗議に、慰めの供花をもって応ぜられる、っおふたりによる結語の11楽章ではしかし、最終音でいますこしくヴィブラートを抑えられたほうが、っあの謎めいた和声をもっと意味深く聴き手の喉元へ突き附けることができたのではないか、

終演してキーミツはいちど拍手を制され、了わっちゃった、っとおっしゃり、楽員の方幾人かと抱擁、っうちおひとりの女性は顎をしゃくり、目頭を押さえられており、っこちとらも貰い泣き、歩かれるときに腰へ手を遣られるのはいつものことで、強がってターンを定められたりしているが、っやはりもうほんとうに満身創痍でいられるのだと拝察す、っきょうもおそらく痛み止めを処方せられての舞台であり、っしかしそれを濫用するとこんどは腎臓が壊れてしまうというわけで、っなるほど引退されるよりほかに選択肢はないわけである、アンコールに、っおそらくあれは安部公房《他人の顔》の映画のために武満氏が書かれた〈ワルツ〉で、以前にもこのコムビで何度か聴いており、彼等にとっての名刺代わりの小品をもってお別れ、辛いお身体へ鞭を打つようで気が咎めたが、ソロ・カーテン・コールは1度では済まず、2度目があってキーミツが袖へ下がられても、っまだ名残惜しそうに手を叩く人が幾人かいた、



っゆうべは遅くまで、種々の演奏会の配信動画を録画したものから抜いた音声やら、っさいきんに購った音盤やらをiTunesへ遷しており、っそのままiPhoneとの同期までしてしまえばよかったのだが睡てしまって、起きて同期を開始して身支度をしていたが、出掛けねばならぬ時間までに済まず、っその場で京王へアカウントを作って1本遅いライナーの予約までしたがそれでも了わらず、諦めて同期を中止して外出す、大宮で缶ビールと乾き物とを購って、っあさもあさっぱらから呑むというのはほんとうに気分がよい、歯磨きをする暇とてなかったので、金沢へ着いてからさらに軽食を摂ってのち、器から線路沿いに一寸歩ったところへある公園で歯を磨く、気温は東京より高いくらいの数値になっていたので心配しておらず、っみごとなぴーかんでぽかぽかとしている、

っいまは駅から30分ほども歩ったところの安宿、っしかしこういうホテルのほうが、朝餉が通り一遍の冷凍食品ばっかりというふうじゃなしに、家庭料理みたようなのが出て来てこころうれしい、っとなることを期待している、っいちど徳島でさようの僥倖へ接した記憶がある、っあの交叉点でインナー・ヘッド・フォンを落っことして車に踏まれてぶっ壊れたときである、

っあすはあさから西宮へ移動し、カーチュン・ウォン氏と兵庫芸文センター管とのマーラー《トラギッシェ》、っこないだ日本フィルの来季プログラムが発表せられたが、同曲をシーズン開幕へぶっつけてこられ、間髪入れず翌月にはショスタコーヴィチ《11番》と手加減なしのライン・アップである、前者は川瀬氏と名古屋フィルとの東京遠征でも披瀝せられ、後者は上岡氏と読響との公演が控えている、っどういう巡り合わせか、っかように同年に同一演目を聴く機会というのは重なるものである、

っさ、っなんかコンヴィニでかるく摘めるものでも購って来よ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)