荻窪、 | ざっかん記

荻窪、




危ねえ、チェックし忘れていたが、っきょう、金山隆夫氏とカラー・フィルとの公演がある、っいま済む、日曜だというのに19:40開演、っせめて19時にしてくれればよいものを、金山氏はたしかアメリカでカリアのある方で、ったぶんその気分を本邦で再現されたいのだろう、

っついこないだ横浜で《アルペン》公演があったばかりのようにおもうが、同フィルは年間何回公演なのだろう、準備するのがたいへんそうな曲ばかりをなさるし、っお客の入場は無料、っつまり完全もちだしの興行であるわけで、っよほどか意慾あふれる人たちの団体ではないか、

テクニークも、アマチュアとして最上等ではけっしてないが、っしかしじつに一廉である、っそれはそうだ、っどんな曲でも初見である程度は弾けないことはないという練度の人が揃っていなくば、週に1度の短時間の練習でこんな頻度で大曲大曲の公演を有つことはできない、っきょうの演目はシューマン《序曲、スケルツォとフィナーレと》とブルックナー《3番》と、、、ブルックナーだけにしときなさいよ、

演奏は、っとくにブルックナーはたいへんにすばらしかった、《アルペン》のように個別声部を機能的に酷使する近代的の書法でなく、単純な音型の欝積で絶えず全奏へ向けて漸増する組み立てのこの作家なので、っまずきっちりと弾ける人たちの集団であれば、時間にして全曲の半分くらいは、プロフェッショナルに比してなんら遜色のない合奏が聴かれる、っもちろん、プロフェッショナルであれば即ブルックナーへ適したひびきがするというわけではぜんぜんないが、っきょう1楽章がさいしょのトュッティへ達すると、中規模の音場全体が完全にそれと共振し、ああ、ブルックナーの音だわ、、、っとの感歎とともに開始早々から安心し切り、批判精神よりは、曲を味わうこころのほうをより動かすことができた、っせんじつの坂入健司郎氏の棒になる名古屋フィルの合奏は、っこの実感を与えてくれなんだのだ、っきょうのカラー・フィルは、っべつに金管が抑えられていたわけではない、容積でいえば、愛知の芸文センターのほうがここよりも大きいはずである、っやはり単に音量音圧ではなく、曲にフィットする音の質というものがあるのにちがいない、

シューマンでは、スケルツォなど、っああした音を揃えづらい厄介なリズムを中音量以下でずっと鳴らさねばならないというふうだと、っどうしてもアルコの齋奏はもさもさもさもさしつづけてしまい、っぴりっとしない、っが、っより長大なブルックナーが、延々と動機をくりかえすなかにも転調の妙、逆行形のたのしさ等々と、っいつも必然の音々が連続していると聴こえるのに対し、シューマン同曲の序曲、スケルツォあたりは、っいかにも霊感に乏しいと感ぜずにいないのは、演奏が冴えないせいばかりでもなかろう、彼氏は作曲専業というよりは、音楽ジャーナリスト、啓蒙家みたような自覚であったのかな、っなにか、こうこうこうやりゃ曲ができます、お客へよろしくアッピールするかどうかは別問題ですが、っとでも云い訳しているような曲調で、っおなじようにみじかい動機をくりかえしたりフゲッタでリレーしたりしていても、っぜんぜん音楽的のよろこびを伝えて来ない憾を抱かずにいられなんだ、っその点フィナーレは、絃がたっぷりと弓を遣ってゆたかなひびきを作れる書法でもあり、っちゃんと曲の発展へこちとらの感興も乗せてゆけるようにおぼえたことだ、

ブルックナーは、金山氏のおおらかな棒によってかちこちと枠へ嵌まらずに素朴な外観で顕われる、っさりとて、見通しは抜群に立っており、1楽章からフィナーレまで一気通貫、ブルックナー《3番》とはかかる楽曲である、っと曇りなくみせられ、っおよそ有無も云えない、っずっと深遠で、っずっとうつくしく、っずっとたのしい、



っさあ、っあすは仕事のあと、井上キーミツの《レニングラード》2日目、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)