博多、
本名徹次氏の棒、、、っは持たれていなんだが、九響公演、済む、演目はオール・モーツァルトで、《後宮よりの誘拐》序曲、同響奏者の宇根康一郎氏をソロへ立てて《Clコンチェルト》、っそして《プラハ》である、
決定っっっ、4月の両者の再度のご共演、聴きに行くっっっ、金曜のよるでまた仕事を休まねばならず、っしかも翌土曜は所沢で井﨑正浩氏公演のため、1泊した翌朝はホテルでの朝餉も摂れずに新幹線へ飛び乗らねばならないが、っそれでもどうでも聴きに行くっっっ、切符はあさって発売、っいま宿は素泊まりで押さえた、新幹線を最安の割引で乗っても総計¥5万凸凹の遊興、公演の器はまだこれから落成の新規のもので、っきょう開演前、宿へ荷を置いて、気楽に喫煙できそうな場所を索めてほっつき歩くに、周囲の公園ごと囲われた立入禁止のその外観を拝み、あれ、ここじゃねえの、っと気附く、っべつに事前に見てやらむとしたのでなくまったくの偶然だったが、4月に待つ、ぜひ来られたし、っと喚ばれていたのにちがいない、っことしはもう倹約に努めねばと云いながら、っなんのかんのでお銭が掛かる、っほかにフェドセーエフ氏やカーチュン・ウォン氏を聴きに大阪行せねばならないし、フェドセーエフ氏は広島へも来演される、っやれやれ、
博多へ着いて雨、っじきに止んだが、っその後も湿った風は冷たい、っしくじったのは、っみつけた公園の隅でしばし喫煙していたが、寒くてかなわず入ったカッフェで、っついいつもの習いでたっぷりとアイス・コーフィーなんぞを飲んでしまい、器へ移動して開演前に小用を足すも、前半の序曲とコンチェルトとのうちにまたもはげしく尿意を催す、っきょうは下はヒートテックを穿いていたが、っやはりあれは皮膚呼吸を抑えることで体温の放出を回避する仕組みなのらしく、逃げ場のない体内の水分は残らず膀胱へ溜まってしまい、頻尿を来たすようだ、
っさておき、器は銀行のビルの地下で、っこちらもつい近年に落成したものとみられる、壁面全面木調のおそらく1,000席に満たなかろうほどよい容積で、絃を変則8型くらいでモーツァルトを演ると、っまことに快い響がする、
序曲が始まるが、本名氏っっっ、振り姿はじつにあの郡山の再来で、変幻自在のシャーマニズムっっっ、っや、故・ヤマカズさんみたような、なにを振られているのかさっぱりわけがわからん、っという軌道ではぜんぜんない、っけれども、謂わば、っひたすら音楽のみを振られている、っつまり、目前の楽員楽員のムジツィーレンを喚起することのみに一意専心されているので、交通整理は、そんなことやらなくったって君等でできるだろ、っというふうなのだ、突き放した冷めた態度なのでもぜんぜんなく、っひたすら音楽へ徹することから、自然、音が整い、怜悧に研ぎ澄まさるのである、っただそのお背中を観ているっきりで、っそこへ音楽の仕合わせと孤独孤絶とのすべてが存り、人生の人間の麗しさと虚しさとのいっさいが在る、
っいちど何気なく振られておいて、っやや進んで掌を下へ向けつ両腕を拡げて膝を折られ、フレイズを熟しながらの弱音を、弱音というかフェザー・タッチのやさしい質感を要求されるあのセンス、拍を取られる手がふと停まり、オケの推進力へ委ねて、さ、ここへおいで、っと先の小節の拍頭で待ち構えてそのザッツでまた手綱を握り直される力の抜き差し、っその拍頭の硬軟もまた多様にして雄弁で、掲げられた手は落とさずに膝を折って身体を下げられ、っつまり叩かない柔らかな音の入りを具現される手筈、左手は体側へ下げられたままで、右手で拍の明示と表情の要求とを兼ねられることもしばしば、っそれらが完全な脱力のもとに為され、っお姿がもう音楽の塊である、
っあるいは、手兵である郡山の楽団のほうが、っこの本名氏の悟達の境涯により鋭敏に、っまたより大膽に反応していたかもしれない、っが九響とてもたいへんなもので、序曲から満堂を魅さずにいない、
コンチェルトの宇根氏は低い方を拡張していないふつうのクラリネットをお吹きだったが、全編これ滑らかに流れて、難技巧を露おもわせない、モーツァルト最晩年の憂愁の流れるこの曲だけに、っそれが達せられなければ始まらない、
バックのサポートへ回られても本名氏の複雑微妙な手練手管はいささかも鳴りを潜めない、ソリストを差し置いて我を振り撒くというのではもちろんないが、陰翳の差配はいつも細心を極めている、2楽章の再現ではこの日ゆいいつ、ソリストとともに折れそうな最弱音を馳驅され、っぼくらへ固唾を飲ませる、
っぜんぶ演っても2時間に満たないプロであるが、序曲の後と後半の前とに本名氏がマイクを取られてすこしくお話しになる、っまだそれほどのご高齢でもなかろうが、っなんだか入れ歯がよく合わないじいさんが話すみたようにややふがふがとした滑舌でいられ、っぼくにすればそこがまた痘痕も笑窪である、
《プラハ》は、っじつは最期の《39〜41番》よりも魅惑的の逸品ではないかと、っぼくなどおもうくらいだ、4楽章制だと、1楽章のソナタ形式が小造りとなり、っいっぽう緩徐章は書法が単純なくせにいやに長いというややアンバランスをおもわないでもない、っこれは独りモーツァルトに限らず、浪漫派以降でも、ったとえばドヴォルザーク《8・9番》などにも、っおなじ弊をおぼえずにいない、1楽章がしっかり大規模だと、っまずそこでぞんぶんに音楽を味わうことができ、っしかもここでは舞踊章を割愛してすぐさまフィナーレとしており、っその全体のフォルムが素敵だ、っただ、フィナーレは、テーマの性格といい、書法の徹底ぶりといい、充実の1楽章に対してわずかに龍頭蛇尾の憾を遺すかもしれないが、っしかしその1楽章こそは、掛け値なしの傑作である、序奏から入念に移調しながら主部を待つし、っその主部の緊密なることはハイドンや楽聖にも敗けず、㐧2テーマのロマンティシズムと高度のポリフォニーとの両立は、浪漫派の後輩連いっさいを黙らせて余りある、
演奏もまた入魂で、1楽章の展開は多声の結集による緊張力が出色、再現の㐧2テーマは泪を絞らずにいないが、っしかもなお冷厳に対位法が見渡されており、ファゴットの和声の色など、煮凝るどころかむしろフレッシュに弾けている、
緩徐章からフィナーレと、っぼくはもう演奏上の技倆技術を感じなくなっていった、本名氏は極めて多岐にアイディアを張り巡らされ、極めて微細に音々を操られている、っが、っそれらはすべて楽曲を活かすうえでの必然の語法であり、急所を突くほどに、音楽はいかにも自然だからである、
っさて、っあすは帰るだけなので、午すぎの新幹線にした、っゆっくり睡よう、
みずの自作アルヒーフ
《襷 ータスキー》(全4回)
https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)
《ぶきっちょ》(全4回)
https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)