ギロッポン、 | ざっかん記

ギロッポン、




ユライ・ヴァルチュハ氏の棒、読響で、マーラー《3番》、済む、

昨秋のカーチュン・ウォン/日本フィルから、っことしへ入って井上キーミツ/新日本フィル、っまあアマチュアだが佐伯正則氏、っそしてきょうと、頻繁に聴いてきた同曲、っことしはまだこれから、夏に憮然たる棒、金山隆夫氏の演奏も聴くこととなるが、目下のところ、っぼくにいっとうつよくアッピールしてきているのはカーチュン氏であり、っそれも比較を絶している、っなにしろ、っぼくにとり青春のテーマ・ソングであったこの曲は、っそれゆえにおもい入れがすぎるのか、っこれぞという演奏に出逢えないまま永らくすぐし、近年になってようやっと、故デ・ブルゴス晩年のボストン響およびシンシナティ響とのともに海賊盤というなかなかの果実を獲、っしかし、カーチュン氏の実演を2度とも聴き、っさらに配信動画を録画して音声を抜いてくりかえし聴くうち、っこれがどうして病みつきとなって、っいまではデ・ブルゴスも忘れるくらい、カーチュン氏に夢中である、

彼氏のチャイコフスキー《悲愴》を池袋で聴いたときの所感かなにかでその云い種をしたが、カーチュン氏の演奏は、っいちどスコアを咀嚼、解体、消化し切り、完全に己が血肉と成したうえで、っその血肉を用いてふたたび《悲愴》ならば《悲愴》、マーラー《3番》ならばマーラー《3番》という楽曲を再構成再現前せしめているという手応えがし、っうまくすると、既存の楽曲を一指揮者が解釋している、っなどというつまらない次元を遙けく逃れて、っあたかも彼氏が棒を振ることによっていま初めてその楽曲がこの世に誕生するかのような錯覚をさえ生ずる、

マーラー《3番》は、プリンシパル就任披露という気負いもあったか、っその彼氏の稟質が昇華した好個の例といってよく、全曲冒頭からまず長丁場の1楽章全体において、よくもここまで、、、っと聴けば聴くほどこちとら唖然茫然としてしまうばかり、刻一刻と稠密を極めた表現が連続しており、っくりかえすが、っそれがいつも彼氏の身体と心裡とを通ってきた音として出来する、っせんじつの同《9番》に対して、作り過ぎだ、っという声が一部にあったが、っあるいはそう聴く人もいるのかもしれない、っしかしぼくはいつもそういう人に訊いてみたいのだが、ではあなたは平均偏差らへんをうろちょろしている演奏、なんらの旗色も示さない演奏を聴いていて、ほんとうにたのしいのですか、、、っとまあ他人様の趣味嗜好にはあまり立ち入らないこととして、っすくなくもぼくは、カーチュン氏がしばしば繰り出されるああした作為が、っぜんぜんいやではない、蛇足だともおもわなければ安易だともおもわないし、いいぞいいぞ、もっとやれもっとやれ、っとうれしくなる、っここはもう、血の気の濃い薄いの差なのかな、薄い人を、っべつにわるく云う気はありませんよ、っむかしならぼくも、そんなの人生の損だぞー、っとかつい云いたくなっていたものだが、

っなにが云いたいかもうおわかりであろうが、っきょうのヴァルチュハ氏では、っぼくにはぜんぜん薄いんだよな、っぼくは彼氏をさっき初めて聴いたので、っどういうカリアの人なのかもぜんぜん識らないが、振り姿というのはある程度はその人の音楽の柄というものを表わしているもので、っきょう1楽章が開始してからの彼氏を観ていると、っわずかに膝を折って屁っ放り腰気味に各声部へキューを送る様はいかにも神経質そうで、っやはり読響からはそのとおりの音が出る、出てしまう、っぼくはその数分間だけでも頻りにカーチュン氏を追想せずにはいられなんだ、彼氏はもっと壮健ないでたちで、っもっと太陽のように天眞爛漫で、日フィルからはそのとおりの健康な音が出る、

っそして細部の目の詰み方の差よ、っほんのさいしょのホルンからして、フレイズの末尾の下がる音で、っきょうは8人のうち誰かしら気が脱けており、音域が下がり、吹きにくいところへ来たぶんだけあたりまえに音圧が下がってしまい、楽想の有っている覇気を損なって始まった、っそれは瑕疵とは云えない程度のごくごくかすかな手抜かりではあるのだが、カーチュン氏はといえば、その音を質量としても音価としても確実に保つように、っと練習時にメムバーとしかと申し合わせたということが振り姿からもわかるし、現にちゃんとさようの音が鳴っているのである、っだからきょう、開始3秒でもう、あ、だめ、カーチュンのほうが丁寧、っとぼくはおもったのであった、っもちろん、100分の大曲の成否を3秒で判断するほどぼくも早計ではない心算だが、っこうしたことは一事が万事とも云え、っじっさい、カーチュン氏のその後が大膽不敵な強弱、表情をしかし確信に満ちて振り撒きつづけ、日フィルがまた完全にその手足となって彼氏の意匠を音化してゆくのに対し、ヴァルチュハ氏の表現はぜんぜん不徹底であり、ここはこうでなければならぬっ、っという執念から遠い、

っや、っこれで細部細部へあれこれの表情を与えていないことを難じていると取られたくない、三度くりかえすが、カーチュン氏の演奏は、っそうした稠密な表現が彼氏の心身を通過したものとして再構成せられ、っもってマーラー《3番》というあのすばらしい場面場面が無上に謳われてゆくのだ、っもっと平たく云ったほうがいいのかな、これが俺の音楽だっ、っと云い切った者の清しさが全編を貫くのである、、、っここでどうしてもうんと云ってくれない人がよのなかぞんがい大勢いるのだということを、っぼくも40年生きてきて折に触れておもい知った、それは指揮者が楽曲へ得手勝手な色を塗ったということでしょ、っと彼等はいつもいつも云いたがる、っそしてぼくの40年の結論は、もうその人たちは相手にしない、っそれより仕方がない、っなんとならばぼくはそうはおもわないから、テムポや強弱や表情を極端にいじった演奏でも、っぼくはマーラー《3番》だろうとほかのどんな楽曲だろうと、っその作品の眞相へ触れたと実感することがおおきにできる、っもちろん、テムポや強弱や表情を一寸っきりいじっていない演奏でも、っぜんぜんいじっていない演奏でも、っどれでもなのだが、っそのうちで極端にいじっているもののみをなにかはなから論外であるかのように定めてかかる立場を、っぼくはけっして許容することができない、、、っなにしろゲテモノ趣味者ですからねえ、っいくら他所様から、や、そんなのぜんぜんその作品の眞相じゃないよ、っと云われようが、うるせえっ、っそのひとことである、、、っや、っそのねえ、っべつに頑なになる心算はさらさらなくて、っもっと単純に、だってどうせ音楽を聴くなら、たのしいほうがいいじゃないですか、っというそれだけのことなのだが、そうやっていろいろやりたがる不届者がいるから、それをしていない演奏がうれしい、っというそれがぼくにはわからない、40年生きてきてもついにわからない、っそれはだって消極的じゃないか、っぼくの辞書には、消極的の感銘とはこれもろに語義矛盾である、感銘が感銘であるならばそれは恆に積極的なのである、積極的でなければならないという当為でなくて、感銘しているならばすでにして積極的であるはずだと云っている、作為的のものとの比較でいわゆる正攻法というものを取り沙汰す人たちは、文脈としてそれでいったい自身の感銘を表明していることになるのか、っいまいちど自己点検されたいと、老婆心ながら忠告する、っぼくにはさようの表白は、アンチテーゼを即ジンテーゼと強弁するように読める、仮に自己批判にせよ、っともかくも一定の批判を堪えねば、っがんらいジンテーゼへは至らないはずである、、、っやっぱり頑なだね、

っともかく、ヴァルチュハ氏の造形を聴いていてぼくは、どうだっ、まいったかっ、これが俺の音楽だっ、っという圧倒、ユライ・ヴァルチュハという一個の天稟の閃きをぜんぜん味わわなんだ、たまさか聴いてみたけれど、この人は今後、ぜんぜん聴かなくていいや、っと1夜にして見限ってしまった、誰もがマーラー《3番》という楽曲に1度はみるだろう平凡な景色っきり、彼氏は展開してくれなんだ、指揮台へ立って100人の楽隊を率い、2,000人のお客を相手にする人が、っそんな平凡な夢をみていてどうするのか、っいっそなんだかよくわからない演奏をしてくれるほうが、っまた聴いてみてもよいかもしらんとおもわされるものだが、っきょうのあのかんじだと、っなにかほかの楽曲ではとてつもない達成を聴かせるだろうということは、っおよそ想像されない、っもっとも、彼氏ひとりがとくべつ愚図なのじゃなく、っよのなかの大半の音楽家とは、っぼくにすればそういう人たちである、っひどい云い種に聞こえるだろうが、ちがうとは云わせないぞ、っという気がぼくにはある、悔しかったら、っぜひともみな、清水の舞台から飛び降りていただきたいものである、耳に痛いという人もおおいはずだ、



、、、っきょうはどうしたのだろうか、っまだ永山の駅で雨宿り、っあすは聖蹟別棟へ出勤する社員がぼくひとりなので、っいつもみたように9時ぎりぎり出社ではだめで、8時すぎには来てしまうアルバイトさんのために早めに事務所を開錠せねばならんのだが、

読響は、っさように指揮者にあふれむばかりの創意がなくては雑然と鳴り勝ちで、ホルンもトロムペットもトロムボーンも、ポテンシャルとして日フィルからすると相応の遜色をおぼえないわけにゆかなんだが、コン・マス氏の音のキャラクターはすばらしく、1楽章ではじめに㐧2テーマが現れるときからもうこちとらの胸を奪ったし、っその後も恆に魅惑的だった、フォアシュピーラー氏も、フィナーレでほんのひと節のみソロがあるが、っその色艶はコン・マス氏に勝るとも劣らない、

2楽章後半から3楽章のポスト・ホルンが出るまであたりなど、指揮者に勝れるためというよりは、オケの上質さそれ自身がサントリーというあの音場を味方につけ、潤いある時間が流れた、ポスト・ホルンは、っおっかなびっくりなのもそうだし、っそれよりも、拍へ音型を嵌めてゆくっきりで、っぜんぜん唄っていないことのほうが、っぼくには気懸りであった、っもっともっと、っあくがれることが音楽であり、音楽することがあくがれることであるはずのこの場面だとおもうのだが、っあんなにテムポの箍の中でびくびくと吹かれたのでは、っその気分もどこへやらである、

アルトはカーチュン氏のときの坂本女史より上質であったが、100分の全体が秀でていなくては、一部品に勝れていても宝の持ち腐れである、

ボーイズにはどうしてももっとチャイルディッシュなキャラクターが慾しい、っそれに、っこのあたりヴァルチュハ氏の造形は無趣味もよいところで、っただ音楽がテムポへ乗って流れてゆくっきりで、っなんらのアイディアも盛り込まれないつまらなさ、っすばらしい声だったアルト女史もここではオケとの間でタテがずれる、



流石にもう帰ろう、1時すぎだ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)