渋谷、 | ざっかん記

渋谷、




ファビオ・ルイージ氏の棒、N響で、パンフィリ氏という、っぼくとそう生年の違わぬ40代半ばのイタリィの作家の《戦いに生きて》なる単一楽章の小品で開幕し、レスピーギ《トリニティ》を、《松》を演って休憩、っそして《噴水》《祭》である、パンフィリ氏はわざわざ来日、来場されていたようだ、

ミニマル先輩は渋谷におくN響公演は、3階席へはPAを咬ませてスピーカーから音を出している、っとおっしゃっている、確證があってのことなのかわからないが、3,600人も入る器の天井桟敷みたような席で、あんなに音が来るはずがない、っとミュージシャンとしての体感を表白されているので、っぼくもきょう聴いていて、っそうにちがいないとあらためておもった、っそれはN響公演通い常連の人たちにとっては、っどの程度、公然の秘密なのだろうか、っみなあれで、っなにひとつ機械類の世話にならない実音を聴いていると、っほんとうにおもっているのだろうか、

っぼくの経験を云えば、ゲルギエフがマリインスキー劇場管を連れてきてマーラー《3番》を演ったのが、っあそこを訪れたさいしょであり、っそのロビーで井上キーミツに遭遇し、あっ、井上道義だっ、っとおもったのも懐かしいが、永らくそれが唯一の機会であった、っというのは、ったぶんまだ画学生時分だったのかとおもうが、っその身の上に来日オケの高額の切符では天井桟敷を購うのがやっとであり、っそこから豆粒みたようなゲルギエフや楽員たちを見下ろしていて、っおそらくスピーカーの力は借りていなかったのだろう音は隣室から漏れるステレオでも聴くようにみすぼらしく、こんな広すぎる駄器、2度と来るもんかっっっ、っと憤慨したのであった、東京へ20年も暮らしながらついにN響を聴く習慣が具わらなんだのも、っこの器への最低最悪の㐧一印象があったからかとおもう、

っのち、っだいぶんさいきんになって、亡くなられてしまった元同輩で、イタリィで画描きをなすっていた方へ拙作を渡しておいたところ、っその返礼にといってN響定期の切符をくださり、っそれはヤルヴィ氏と、ったしか五嶋みどり女史との共演だったのかとおもうが、ショスタコーヴィチ《1番》コンチェルトとバルトーク《オケ・コン》とというもので、NHKホールかよ、、、っと気乗りがせなんだものの、っいただきものでもあって無下にもできず、っじつにやっとかめで出向いたのだった、っそれも3階のいちばん安い切符であったのだが、っなんだかあれかな、っいまはちがって全席指定なのかしれんが、っあのときは最安席は自由席扱いかなにかで、開場してもぎりを通過するや否や、っさもしい常連連中が一目散に階段を駈け上がってゆくという、現代日本人の恥部をみるようで不愉快なおもいもしたような記憶が遺っているが、っところが、っその位置で聴くN響は、っじつに音量たっぷり、最弱音でもちゃんと聴こえてくるじゃないか、ええ、おかしいなあ、こんな大空間でこんな音量音圧が得られてたまるかよ、っとおもいつつも、器をなかなかに見直したのだった、っが、っそのことをミニマル先輩に話すところ、や、あれぜったいスピーカーから音出しているよ、あんな音量で聴こえるはずないもん、っとのことであったわけだ、

っきょうもその疑念を抱いての着座だったが、っやはりその気味だ、パンフィリは最弱音に始まるが、っいつ音が鳴り出したのかはっきりとわかるし、開始直後、ヴィオラのトップがたったひとりでかすかにごにょごにょっと演る音型がしかしちゃんと聴こえるのである、レスピーギでときどきあるマロ氏のソロにしても同断で、坂入氏との上野でのショスタコーヴィチではあんなにも瘠せて艶のなかった彼氏の音は、っここではじつに強靭で芯が通っている、直前にサントリーというより狭く、好条件の音場で聴いていても、オケ中の絃のソロはあんな瞭然とした聴こえ方はけっしてしない、ミニマル先輩ならずとも、っぼくもスピーカーから音を出しているとおもわずにいないところである、っまあでもそれはそれで、大空間で最適音量のステレオを聴いているようなもので、っべつにいいじゃないのよってなものだが、っそれならそうで、弊団のNHKホール公演ではスピーカーを使用して増幅を行なっております、っとN響は正直に公表してもよさそうな気はする、っとまれ、っそうすると3階席はどこで聴いていようと音はたいして変わらないわけで、っいまさらながらに、っあの階段を駈け上がっていた連中への憐愍の情が去来してくる、

っだからこの所感は、コンサートを聴いてのというよりも、広大な視聴室で音盤を聴いてのものと同然であろう、

下野氏との《DQ》公演時に云ったように、N響は、ったしかに流石に一廉の楽団にちがいないのだが、っあれでほんとうに音色は豊饒なのだろうか、っなんだかどこまでいっても強弱と描線のシャープネスとっきり聴こえてこず、当の舞台へ乗っている本人たちが、っそれ以外それ以上の音楽的要素というものを信頼していないかのような寂しさを、っこちとらなどは感じてしまう、っかっちりとした音が出れば出るほど、でもそれっきりない、っとぼくの耳はどんどん意地悪になり、っさてはこころはどんどん虚しくなってしまう、オーケストラを聴くというのは、っぼくにとってはもっともっとカラフルで、っもっともっといろいろの質感、膚触りがし、っもっともっと複雑微妙な体験であるはずなのだ、映画やTVドラマのサウンド・トラックをオーケストラで収録する際、指揮者や楽員はみなヘッド・セットをかむり、電子メトロノームの音を聴きながら演奏している、出てくる音は精確そのものである、N響を聴いていると、っなんだかそうした奏楽を大音場でやってみていますという感触がして仕方がない、っその精確さをうれしいとおもえるほど、っぼくは人間ができていないようだ、

っあとはお客の雰囲気、N響とみりゃ無条件に大歓声、大拍手を送りますみたような、勝手連というのか、無思慮な人たちがだいぶん大勢いるのも、っなにかいやだ、っちょうどあのかっての階段駈け上がり連がそういう人たちなのだろう、志ん朝さんの高座を聴いていると、マイクが拾ったお客の笑声は、っほんとうに面白いから笑っているという手応えをしている、っそれからすると、圓生師のものなどを視聴すると、定番のくすぐりの個所へくると、笑わなきゃ、ここくすぐりだから、圓生大先生のくすぐりだから笑わなきゃ、っとなにかお客が強迫観念に囚われでもしているかのような強張った感触がする、落語を覚えるなら圓生で、っとは云い古された指南だが、っお客をさように萎縮恐縮させてしまう人が、っはたして舞台人としてほんとうに天下人であろうか、っぼくなど、舞台人たるものお客を仕合わせにしてくれなくては、っとつよくつよくおもわずにいない、

キーミツも引退されてしまうことだし、っぼくにとってはふたたび足が遠退くこととなりそうなNHKホールである、



っさてあすは、っあすもダブル・ヘッダー、午は所沢にて、っこないだ調布でマーラー《3番》を振られた佐伯正則氏がスメタナ《我が祖国》を披瀝される、っあのマーラーにそれほどいたく感銘を享けたわけではないのだが、っまあ無料公演でもあることだし、っそしてよるは、渋谷というか参宮橋のなんだか行ったことのない器で、っかの小柳英之氏の公演、ヴァグナーの序曲や前奏やとマーラー《4番》とだったとおもうが、っできるだけくっちゃくちゃのどったばたのめっためたの演奏で、火の玉みたようにぶっ飛んでくれることを期待してやまない、っあんなにもダッサダサの不恰好な音楽家がこの現代にいてくれるということが、っぼくはうれしくて仕方がない、っよのなかの音楽という音楽が残らず洗練せられてしまったら、っそれはすなわち音楽の滅亡と同義ではないか、っかようの言辞を容れたがらない向きがあることは承知している、っわかっていて敢えて挑発しているのである、っぼくにすれば、ダサい音楽ももちろん音楽のうちである、っそんなの至極あたりまえのことじゃないか、世人とはいったい、っそれしきのことも許容できないというのであろうか、落語にはフラというすばらしい価値観があり、市民権を得て定着している、音楽シーンはフラを許し、っばかりか愛するだけの度量を有てないのか、誰がそんなの要らないと云っても、っぼくだけはそれを有ちつづけたいところである、っというよりも、去年末、初めて小柳氏を聴いたとき、っぼくはただ率直に感動していたのだ、感動している者に感動するなというのは、っそれはまさしくできない相談である、っあす、っできるだけ、っできるだけめっちゃくちゃの演奏になってしまってくれたい、っめっちゃくちゃの演奏に、っするのではなく、結果としてなってしまう、っそこに無二の感動がある、鳴る音の感覚的の耳当たりを洗練せしめることよりももっともっとほかに、彼には叶えたい音楽があるのだ、っぞんぶんに発奮せよっ、小柳英之っ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)