桜木町、 | ざっかん記

桜木町、




井上キーミツ/日本フィル公演、済む、演目はショスタコーヴィチのセロ・コンチェルト《2番》、シムフォニー《10番》である、

っやはり、演奏会をさいしょっから最後まで客席で聴くというのは頗るよい、っとうぜんだが、

っここ桜木町は、先般コバケンさんと日フィルとの公演を聴いた際におもったが、トーンとしてごく豊麗で、編成が膨大だと鳴った音がだいぶん残響にパックせられるふうだ、バルコニーは視界不良だからと以前は2階正面席へ坐すことがおおかったが、っほぼまいかい睡魔に襲われるのはなんだろうとよく訝っていたもので、っそりゃあんなにぼわんとした耳当たりの音になっては睡くなるはずである、っきょうはRCの2列目というかなりに舞台へ近い位置で、絃バスはほぼ完全に見えない、指揮者やソリストも、手摺が邪魔で、首を伸ばすか顎を引くかしていないと見えないといったありさまだが、音としては鮮烈である、っただ、トュッティは優に飽和し切るため、大宮のデッドで乾いた環境のほうが、声部声部の質感がもっとマルチに主張し合うたのしさがあったか、

佐藤晴真氏を招いての《2番》コンチェルトは、1楽章の中途で苛烈なピッツィのために彼氏の絃が切れ、キーミツとおふたりして袖へ下がられて仕切り直し、っしたがって、っあれで時間にして都合1.2とか1.3回分聴いたこととなり、っゆうべ客席で聴けなんだぼくとしては、っいくらか取り戻したことになるだろうか、、、発想が貧乏人である、

開演前にキーミツがマイクを持たれてすこしくお話しになったが、スコアには絃は16型でと記されてあるところ、彼氏の趣向で10型と倹しい規模で望まれるとのこと、っつまりちょうど指定の半数の人員というわけだが、ったしかに、っそもセロをソロにしたコンチェルトではオケがあまりヴォリューミーでは音勢バランスが取れないし、っじっさい聴いていると、曲調としても、絃に分厚い量感が慾しいとおもわせる個所は、っどの楽章にもなかった、

劈頭章を深沈と運び、諧謔章でやっと音楽を動かしはじめる、っというフォルムはショスタコーヴィチの後年の作に顕著な傾向だが、っこれもその例に漏れず、っかつ、コンチェルトであるにも拘わらず、フィナーレは賑やかに終止せず、シムフォニー《4・15番》みたように打楽器各種におしゃべりをさせ、謎を掛けて了わる、っその謎々の感触も、シムフォニーと共通しているところもあり、異なっているところもあり、不勉強なぼくは、っきのうをべつにすればきょう初めてちゃんとこの曲を聴いたのであるが、っこの人の作はほんとうに、作曲という業を通じて余人に未踏の境地へと分け入ってゆく感触がたまらない、

フルトヴェングラーは同時代人としてその進取の気風に明確に拒絶反応を表明し、ストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチを、児戯、っという膠もない語彙さえ用いて斥けており、っかたやプフィッツナーを、浪漫派のトラディツィオンに殉ずることにより、我等のこの時代には聴かれるが、未来へはけっして遺らない人、っとして悲哀を籠めて擁護しているが、っかなしいかなその予見通り、っいまやストラヴィンスキーもショスタコーヴィチも、世界のストラヴィンスキー、世界のショスタコーヴィチであり、っあまつさえ20世紀の大古典とさえ目されている、プフィッツナーは、忘れ去られた前世紀の遺物である、稀代の大巨匠としていまなお聴き継がれるフルトヴェングラーがしかし、時代のなかでさようの立場を採っていたということは、後代のぼくらとしてもっと意識してよい、ワルターにしても、ジャズについては、音楽への冒瀆、っと完全拒否だし、宇野さんとの文通のなかで、プッチーニを熱烈に称揚される宇野さんに対して、異国の若人よ、くれぐれもさようの世俗音楽なぞを我等が大古典たるモーツァルトと同列に論じないように、っと窘められたといい、ジャズはともかく、プッチーニさえ許容できないのか、彼の地の伝統の厚みとはかくまでなのかと、っいつかに宇野さんは述懐されていたものだが、っかく申す、コンサーヴァティヴィストをもって任ずるはずのぼくも、ストラヴィンスキーもショスタコーヴィチもなんらの抵抗とてなくたのしんでしまっている21世紀の愚輩の一個である、っこんにちコンサーヴァティヴィストとしてはせめて、っそのことに後ろめたさを嘗めるか否か、っそれは重大な問題として弁えていなくばなるまい、児戯の感触を、完全拒否ではない、っある程度は応接し、順応しもする、っや、臆面もなくたのしみさえする、っしかし、心裡のいずこかでは良心が疼きもする、っそれがモラルというものなのだろう、こんな子供騙しをしかしたのしんでしまって、、、っと折に触れて自重自嘲の気味を意識するのと、けっきょくはたのしむのだから良心の呵責なぞおぼえなくてよい、忘れてしまってよい、っと開き直るのとの間には、っなにかおおきな隔たりがある、っその弁えはこんにち、っぼくら現代人のせめてもの良識であるべきではないか、フルトヴェングラーやワルターに対して、こんな時代にしてしまってすみません、っとひとこと詫びるくらいの遠慮を有つことは、っじつにあらまほしきことにちがいあるまい、っさようにして、時代というものは遷ってゆく、っその遷移がちゃんと漸次的であること、っそれこそが、っいつの日もコンサーヴァティヴィストの切なる希いである、



っさておき、《10番》は、キーミツがこの曲を振られる最期の機会であったのかとおもうが、っきのうからしてエラーも極少となり、有終の美を飾るに相応しい大演奏であった、っかのロズージェストヴェンスキーが読響と行なったサントリーでの同曲は、っぼくとして生涯忘れることのできない麗しい記憶であり、っそこでは老匠の境涯を映してアレグロさえ沈み込むように深々としていたものだが、キーミツはこの曲に関するかぎりそうした年寄りじみたテムポは拒否し、前進性を強調するシーンがおおい、っそれが彼氏の人生の結論なのだろう、

っとくに1楽章では、長大のわりにあんまり急速章の風附きをしていないこの音楽に対して、大トュッティを經るたびに気分としては足取りを重くしてゆきたくなるところ、拘泥を断って前へ前へと進む、N響との演奏でもそのことが顕著に感じられたが、っきょうも同断である、

日フィルは、っほんとうに惚れ惚れする合奏だ、赤の次はもう青です、っという淡白な膚合いのN響に比して、赤と青との間にはもちろん紫があります、その間々にもいまだ無数の色調があります、っといったぐあいに音の色も質感もその変化は遙けくグラデュエイトで、っやはり、っそれでこそのオーケストラの本格の聴き応えというものである、N響のあのようでは、っわるくするとチープというか、っおもちゃのオーケストラというか、オーケストラごっこのような聴こえ方をしないともかぎらない、

っきのうは2楽章において、全員での強音部を見送ってのち、絃のみが弱音で取り残されるそのタテ線が乱れるというトラブルがあったが、っきょうはよろしく修整せられていた、っしたがって、短小なこの楽章では日フィルの強靭な合奏にほんの一分の隙とてなく、満堂を圧倒するにじゅうぶんである、

日フィルでまたぼくがいかにも好もしいとおもうのは、音の手触りがいつも健康的のことである、オーケストラの音色、質感というものは、指揮者の性格に依存して左右せられもするが、っまず楽団の地金として、絶えず明晰であろうあろうとすること、音を出す以上は快くないよりは快い音色であろうあろうとすること、っさようにして精錬せられてゆけば、っいきおい人懐こさを逸した殺伐たる合奏へ堕すこともありふれた通弊だが、日フィルはこんにち、っとても精妙なのに、同時にとてもフレンドリーな音の色、音の貌をしており、彼等が鳴るだけで、客席のぼくとしてもううれしくてたのしくて仕方がない、声があかるくて、話ずきで、っその人がいるだけで場のムードが決定せられる人というのがいるもので、っそういう人の数値化しえないしかし社会への貢献たるやいかばかりか、っとぼくなどは恆日頃からさようのいわゆるムード・メイカーへの満腔の敬意を捧げているものだが、っこんにち日フィルの奏楽は、っいわばそうした声なのである、っその人がいてくれるだけで誰しもがこころうれしくなってしまう、っさようの色であり薫りなのである、っきょうなどもあれで、っいったいなんたる仕合わせな音響を結んでいたことであろうか、

っよって、死神が不敵に踊るような3楽章でさえ、っやり切れない深刻趣味とは無縁で、音楽がどんなにシアリアスネスへ傾斜しようとも、絶えずゆたかな音響美に耀かむとする精神の健康健全が保たれる、っまた声部声部が、っなんと貪慾貪婪にみずからの役割役割を謳歌せむと意を束ね合うのだろう、ったとえばオーボー1番は、っきのうフィナーレの序奏におくソロでかすかに音が掠れたが、っきょう見ながら聴いていると、っそれも能うかぎりエスプレッシーヴォであらむとするが故の名誉の負傷であったのだとありありとわかる、彼氏ばかりではない、フリュートが、ピキェロが、コール・アングレが、クラリネットが、ファゴットが、プリンシパルのみならず下位の奏者に至るまで俺も我もと殺到し、競い合うようにしてみずからこころゆくまで音楽をたのしんでいられる、っまばゆいばかりのムジツィーレンの氾濫である、

ホルンとトロムペットとの音色、音勢の相関も、っじつにザ・ベスト・ミックスである、っよくあり勝ちなのは、ホルンがしゃびしゃびと水っぽく、音量も出さず、角がよわくては飛車独りが気張らねば、っとトロムペットが不当に硬く、無駄な音圧を誇示するという窮窟な関係で、N響や都響はしばしばそういうふうだが、日フィルのホルンは、っいまや大スター信末氏と村中女史との2トップで、絶えず音量を出さないよりは出して、ごつごつと硬質硬骨の感触もふんだんに盛り込んでゆこう、っとの地合いがよくよく共有せられているようで、っしばしば、もうあとわずか吹きすぎると流石に我勝ちのスタンド・プレイと映じてしまうか、っというぎりぎりのラインを狙いにゆく果敢さが聴かれ、っその気概がまことにうれしい、ホルンがそうあってくれるとトロムペットはずいぶんと楽ができ、っもう一方の雄、オットー氏は余裕綽々の勇姿、下位のメムバーにも名手が揃い、っあのように金管全体の音色、音量音圧がびしっと安定し、いつでも一定品質以上を提供できますっ、っという安心を聴き手に与えるその頼もしさというのは、っひとむかし以前の日本のオーケストラにはおよそ望みえないことであった、っきょう日、っほんの一寸した合奏の綻びにすらケチを附ける向きがあるが、っぼくなどからすると、君等の耳は不当に贅沢なのじゃないのか、ここ数年で日本のオーケストラは、瞠目すべき進展を遂げたのではないのか、まずはそのことを素直に壽ぎ、感謝しないでは、演り手と聴き手との関係として、いささかフェアネスを欠くのではないか、っと憤らずにいない、

トロムボーンははんたいに、若い奏者に代替わりしたことで以前からすればやや大人しくなり、っしかしぼくにすればそれもまたうれしい、っかってのヴェテラン勢を軽んずるのではけっしてないが、っその往時の日フィルのトロムボーン連はいかになんでもばりばりいいすぎ、音色として世辞にもうつくしいとはしえなんだし、音勢としても全楽の裡での一部品としてぜんぜん定位できていなんだ、それでもいいんだ、俺様の音を吹き散らかせばいいんだ、っというのはもはやこんにちのオケ・マンの士気ではなく、、、断わっておけば、っぼくは演奏の性格次第ではいまだにそのことを哀しみもするアナクロニズムの虜囚ではあるが、日フィルに関するかぎり、っとにかくソフィスティケイトという形容をネガティヴな文脈で用いむという気を、っこちとらをしてぜんぜん惹起せしめない、っより精妙であればあるほど、っよりうれしい、っより仕合わせな聴体験を与えてくれるのである、

っそして絃、っあのぎーぎーがりがりでぜんぜんひびかずに側鳴り放題、音量も出ずに管連中に消され、アルティキュレイションも、っここで何度もその譬えをしたように、犯罪者が筆跡を気取られぬために定規を宛てがって書いた犯行声明文みたようにがぎごぎのぎこちなさであった日フィルの絃が、っいまやなんと大々々刷新を遂げたことか、往時はぼくも客席で、これがプロフェッショナルの演奏かよ、、、っとしばしば怨嗟をおぼえ、っそれが彼等の公演から足が遠退く一因でもあったが、っふたたび頻繁に聴くようになって、っいちばんうれしいのはこのことかもしれない、描線はひじょうに鋭利だが音量にも不足せず、っしかも指揮者の意気に感じて色合いがひじょうに複雑に変転する、っきょうも、っかっては汚ない側鳴りの代表格という不名誉に甘んじていたヴィオラ連が、音場という空間をおもうさま支配せむかのようなえもいわれぬ香気を発する、っほんとうに、っよくぞここまで持ち直した、持ち直したというか、っそんな非礼な評価ではいけなくて、稀代の藝術家集団、日本フィルハーモニー交響楽団である、

っそれら部品を集めて成る《10番》は、掛け値なしに超の字の附く一級品特級品であった、っきのうはフィナーレの最終音が声部間で呼吸が合わずにわずかに尻窄みで、キーミツが客席を向き直りながら振り収められるために、直後に起こる歓呼と拍手とによってやや誤魔化された憾があったところ、っきょうは見ているとキーミツが音頭を取ってそのためにすこしく時間を取ってでもしっかりと最終音を打ち据えて了わろうというふうで、っそれはみごとに定まって、っまことに気分爽快であった、

っおなじ曲でもほんとうに指揮者に依りけりで、ロズージェストヴェンスキーのときは、フィナーレさえ儀式のごと深淵で、最終音を振り切って天を指したままの老匠の棒は、っご当人としてはすぐに拍手を始めてくれるなというご意向は微塵も有たれていないようであったが、っそれでもぼくら2,000人は、彼氏のその棒がゆっくりと下りてくるまでじつに10と数秒間にも亙って、誰ひとりとして拍手を始めることができなんだのである、っあんなにも賑やかに終止する曲だのに、

静かに了わる曲のときはなおさらで、っこないだのカーチュン氏のマーラー《9番》は、初日も彼氏が完全に腕を下ろされるまでのあれで30秒ほどの間、拍手は起こらなんだが、っそれでも腕が下り切れば堪え切れない人が手を叩き始めたので、2日目はそれ以上であった、初日とほぼ同様の結び方、初日よりすでにしてやや長かったかもしれない沈黙ののち、彼氏の腕はゆっくりゆっくりと体側へ下りたが、っこちらは完全に下り切っても満席の堂内はしかし依然、森閑としたままで、カーチュン氏はそのまま、っおそらく瞑目して立ち盡し、っややあってもういちどかすかに振り解くような仕種をされて初めて、っぼくらは夢幻の境から現へと連れ戻されたのであった、っしたがって、っそうさあれで、完全に楽音が終止してから、1分か、っどうかすると1分半ほども、大観衆が沈黙を守ったことになるのではないか、

表現、演奏の煮詰まりぐあいからいって、っよしんば天を指して振り収めるなりすれば、っきょうの演奏もまた、賑やかな終結に反して長い長い沈黙を生んでもおかしくはなかった、っそこを客席を向き直ってすかさずの拍手を許されるあたり、キーミツという人の稟質を象徴していたようにおもう、



東神奈川辺まで歩ってぼやぼやと食事をしていたら、っいまもう日附を跨いで、っまだ南武線車中である、っこれから聖蹟からチャリンコで帰宅せねばならないが、動画配信はいまだ公演全編を観られる状態であってくれるだろうか、トラブルによるコンチェルトのやり直しも含めてドキュマンとして録画してコレクションしておきたいのだが、逸るきもちを抑えて家路に就くとせむ、

っあすは、っあすというかもうきょうは、っひさびさになんにもやることがない休日、っのんびりとすぐさむ、



みずの自作アルヒーフ

 

《襷  ータスキー》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351779591.html(㐧1回配本)

 

《ぶきっちょ》(全4回)

 

https://ameblo.jp/marche-dt-cs4/entry-12351806009.html(㐧1回配本)