こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。

いつもお読みいただきありがとうございます。

 

 

【 長州問題に苦慮する幕府 】

 

前回の続きです。

大久保一翁の許に三度目の出仕命令が届いたのは、12月1日(慶応元年-1865年)でした。最初の呼び出しから三か月も経った同月12日、一翁は江戸を発ちました。大坂到着は22日。

 

呼び出しと見合わせを二度も食らった一翁が大坂から呼ばれたのは、この時期の政局と大いに関係があります。

この年の閏五月、将軍家茂は幕府首脳と共に大坂城に入城しました。長州再征のためです。勅許を求められた孝明天皇は当初、難色を示したものの認めることにしました。いよいよ征討という矢先、思わぬ事件が起きます。四カ国艦隊が兵庫沖に現れたのです。

そのため幕府は仕切り直しを余儀なくされました。その後、慶喜の獅子奮迅の活躍により安政条約の勅許を獲得すると再び長州征討に向けて動き出しました。

 

将軍辞職を撤回した家茂は、10月から11月にかけて幕閣の大幅な人事異動を行いました。小笠原長行(ながみち)板倉勝静(かつきよ)が老中に任命され、永井尚志(なおむね、またはなおゆき)が大目付、戸川安愛(やすなる)が目付に復帰しました。慶喜と対立した阿部正外と松前崇広は老中職を解かれました。

さらに慶喜・松平容保・同定敬の三人に対し幕政への関与が命じられました。これにより幕政における一会桑の存在感はさらに大きくなりました。

 

この頃の一会桑の風聞に触れた勝は日記にこう記しています。

「当節、天下の御政事は、(一橋)(会津)(桑名)より出で、幕府の官人兎角(とかく)の風評なし。怪しむべき形勢と云う」(慶応元年12月1日)。朝廷の一会桑への信頼が厚くなる一方で、これまで幕府政治を支えてきた門閥や家柄による老中・若年寄の存在は薄いものになり始めていました。

 

 

この頃、大坂城内における老中・大目付ら幕府有司らの長州問題に対する考え方は、いわゆる「御威光論」でした。つまり長州に対して幕府が諸藩を動員して征討軍を差し向ければ、長州はもとより征討に批判的な態度を取る諸藩も幕府の威光に逆らえなくなるという時代錯誤の楽観論です。

 

 

10月、幕府は広島に長州側の代表の出頭を命じ、同地に派遣された永井と戸川は、要請に応じた宍戸備後介(ししど ぶんごのすけ)らに対し訊問を始めました(同年11月20日)

この時期、長州藩はすでに幕府と対決する決意を固めており、戦準備のための時間稼ぎの必要から幕府を欺く方針を貫きました。

こうした長州側の意図を見抜けなかった永井たちは、降伏条件を守り、処分決定を待つという趣旨の書面を信用し、大坂に戻り復命しました。戦争が回避できるとの楽観的な見込みに立ったあまりに甘い観測でした。最前線で交渉する永井たちも時代遅れの「御威光論」の呪縛からのがれることができなかったことになります。

すでに敵に廻っている相手に騙され続けるという失策を重ねました。背後では薩摩と長州が手を結ぶ水面下の動きが秘密裏に進んでいました。ですが幕府側はこうした動きに全く氣づいていませんでした。

 

 

【 老中に進言する一翁 】

 

さて大坂に到着した二日後の12月24日、登城した大久保一翁は、早速老中たちから長州問題についての意見を求められます。

将軍親征の軍を率いて大阪城まで出張り、天皇の許しも得たからには、諸外国に出鼻を挫かれたとはいえ、このままおめおめと江戸に戻るわけにはいきません。老中たちは幕府の威光に傷がつかない解決の仕方を望んでいました。できれば戦を避けたいと考えていた板倉老中は、一翁の見識にすがり事態解決の智恵を授けてもらいたかったのでしょう。

 

一翁は異議を唱えました。

「幕府有司の面々の意見は、幕府の威光を立てることばかり考えているだけで、そのようなことは小事に過ぎない。それより長州問題など速やかに片づけ、大政を革新し国家百年の大計を立てることの方が急務である」と。

 

一翁が持論を述べると老中からはどうすれば長州問題を早期に処置できるかと尋ねられ、答えています。

「寛大な処置で済ませるのが良い。本来は、長州が御所に乱入するという暴挙を犯したのだから、前回の征討でその罪を問うために上様自ら御進発されるべきであった。そうであれば御威光が立つことにもなったであろう。ところが行われなかった。」

 

前回は征長総督の徳川慶勝が参謀に指名した西郷吉之助の働きにより長州側が謝罪し、長州藩自らが処罰を行うことで決着を図りました。

「その後再び討伐の運びとなり、上様が御進発されることになったがすでにその機は去っており、長州の罪を問う理由も明らかではない。そのため物議をかもし征討に服しない者たちがいる。これでは幕府の威光は立たないばかりかむしろ損じてしまう。だが公議を採用するのであれば威光が立つと考えるべきだ。」

 

一翁は、長州に対しては寛大な措置で済ませ、大政を革新せよと主張しました。一翁が言う大政革新とは、英国の議会政治制度を手本とした「公議会」を設け、天下の公論により日本国の方針を立て、その体制を確立することです。これが一翁の政治信念であったわけですが、幕藩体制の維持しか頭になく現状を変えたくないと願う老中らには、一翁の先進的な考えは到底理解しかねるものでしかありませんでした。

 

老中からの求めに一翁は三案の講和条件を示しました。ですが高杉晋作を中心に藩内抗争を経て討幕派に生まれ変わった長州藩には幕府のどんな寛大な措置にも応じる考えはありません。薩長提携の動きを知らずにいた一翁も長州藩に対する見方は甘かったことになります。

 

 

【政局転換をうかがう松平春嶽】

 

勝の同志である越前福井の松平春嶽も一翁と同様の政治思想の持主であり、共通した考えを持っていました。

春嶽が勝宛に送った書簡(慶応元年12月15日付け)を見るとこの時期の政局を春嶽がどのように見ていたかが浮かびあがってきます。

当時、長州問題について在阪の老中たちが幕府の威光が傷つかない形で終わらせたいとの考えであったのに対し、一橋慶喜は長州を厳罰に処す必要ありとする強硬論を唱えていました。

安政条約の勅許獲得に貢献した慶喜は、幕府にとって最大の功労者と言えました。そのため老中らは慶喜に対し強くものが言えず、慶喜の意向に反対を唱えにくい空気に支配されていました。

 

 

(大河ドラマ「青天を衝け」で松平春嶽役を演じる要潤さん)

 

 

松平春嶽も長州再征には反対でした。一翁の政治思想に共鳴する春嶽にすれば、再征は「幕府の」を象徴するものでしかなかったからです。

そのため勝への手紙の中で、春嶽は「幕脱却」がなくては今後の行く末を見通すことは難しいと述べ、幕私を体現する主たる人物こそ「独木公(慶喜)」と見ていました。そして慶喜の見識が変わらない限り一翁や春嶽が考えるような政治的局面が訪れることは望めないと考えていました。

 

事態の打開を図るため春嶽は側近の中根雪江を京・大坂に遣り、幕府や薩摩と接触させ、それぞれの動きを探らせています。

12月19日、中根は大坂城で老中小笠原長行と会見しています。

中根は小笠原に対し、「征長のことといい、また薩摩との関係といい、多事の折なれば人材登用が肝要である」と説き、今幕府内で起用すべき人材は、大久保一翁、勝安房守の両人が適任であると述べました。

その10日後の29日には、一橋慶喜とも会見しているのですが、そのことは次回にお話することにします。

 

 

さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

【参考文献】

 ・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

 ・「勝海舟と西郷隆盛」 松浦 玲 岩波新書

 ・「大久保一翁」 松岡 英夫 中公新書

 ・「徳川慶喜」 家近 良樹 吉川弘文館

 ・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「明治維新の舞台裏」 石井 孝 岩波新書

 ・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

 ・「勝海舟全集2 書簡と建言」 講談社

 ・「勝海舟全集 別巻 来簡と資料」 講談社

 ・「続再夢紀事 第四」国立国会図書館デジタルコレクション

  写真・画像: NHK大河ドラマ「青天を衝け」より