こんにちは、皆さん。
勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。
いつもお読みいただきありがとうございます。
かつて小泉純一郎元首相がある事で引き合いに出した「人生には三つの坂がある」という言葉に世間の関心を集まったことがあります。当時政権を担当していたのは第一次安倍内閣で、その安倍首相が突然、辞任表明された時に小泉氏が漏らした言葉です。
人生には上り坂と下り坂の他にもう一つ「まさか」という坂がある。
まったく予想もしない思いがけないことが人生には起きるもの。
頭ではわかっているつもりでも、いざそうしたことが起きるとやはり人は慌てふためき、大きなため息をつき、悲嘆に暮れます。また周囲の人々との間で様々な軋轢を生みだしてしまうことがあります。
今回お伝えするのは、まさにそんなお話です。
さて前回に引き続き、一橋慶喜を取り上げます。
本日のテーマは、「まさか」の事態に直面したときに当事者とその周辺の人たちがどのように考え、行動し、人間関係にどんな変化を与えたか、です。では始めましょう。
【 長州攻めに自信を見せる慶喜 】
今回取り上げるのは、慶応二年(1886年)7月下旬から8月にかけての頃のことです。
7月28日、慶喜は家茂の名代として「大討込」と称して長州への出陣に向けて並々ならぬ決意を表明しました。
慶喜は8月2日、ロッシュに宛てて書簡送り、武器の調達を依頼しています。この頃の慶喜が強気一辺倒でどれほど自信に満ちていたかは、勝の日記(8月9日)からもその様子が伝わってきます。
「橋公(慶喜の事)は、是非征長御成功のお見込みなり」
同月4日、朝廷は慶喜を参内させて朝議を開き、孝明天皇が征長戦の解兵不可の決定を下しました。少し以前から薩摩側から征長中止の詔勅を求める動きがあり、それに応じる意思がないことを天皇自ら表明しておく必要があったからでしょう。
再び8日に参内した慶喜に孝明天皇より、「速やかに追討の功を奏する」ようにとの勅語と御剣が降されました。天皇から絶大な信頼と支持を寄せられた慶喜は、自ら軍を率いて戦い劣勢を跳ね返し、軍事的勝利に導いてみせるという自信を一層深めたことでしょう。
こうして着々と戦準備を進める慶喜の出陣が12日と決まりました。
先に京から下阪した老中板倉勝静は、戦闘準備の手配りを行いながら幕軍を率いて広島に向かう慶喜の到着を大坂城で待つことになりました。
そんな矢先、思いもよらない報せがもたらされます。幕府軍が布陣する小倉城が陥落したという信じがたい情報が大坂城にいる板倉の許に届いた(8月10日)のです。まさかの一報を受けた板倉はすぐさま京にいる慶喜に知らせるため馬を走らせました。
翌11日、板倉からの報告により慶喜とその周囲の者たちは以下の事を知らされました。
・将軍死去の報が伝わると小倉口に布陣する征長軍の肥後藩や久留米藩らの兵らが総指揮官の小笠原長行に無断で戦線を離脱(肥後藩だけは長州藩と戦い、勝利しています)。
・将軍死去とこうした事態の発生に小笠原は戦意を喪失。指揮官としての責任を放棄し、富士山艦で小倉を抜け出し長崎へ退去。
哀れなのは、征長のため幕府に協力した小倉藩でした。九州諸藩の兵が次々と撤退し、幕府側の総責任者である小笠原までも敵前逃亡し見捨てられたも同然でした。そのため小倉藩は居城に火を放ち退去せざるを得なくなったのです。
(現在の復興された小倉城)
【 小倉城陥落の報に接した慶喜の言動 】
小倉城が陥落したのは8月1日。
慶喜は何も知らずにいましたが、京にいる間に征長戦のための幕府側の拠点はすでに崩壊してしまっていたことになります。
自ら率いる直属軍で押し寄せた長州兵を追い払い、藩内にまで押し込んでみせるという慶喜の目論見は見事に外れ、誇り高い鼻柱は完膚なまでにへし折られたのでした。
慶喜が備える際立った特徴の一つは、守勢に立たされたり、形勢不利な立場となっても、その状況を切り抜けるためにはどうしたらいいかという一点に思考を集中することができることにあります。状況を見て不利だと判断すればこれまでの考えをサッサと捨て頭を切り替えることができる柔軟な思考の持ち主でした。
常識的な考えの持ち主なら従来からの主張を変えたり、自分の意見を撤回するのはためらうものです。一貫性がないことへの批判を恐れるからです。ところが慶喜はそういうことを躊躇することなくできる稀有(けう)な人物でした。現代の言葉で言えば、メンタルブロックが極めて低かった人物と言えるかもしれません。
幕末を生き抜いた慶喜の関心は、常に目の前の状況を見つめ、危機的な局面をどうしたら乗り切ることができるかということにありました。一般的に困難な状況に直面した時、真っ先に頭に浮かべるのは、自分に好意的な人や協力的な関係にある人たちのことです。周囲の人間との良好な関係が壊れ、信頼を失ってしまっては望ましい解決とは言えないからです。
ですが慶喜の行動を見ていくとこうした常識的な感覚を生来持ち合わせていなかったのではないかと思うことがよくあります。周囲がどう受け止めるかということそのものに関心がなく、極めて無頓着な人物でした。この時がまさにそうでした。
周囲に突然、長州への出陣を中止し、今後は有力諸侯と協議し、長州問題を含む国の重要な問題は決定していくと一転したことを言い出したのです。
【 大混乱に陥った朝廷・幕府・会津 】
もともと対長州戦は敗色が濃かったにも関わらず、慶喜一人が長州と戦うと宣言したことから今回のことは始まりました。幕臣だけでなく長州攻めにまだ参戦していない会津・桑名藩も慶喜に同意しました。さらに天皇の支持まで取り付けた上で戦準備を進め、いよいよ出陣という局面になって誰に相談することもなく、急に中止すると言い出したわけですから周囲で混乱が生じないはずがありません。
慶喜は、松平容保・定敬と板倉勝静に対し出陣を中止し、長州と休戦するか戦闘継続かは有力諸侯と協議して決定したいと伝えました。
日本の会社では経営レベルの会議で重要かつ難しい決定する際には、事前に多数派工作が行われることがあります。いわゆる「根回し」と呼ばれる行為です。慶喜はこの根回しを全く行いませんでした。恐らくこういう手配りを行う必要ありとさえ考えていなかったのでしょう。
慶喜の突然の征長戦中止と諸侯会議開催の方針の表明は、幕府内はもとより会津・桑名の両藩、朝廷にも大きな混乱を引き起こし、激しい反発を生みました。
幕臣からの慶喜に対する憤りは大きく、「不忠不義の極み」とまでの批判の言葉が投げつけられました。
松平定敬(桑名藩主)は、後に慶喜の方針転換に止む無く同意したものの会津側は慶喜の裏切りであると激怒し、松平容保(会津藩主)は慶喜批判を書面で行っています。
これまで一枚岩の結束を誇ってきた「一会桑」勢力でしたが、これを契機に関係にひびが入り始め、その後は分裂の道を歩むことになります。
これまで朝廷を思うがまま動かしてきた一会桑勢力の後退は薩摩藩らの反対派勢力にとっては、もう一つの「まさか」とも言うべき巻き返しの機会の到来につながっていきます。
一方、朝廷はさらに深刻な事態にありました。
これまで主導権を握っていたのは、長州再征を認めた孝明天皇を始めとする二条斉敬(にじょう なりゆき)関白、中川宮(朝彦親王)らの幕府支持派でした。そのためこれまでは薩摩との関係が深い公卿からの征長中止の意見に耳を傾けることはありませんでした。
孝明天皇は慶喜を強く支持してきただけに慶喜の変説に衝撃を受け、出陣中止に強い不満と反発を覚えました。二条関白らは慶喜の考えを受け入れれば、自分たちのこれまでの行為に誤りがあることを認めることになり、反対派の公卿たちからの批判と非難が降りかかることを恐れて幕府に不満をぶつけるしかありません。
こうした状況にいた慶喜の心中はさすがに穏やかではなかったと思われますが、次にどのような策を講じようとしていたかは次回に譲ることとしましょう。
さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
【参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館
・「徳川慶喜」 松浦 玲 中公新書
・「徳川慶喜」 家近 良樹 吉川弘文館
・「江戸幕府崩壊」 家近良樹 講談社学術文庫
・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房
・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社
・「続再夢紀事 第五」国立国会図書館デジタルコレクション
写真・画像:ウィキペディアより