こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯を手がかりに他人に流されずに生きるヒントを探し続けている、

歴史大好き社労士で、シニア未来サポーターの山路 貞善です。

 

前回のコーヒーブレイクを挟んで、1カ月振りの投稿になります。少し投稿間隔が空いてしまいましたが、早速前回の続きから始めましょう。

 

 

 

前回、徳川慶喜が、京から離れることができずにいたことをお話しました。

その理由の一つが、「兵庫開港問題」(第153話、第154話)という政治課題が解決されないままにあったことでした。

 

条約の勅許は慶喜の奮闘で、慶応元年(1865年)10月、勅許が下りたものの、兵庫開港については孝明天皇が差し止めを命じたままになっていました。イギリスをはじめとする四カ国の代表たちは、ロンドン覚書により、慶応3年12月には兵庫などの港を開かなくてはならないと定められていたため、幕府の確約を強く求める行動に出ました。

 

 

 

大政奉還に至る経緯をお話する上で、この問題は避けて通れません。そこで今回は「兵庫開港問題」がどのような展開を見せたかについて取り上げます。

 

 

慶喜は政治能力も指導力もあり、リーダーとして初代家康に匹敵する実力の持ち主でした。そのため反幕勢力にとっては手ごわい存在であり、恐れられる相手でした。

 

となれば幕府側にとっては、頼もしい存在として信頼されるところですが、実際には、身内というべき徳川の将軍、幕閣、幕臣からさえ受け入れてもらえず、冷ややかな目でしか見られていませんでした。状況を見て不利と思えば何のためらいもなく、これまでの主張や考えを変えることがあり、また他人の感情への理解に欠けるところがあったからです。

 

このように国内での評判は、芳しくない徳川将軍でしたが、当時の外国人の目にはどのように映っていたのでしょうか。

 

 

 

 

【 新国家元首として謁見に臨む新将軍 徳川慶喜 】

 

慶応3年(1867年)3月、慶喜は新将軍として四カ国の外交代表と大坂城で引見することを決意します。実は前年12月2日、新将軍による外国公使謁見は、幕府より各国に対し通知されていたのですが、孝明天皇の崩御により儀式を延期した経緯がありました。

 

 

いわば仕切り直しとなったわけですが、慶喜はある決意を胸に秘めていました。それは、国の元首として、各国の公使らに兵庫開港を確約することでした。

 

 

先に大坂での謁見を伝えられた四カ国代表は、5日後の12月7日、イギリス公使館に集まり、今回の大坂訪問では、兵庫開港について幕府の確約を取り付けることで合意していました。

 

フランス公使ロッシュは、翌年2月(慶応3年)、大坂に向かいました。

慶喜はロッシュと会見します。この時期のロッシュは、幕府の軍事顧問だけでなく、政治顧問であり、財政顧問ともいうべき立場から、慶喜に対し指南を行っています。

 

そのロッシュから、今回の各国代表の大坂訪問は、新将軍就任への敬意を表するためだけではなく、兵庫開港に関する幕府の約束を取り付ける機会と考えていることを慶喜は告げられました。また日本が西欧での国際秩序に加わるための儀式として実施される必要があり、儀式そのものが西欧式の慣行にしたがうことを求められました。

 

 

すでに慶応元年10月に条約勅許は、禁裏守衛総督時代の慶喜の奮闘により降りていましたが、兵庫開港については、孝明天皇の意思により開港が差し止められたままでした。

 

そこで慶喜は、公式謁見に先立つ3月5日、開港の勅許を願い出る上書を提出しました。19日、朝廷から許可は下りず、再考せよとの返答がありました。

 

さらに内謁を控えた22日にも再び、慶喜は上書を提出。朝廷からは回答のないまま外国公使との謁見の日を迎えます。

 

大坂城で、英仏蘭への公式謁見(えっけん)が行われたのは、3月28日。

それに先立ち内謁が25日に英、26日に蘭、27日に仏という日程が組まれました。アメリカのみは、29日内謁、4月1日、公式謁見。それぞれ日を分けてと内謁(内々の非公式の会見)と公式謁見がありました。

 

 

 

 

【 英公使パークス、慶喜と謁見 】

 

慶喜と幕府にとって重要なのは、英国公使パークスとの謁見でした。

英国は薩摩との関係を深めており、幕府には批判的な態度であったからです。

 

 

慶喜はパークスとロッシュに対して兵庫を開港すると約束しました。ですが、兵庫を開港する朝廷の許可は、この時点ではまだ降りていません。

慶喜は、28日の公式謁見の場では、自分が「全権を掌握」し、「条約を一々履行(ふみおこな)ふことを断然決定した」と、高らかに宣言しました。

 

またパークスには、幕府が送り出した留学生の受け入れや海軍伝習のための教官派遣についても礼を述べました。

こうした慶喜による明確な決意表明と一連の言動は、パークスを大いに喜ばせました。

 

謁見の場で慶喜は洋風の食事を用意し、女王陛下の健康のために乾杯するなど、西欧式のもてなしで代表団を歓迎し、公式行事を無事に終了させました。

 

 

この日、徳川慶喜がパークスに与えた印象は、強烈なものがあったようです。

慶喜がまだ31歳の若さでありながら、「古い偏見やしきたりと取り組むさいの柔軟性、変化する環境に対する適応性」を備えているとの感触を持ち、日本の新しい指導者としての期待をパークスに抱かせました。

 

 

 

公式謁見の翌日〈3/29〉、イギリス人がこの日の慶喜の姿を写真撮影しています。

それが下の大坂城内での写真です。

 

 

(慶応3年3月 大坂城にて)

 

 

慶喜は、4月1日付けの朝廷に対する返書において、「勅許が下りないうちは、布告は行わない」と回答しており、対外的なメッセージに配慮しながらも国内の批判にも言い訳できるように目配りしている感があります。

 

開港を延期することについては、文久年間に日英で合意が成立し、ロンドン覚書(第137話、第151話)に定められていました。一度、延期をしていますから、これ以上延ばすことができません。定められた開港予定日(慶応3年12月7日)が迫っていました。

 

開港準備のためには、遅くとも6カ月前、つまり慶応3年6月6日に布告しなくてはなりません。そのためには5月23日の朝議にかける必要がありました。

 

 

慶喜は23日の夜8時から翌24日の午後まで夜を徹しての会議が開かれました。この日の議題は、兵庫開港問題と長州処分問題の2つでした。徹夜の会議をリードしたのは、またしても慶喜で、兵庫開港の勅許を得ることに成功しました。また同時に長州処分は寛大な処置とするとの許可も下りました。

 

 

前回の条約勅許において、将軍ではなかった慶喜は強引なやり方で朝議をリードしました。今回は徳川将軍として、ロンドン覚書に定められた期日までに自らの意思で兵庫開港を実現すると決意し、日本の国家元首として四カ国の代表者たちと謁見し、そのための儀式も欧米のやり方を踏襲し、滞りなくやり遂げたことで、外国公使たちを少なからず驚かせました。

 

慶喜は、日本のトップに相応しい実力を見せつけ、将来に期待を抱かせるリーダーとして強く印象づけることに成功したのです。

 

 

 

6月6日、晴れて幕府は兵庫港を12月7日に開港すると布告しました。

安政年間に外国との間で結ばれた条約の勅許を朝廷から得るまでに7年、兵庫開港の許しが出るまで、さらに2年という歳月を経て、誰も成し得なかった難題に決着をつけたのでした。

 

 

 

【 謁見後の慶喜に対する公使たちの評判 】

 

各国の代表者たちは条約の遵守を約束した徳川慶喜を高く評価し、とりわけイギリス公使パークスを喜ばせました。

 

パークスはよほど嬉しかったのでしょう。

意外なことに謁見後、ライバル国フランスの公使ロッシュに宛てて個人的な手紙を送っています。

 

そこに書かれていたのは、慶喜をほめたたえる言葉でした。受け取ったロッシュも対立する相手からの手紙を読み、大いに喜んだようです。

ロッシュも「(慶喜は)われわれの中に信頼と共感を呼び起こした」そして大君(将軍)は条約を履行する意思と能力を有していると本国の外相宛てに書き送っています。

 

 

 

【 西郷の反応と薩摩の方針転換 】

 

後日、パークスの通訳官で、薩摩藩との関係が深かったアーネスト・サトウが、西郷吉之助(隆盛)に、パークスが慶喜に謁見した際の様子を伝えたところ、「西郷はわれわれと将軍との和解について大いに不満であった」と記しています。

 

西郷にとって、幕府を批判し、薩摩寄りの考えを持っていると考えていたパークスが慶喜を高く評価したことは、大きな衝撃となったはずです。

 

 

薩摩はイギリス側から、まだ勅許が下りていない段階で慶喜が四カ国に条約の履行を確約したことを知らされました。これは幕府関係者以外知らない事実でしたから、この件で慶喜を追い詰めようと考えたのでした。

 

もともと兵庫開港と長州処分に関して、実力雄藩の四藩主による会議を開催するための運動を薩摩藩は行っていました。島津久光(薩摩)、山内容堂(土佐)、伊達宗城(宇和島)、松平春嶽(越前)を京都に集めて、慶喜に批判の矢を集め、権力をこの会議体に移そうと画策していたのです。

 

 

5月14日、二条城で四藩主と慶喜が一堂に会しました。

しかしながら、この四人をもってしても慶喜一人の弁舌に対抗できるものはおらず、日ならずして、この会議体は崩壊しました。薩摩が、もはや武力討幕以外に道はないと考えるようになったのは、この頃です。

 

 

さて本日はここまでとしましょう。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

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《2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』新たなキャスト》

 

前回のコーヒーブレイクで、主要キャストの皆さんをご紹介しましたが、その後、出演者の顔ぶれが次々と発表されていますので、一部を紹介します。

 

 ・徳川家慶役(第12代将軍)/ 宅麻伸

 ・徳川家定役(第13代将軍)/ ふかわりょう  

 ・徳川家茂役(第14代将軍)/ 神尾楓珠        

 ・阿部正弘役(老中首座)/ 岩田剛典 25歳で老中に就任。大胆な人材登用を行った逸材。

 ・鳥居耀蔵役(南町奉行) / 北村一輝  妖怪と呼ばれた。北町奉行 遠山景元(金四郎)の 政敵

 ・徳川斉昭役(水戸藩主)/ 柄本明 「烈公」の異名を持つ。井伊直弼(岡部たかし)と対立

 

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読者の皆さんからの「いいね!」はとても嬉しいです。

また「読んで感じたこと」や「印象に残ったところ」があれば一言でも教えてください。これからも書き進めていく上で、励みとパワーになります。よろしくお願いします。

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「徳川慶喜」 松浦 玲 中公新書

・「徳川慶喜」 家近 良樹 吉川弘文館

・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

・「遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄 4」 朝日文庫

 

写真:Wikimedia Commons「Tokugawa Yoshinobu」(Public domain)より

 

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