こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯を手がかりに他人に流されずに生きるヒントを探し続けている、

歴史大好き社労士でシニア未来サポーターの山路 貞善です。

 

では早速、続きを始めましょう。

話をわかりやすくお伝えするため、前回の内容を一部振り返りながらお話します。

 

 

 

【 海軍伝習と二重の約束 】

 

勝は江戸で軍艦奉行としての職務を果たす日々を送っていました。

長州藩との戦いで勝利をおさめられなかった幕府は、陸海軍の軍事力の充実を図る必要から陸軍はフランス、海軍はイギリスの指導を仰ぐことにしました。

 

こうした動きの中、慶応3年3月、勝は海軍伝習掛を拝命します。

イギリスから外国人教師を招き、近代海軍の人材を育てる――そのための制度設計、待遇交渉、教育方針の整備。こうした職務を意見具申を行いながら、軍艦奉行として着実に実行していく日々を送っていました。

 

 

 

ところがその折も折、かねてオランダに発注していた軍艦・開陽丸が日本へ回航されてきました(3月26日)。オランダ側としては当然、自国が操艦指導や海軍教育を担うものと考えていました。

 

5月には、幕府はオランダからも海軍伝習のための教師を雇うことにしました。

 

 

 

【 パークスの介入と方針転換 】

 

勝はオランダ総領事ポルスブルックと粘り強く交渉を重ね、士官らの雇用条件などを詰め、話をまとめ上げます(5月7日)

開陽丸の残金の支払いの件もまとまり、引き渡しの日程は同月20日に決定しました。

 

 

 

ところがその直前(5月19日)、トラブルが発生します――イギリス公使パークスが激怒し、江戸の幕府幹部にオランダ士官の雇用への異議を唱えたのです。

 

 

二日後、老中井上正直(河内守)、老中格(海軍総裁)稲葉正巳らに対し、

「海軍伝習はイギリスが担う約束になっている。そのため本国から教師も向かっている。それなのに、これは一体どういうことか」、と強硬に主張し、撤回を迫りました。

 

 

(駐日英国公使 ハリーパークス)

 

 

さらに「大坂にては懇々と御頼みありし、御当地(江戸)にて此の如きは、我が解せざる所なり」と、幕府側の対応を厳しく非難します。

 

 

 

 

【 揺れる幕閣と勝の意見書 】

 

パークスの剣幕に狼狽した幕閣は、オランダ士官の雇い入れを断る方針を決定し、その交渉を勝に命じました。

 

この時、将軍徳川慶喜は大坂におり、江戸の幕府幹部との意思疎通は十分ではありませんでした。

 

 

ですが勝にとっては、迷惑この上ない指示でした。

 

この決定について、勝の日記には「種々評議あり」と記されており、幕府内でも異論があったことがうかがえます。

 

 

勝は意見書を提出します。

 

「万国の交際は、ただ信義あるのみ」――国際関係の基本は信頼にあるとし、イギリスの力を背景に押し切ろうとするパークスに反発しました。

 

また、これに屈した幕府幹部の姿勢を非難し、約束を軽々しく翻すことへの失望を表明します。

 

 

さらに、オランダとの関係は「ほとんど三百年、更に他国の比にあらず」とし、小国ゆえに軽視する空気を厳しく批判しました。

かつて幕府海軍はオランダから多くを学んできました。その恩義ある国に対してこんな仕打ちをするのか――勝には、そうした思いがあったはずです。

 

 

 

 

【 オランダへの謝意と交渉の矢面 】

 

そして勝は、今回の件を謝罪し、開陽丸の竣工や留学生受け入れへの謝意を伝えるため、自らをオランダに派遣するよう具申しました。

この提案は認められ、稲葉海軍総裁からの御沙汰があったと日記に記されています。

 

5月20日、勝は金川(神奈川)で開陽丸の引き渡し式を終えると、すぐにポルスブルックのもとへ向かいました。約束を反故にする交渉が容易でないことは明らかでした。

 

案の定、ポルスブルックは激しく憤ります。

 

同月28日、勝に対し

「江戸の幕府幹部は事を断ずるに足らず。直ちに上坂し、大君に述べる」。つまり慶喜に直談判する、とまで言い放ちました。怒りは収まる気配がありません。

 

 

 

 

【 火消し役としての真価 】

 

勝はその激しい言葉を受け止めながら、感情に流されることなく、誠意を尽くして説明を重ねるしかありませんでした。

 

 

6月半ば、ようやく変化が訪れます。

11日、勝がポルスブルックを訪ね、雇い入れ中止の再申し入れをしたところ、「大いに都合よく、大抵落着」となり、問題は解決に至りました。最終的にはオランダ側が譲歩する形で収束したのです。

 

翌日、勝は稲葉総裁に「顛末を言上」しています。

こうしてオランダ派遣の話は立ち消えになったものの、意見書に込められた勝の外交観は単なる利害を超えたものでした。

 

 

しかしこの一件は、勝の胸に割り切れぬ思いを残します。

力を背景に押し通すイギリス、約束を軽んじる幕閣――そこには「力関係で物事が決まる」という現実がありました。

 

 

同時に勝は、別の現実も見ていました。

組織とは、上の判断のしわ寄せが現場に降りてくるものだということです。

 

この頃の勝は、海軍力の強化を図る実務を担う一方で、各国との摩擦を収める「火消し役」に追われていました。

 

 

-・-・-・-・-・-・-・-

 

 

「火消し役」として見事にしてのけた仕事の中で、次のエピソードは勝の面目躍如たる事例を代表する一つです。

 

 

10月、灯台見分のため英米仏の提督が共同で幕府軍艦 富士山丸で実地検分を行うことになりました。

その際の幕府側の応対に不手際があったとして、パークスから勝に呼び出しがありました。

 

 

勝は一計を案じ、乗船する彼らのための艦内の部屋割りや食事の手配を整え、独自の判断で事態を鎮静化させます。形式にとらわれず、相手の顔を立てながら実を取る――その柔軟さが、新たなトラブルを防いだのです。

 

やがてパークスは、問題が起きるたびに勝を頼るようになっていきました。

 

 

この頃の勝の仕事は、海軍づくりだけではありませんでした。

 

各国との間に生じる摩擦やクレームへの対応――いわば「火消し役」として奔走する日々。上の判断の尻ぬぐいを現場が担う構図は、今の時代にも通じるものがあります。

 

しかも、こうした仕事をやり遂げても、その労苦を誰からも評価されることはほとんどありません。理不尽で、割に合わない。徒労に終わることもある。

 

それでも勝は、感情を抑え、事態を収めることに全力を尽くしていました。それを担う者がいなければ組織は崩れてしまうことを知り抜いていたからです。

 

 

 

 

【 積み重ねが生んだ「次の一手」 】

 

こうした経験の積み重ねの中で、勝は各国公使、とりわけパークスと何度も顔を合わせ、交渉を重ねていきました。感情に流されず、相手の立場を理解し、落としどころを探る。

 

 

そこには単なる外交上のやり取りを超えた、「相手を知る時間」があったはずです。

強圧的で手強い相手――しかし、その人物の思考や行動原理を肌で理解していく過程でもありました。

 

この蓄積が、後に大きな意味を持つことになります。

 

 

江戸開城をめぐる西郷隆盛との談判において、勝はパークスの影響力を巧みに利用し、官軍側に圧力をかけさせることで交渉を有利に進めていきました。

 

 

 

理不尽な命令に振り回され、誰からも感謝されない仕事に疲弊しながらも、勝は交渉の場に立ち続けました。その一つひとつが、やがて江戸を戦火から救う力へと変わっていくのです。

 

 

 

少し長くなりましたが、何とか今回のテーマを語りつくすことができました。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

読者の皆さんからの「いいね!」はとても嬉しいです。

また「読んで感じたこと」や「印象に残ったところ」があれば一言でも教えてください。これからも書き進めていく上で、励みとパワーになります。どうぞよろしくお願いします。

 

 

 

 

【参考文献】

 ・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

 ・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

 ・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「勝海舟全集1 幕末日記(『解難録』) 講談社

 ・「勝海舟全集18 海舟日記Ⅰ」 勁草書房 

 写真・画像:「パークス」ウィキペディアより