こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯を手がかりに他人に流されずに生きるヒントを探し続けている、

歴史大好き社労士でシニア未来サポーターの山路 貞善です。

 

桜の開花宣言が、あちこちで聞かれるようになりました。

皆さんお住まいの地域では、いかがでしょうか。この土日は好天に恵まれ、絶好のお花見ができそうです。では早速、前回の続きから始めましょ。

 

 

 

【 軍艦奉行としての仕事に明け暮れる日々 】

 

江戸に戻った勝は、辞表を提出したもののお許しがでなかったため、今も軍艦奉行の職にありました。この時期、幕府内で軍艦奉行であったのは、勝一人です。

 

これまで政治の世界に身を置くことが多かった勝でしたが、この時期は軍艦奉行という実務家としての仕事に専念していました。

軍艦奉行の職務といえば、事務から船の引き取り、海軍伝習に至るまで交渉事を含み、対象となる分野は広範囲に及びます。勝は、一人でこうした業務を粛々とこなす毎日を送っていたのです。

 

 

明けて慶応3年(1867年)月5日、勝は幕府から海軍伝習掛を命じられます。

 

 

【 慶応期の軍制改革と総裁制の導入 】

 

 

この頃、幕府は軍事力を充実させるために陸海軍の組織改革に力を注いでいました。

第二次長州征伐の敗北という苦い経験を通して、諸藩の協力など得ずとも、幕府単独で長州や反幕諸藩を叩きつぶせるだけの実力を備えることを目指していたのです。

 

軍制改正の成果は、すでに長州との戦闘において現れていました。読者の皆さんの多くは、幕長戦争で旧式の武器しか持たない幕府方が、西洋式の軍備や銃器を備えた長州勢に一方的に押しまくられたというイメージをお持ちではないかと思います。

 

ですが、現実は少し違っていました。確かに先鋒を務める井伊などは長州兵との戦闘において破られることはありましたが、幕府の新陸軍は長州勢にとっても手強い存在で、一進一退の攻防が繰り返されました。戦ったのは、フランスの指導と援助の下に新たに創出された戦闘力を備えた陸軍でした。

 

 

新たな武器を装備することは戦闘能力を高めることになりますが、それだけでは十分ではありません。そこで幕府は、旧軍制を改め、陸軍組織そのものの改変を進め、新陸軍づくりのための組織変革を実施してきました。こうした改革が実を結び、陸軍については組織として確立し始めていました。

 

 

一方の海軍は、安政期にオランダ海軍に長崎で海軍伝習を受けるところからスタートしたばかりで、急造の組織としての感が強く、伝統と呼ぶべきものがありません。

しかも勝がかつて提言した海軍建設構想は、幕府のための海軍ではなく、「一大共有之海局」という日本国の海軍の建設を目指すものでした。

 

徳川を中心とする海軍建設にこだわる幕府は、国内の反対勢力を一掃するための海軍力を持つことにしか関心がありません。勝と全く異なる海軍構想であったのです。

 

こうした思想しか持たぬ組織において、勝のような考えを持つ者が異端児扱いされるのは当然のことでした。

かつて勝が理想を掲げ、実現させた神戸海軍操練所は、幕府から嫌疑の目で見られ、開設からわずか1年ほどで閉鎖に追い込まれました。

 

草創期の海軍建設は、操艦や航行に必要となる天文学、測量術の知識や技術の習得が先んじて必要であったため、組織づくりまで手が回らず、陸軍ほどのまとまりを持つ状況にはなかったのです。

 

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幕府は軍制改正の一環として、慶応2年(1866年)8月に海軍奉行並を新設します(前年7月、海軍奉行には大関肥後守増裕(ますひろ)が就任)。ちなみに海軍奉行(大名)と海軍奉行並(旗本)は、軍艦奉行の上位のポストに当たります。

 

さらに同年12月には、陸軍総裁、海軍総裁という職位が生まれ、初代の総裁として、陸軍 松平乗謨(まつだいら のりかた)、また海軍 稲葉兵部大輔正巳(いなばひょうぶたいふまさみ)がそれぞれ就任します。陸海軍の軍事力の充実を図るためでした。

 

 

半年後の慶応3年5月、従来の老中、若年寄は廃止され、幕府の政治組織は五総裁体制に改められます。先の陸軍総裁、海軍総裁に加えて、国内事務総裁、外国事務総裁、会計総裁の5人による体制が出現し、以後、明治維新までこの体制が続くことになります。

 

 

 

【 英国海軍伝習の交渉と開陽丸の到着 】

 

 

慶応期の軍制改革では、幕府は当初陸海軍ともフランスに指導を仰ぐことで進めようとしていました。ところが、海軍伝習については、仏の公使 ロッシュの提案でイギリスに依頼することになりました。対日政策上、イギリスとのバランスを配慮したものと言われています。これにより、フランスは陸軍、イギリスは海軍。双方が伝習を受け持つという役割分担ができたわけです。

 

 

海軍伝習掛を命ぜられた二日後の3月7日、勝は英公使パークスと会い、伝習の交渉を初めて行っています。この伝習に関する建言を勝は意見書にまとめ提出しています。

 

一部をご紹介すると、

 ・乗組伝習生は、新たな者を募っても軍艦を操艦できないので従来の士官から人選する。

 ・英国人教師には、「才幹周密、大小之道理に明らかに、且つは当時之大勢を明察いたし候程之者を人選」(有能で広い視野を持ち、道理を弁える者を抜擢)する。

 

勝が、伝習を円滑に進め、限られた期間を効果的なものにするために軍艦奉行としての務めをしっかりと果たそうとしていたことがうかがえます。

 

 

そんな最中、面倒なことが起きます。

 

3月26日、幕府がオランダに発注(文久2年、1862年)していた開陽丸が横浜に入港しました。開陽丸は、これからの幕府海軍の主力艦としての期待を担った艦でした。

 

この艦には、発注時に派遣された留学生が乗艦しており、艦の引き渡しと共に帰国の途につきました。

帰国した留学生の中の一人に、幕臣 榎本釜次郎(後の武揚)がいました。

 

 

 (開陽丸)

 

 

横浜港に到着するのに操艦していたのは、留学生たちではなく、オランダの士官と水兵たちでした。幕府は、回航した彼らを教師として雇い入れることにしました。

 

これを受けて勝はオランダ教師たちの賃金を巡る交渉をすることになりますが、交渉相手となるのは旧知のオランダ総領事ポルスブルックでした。

ですが、彼は慶喜に会うための大阪へ行っていたなどの理由でなかなか会うことができず、交渉は一向に進みません。ようやく直接会って交渉が始まったのは、4月18日でした。

 

その後、何度も面談したり、やり取りを重ねた結果、5月7日、ようやく雇用の条件、取り決めの話がまとまりました。勝は一仕事を終え、やっと一息つける心地であったことでしょう。

 

 

 

トラブルが起きたのは、5月19日です。

この日、英公使パークスが老中 井上正直を訪ね、オランダ士官たちを雇うことに怒りを表明しました。返答に窮した井上は、オランダ士官の雇用を断ると返答し、その交渉を勝に命じました。

 

二日後の21日にも、パークスは井上、稲葉兵部(老中格)、木村喜毅(軍艦奉行並)の三人と会談しています。

 

パークスは海軍伝習については先に英国に託すことになっており、本国から教師を呼び寄せているのに、当方に何も知らせずにオランダの海軍士官を雇い入れるとは何事かと激しく抗議したのです。

 

 

 

前日20日は、開陽丸引き取り儀式がある日でした。

勝は横浜に出張し、このセレモニーを無事に終了させ、引き取りを見届けました。

 

前日夜に何ともやっかいな命令を受けた勝でしたが、こうなればポルスブルックとの交渉に臨む他ありません。一度まとまった話をひっくり返す、実に氣の重い仕事に勝は向かうことになったのです。

 

 

少し長くなりましたので、今回はここまでとし、この続きは次回にお話ししましょう。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

 

【参考文献】

 ・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

 ・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

 ・「徳川慶喜」 松浦 玲 中公新書

 ・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

 ・「勝海舟全集10 海軍歴史Ⅲ」 講談社

 ・「勝海舟全集18 海舟日記Ⅰ」 勁草書房 

  写真・画像:「開陽丸」ウィキペディアより