こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。

いつもお読みいただきありがとうございます。

 

 

【 命を狙われる勝 】

 

前回の続きです。

慶応二年(1866年)8月20日、勝は長州との交渉に臨むため兵庫を出航しました。翌21日、広島着。勝がこのとき乗船したのは、幕府軍艦ではなくダンバートン号という船です。軍艦奉行職にあり、状況次第では戦闘も辞さない覚悟を固めて敵地に赴く勝としては幕府軍艦で乗り込むべきところ。ですが勝を現地に送り届けた船はすぐに大坂に取って返しました。大阪城で亡くなった将軍家茂の遺骸を江戸に運ばねばならない大きな任務があったからです。

 

広島にやって来た勝のために長州との窓口となる周旋役を引き受けてくれたのは芸州藩家老の辻 将曹という人です。

勝は辻の助力で、同月25日には広島から宮島に渡っています。

そこでは長州兵の他に間者や刺客と思われる連中が出没しており、勝が宿泊する旅館の周囲は不穏な空気に包まれていました。

 

「傑然たる殺気あり。我を見れば、銃を手にし、頗る我が挙動を伺ふ。我、平心を以て敢て拒まず、…(中略)…。彼もまたあへてみだりに手をくださず」(海舟日記)。

この時の物騒な様子は「氷川清話」でも触れています。勝は旅館で世話をしてくれる老婆に着替え用の襦袢をたくさんつくらせ、毎日髪を結いなおさせていました。いつ首が斬られるかわからないから死に恥をかかないためだと説明するとその老婆は震え上がってしまった、とあります。

 

 

勝が広島に着いた8月21日、京都では将軍死去を理由に「暫く兵事を見合」わすべし旨の休戦の勅命が発せられています。この勅命が幕府軍の先鋒総督らが布陣する広島に届いたのは5日後の26日。勝は前日に宮島に渡っており、この事実を知りません。

一橋慶喜が京で勝に停戦交渉を命じたのは10日前のこと。この時点で慶喜はすでに休戦の勅命をもらうための朝廷への工作を始めていましたが、勝には何も伝えていません。

 

一方、幕府の使者を迎える長州側と勝との間で交渉の日時と場所を巡ってやり取りが続いていました。勝は足止めを食らいましたが、8月晦日(みそか)または9月1日のいずれかの日に宮島で談判が行われることが決定しました(実際に行われた9月2日)

 

 

【 問題となった勅命の字句 】

 

会見が行われる前の8月晦日、厳しい表情を浮かべた辻将曹がひそかに勝を訪ねて来ました。届いた勅命の内容を知らせに来たのです。

勅命には、将軍が亡くなったので「暫く休兵、侵掠(しんりゃく)の地」を引き払うようにと書かれています。幕長の間に立つ芸州藩は長州に勅命を伝達する役割を果たさねばなりません。ところがその文言には「侵掠」の文字がありました。これでは他領を侵していない長州側が承知するわけはなく、激しく反発することは火を見るよりも明らかです。

辻は広島の総督府で「侵掠」の二文字を改めるよう求めました。辻の申し出を受け、先鋒総督と副総督を務める老中らが協議を重ねましたが、彼らとて勅命を書き改める権限を持ちあわせていません。辻は肩を落として引き上げるしかありませんでした。

このことを一刻も早く勝に伝えねばならないと考え、辻は訪ねてきたのでした。無論、知らされた勝にもどうにもできない問題です。

 

芸州藩の立場からすれば長州の怒りを買うのは必定とわかっている勅命を伝えることを何としても避けたいところです。勝としてもこの勅命が長州の手に渡るまでに談判を成立させておきたいと考えていたでしょう。伝わってからでは勝がいくら言葉を尽くして説得しても長州人たちの理解を得ることはます不可能だからです。

勝は会談前の日記に、「御改めの事、六つ敷(むつかしく)、然る時は長人の尤も承伏(しょうふく)すべからざる儀なり」と書いています。慶喜が背後から放った高飛車の矢は、勝を後押しするどころか交渉の前途を危うくさせ、交渉の行く手を一層難しいものにしました。早急に談判を進めたい勝は督促を試みますが、交渉相手はなかなか姿を現しません。じりじりしながら待つしかない勝でした。

 

 

【 大願寺での談判 】

 

長州側との談判が宮島にある大願寺で行われたのは、予定より一日遅い9月2日のことです。ようやくやって来た長州側使節の面々はといえば、広沢兵助(後の真臣井上聞多(後の外相 井上馨、太田市之進らです。

広沢とは長崎海軍伝習所時代に勝はともにオランダ海軍を学んだことがあり、面識がありました。また井上は少し前に藩内の刺客に襲撃された傷が残ったままでしたが、使節の一人として談判の席に加わっていました。この時、勝は勅命の件は知らぬ体で談判に臨んでいました。

 

 

(大願寺)

 

 

勝は後年、このときの談判の様子を「氷川清話」の中でこう語っています。先に寺に到着した勝が一室の座敷で端座して待っているとやがて広沢らの長州人がやって来ました。幕府重臣の勝 安房守に会見することへの配慮から長州人たちが勝に対し一同縁側に座って恭(うやうや)しく一礼します。

 

 そこでおれは、「いやそこではお話ができませんから、どうぞこちらにお通りなさい」と挨拶すると、広沢が頭を擡 (もた)げて、「御同席はいかにも恐れ入る」と辞退するので、おれは全体剽軽者(ひょうきんもの)だから、「かように隔たって居てはお話が出来ぬ。貴下がおいやとあれば拙者がそこに参りましょう」といって、いきなり向こうが座っている間へ割り込んでいったところが、一同大笑いとなって、「それでは御免蒙ります」ということで、一同広間に入って、いよいよ談判を始めることになった。談判といっても訳はなくとっさの間に済んだのだ。」

 

 

この話は、勝が76歳(明治31年)のとき語ったものです。長州との談判が行われた慶応二年当時、勝は44歳ですから32年もの歳月が流れています。「氷川清話」は、長い年月を経て勝自身の記憶があいまいになっていたり、歴史上の様々なエピソードを面白おかしく伝えようとする勝の意図が働いたりするため、そのまま鵜呑みにすることはできません。

その場の雰囲気、様子について何か手掛かりを知るとしたら、やはり勝の日記の方が良いかもしれません。日記の記述に目を向けてみましょう。

 

「大願寺の書院にて、長藩に会す。一新の御趣旨、演達。皆、承伏」とあります。さて「一新」とは何を指し、同席した者は何を「承伏」したのでしょうか。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     

前回のブログで勝が覚書を提出し、慶喜から「見込みの趣、尤(もっと)も」の言葉を取り付けたことはご紹介しました。ですから「一新」とは、これまでの幕府のやり方を本気で改める、すなわち『大政奉還』を指すことは疑いのないところです。勝は、今後の事は「天下の公論」で決していく。つまり有力諸侯が参加する体制で政治を進めていくことを慶喜が約束したと説明し、皆が承伏の意思を表明したということになります。

 

 

【 長州に押し切られる勝 】

 

勝は長州入りする前に慶喜から今後の方針として「天下の公論御採用」するとの約束を取り付けています。そのため今後は何事も「天下の公論」で決する方針が確定したと説けば、長州側も理解ある態度を示して矛を収めてくれるだろうと勝は見ていました。ですが勝の考えは少し甘過ぎたようです。今後幕府が実行していくことを訴えても長州側は勝の言葉を容易に信じようとはしません。

慶喜公が急に方針を改めると宣言したとしても口先だけかもしれず、それを額面通り受け取るわけにはいかないと疑いを口にしました。広沢らから幕府が本気でこれまでのやり方を改めるなら衆議を待たずとも自ら実行すれば良いだけではないかと言われてしまえば勝としては返す言葉もありません。

 

 

(勝と長州側との会談が行われた部屋)

 

 

長州側について勝は、「彼が輩、知覚大いに勝れ、殆ど事議を解するに、破竹の勢いなり」と記しています。弁舌に長ける勝もこの時ばかりは幕府側の事情と見通しについて苦し紛れの弁解に終始するしかなく精彩を欠いた返答しかできなかった様子がうかがわれます。

 

出張前は当方の主張を認めなければ「曲直を以て御打ち入り」とまで意気込んでいた勝でしたが、談判の場では長州側の論理に押されてしまう場面が度々あったに違いありません。

守勢に立たされた勝が今回の交渉で唯一勝ち取ったのは、幕府軍が撤退するに当たり「長州側が後追いしない」という約束を取り付けたことだけでした。他の事については今後幕府自ら変わるという言葉が信じるに値するかどうか確かめた上で改めて協議したいとの申し出が長州側からありました。

勝が語るような「訳はなくとっさの間に済んだ」会談ではなかったことは、こうしたことからもおわかりいただけると思います。

 

 

さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

・「徳川慶喜公伝3」 渋沢栄一 東洋文庫 平凡社

・「氷川清話」 勝海舟 江藤淳・松浦玲編 講談社学術文庫

・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

・「勝海舟全集18 海舟日記Ⅰ」 勁草書房 電子書籍

 写真・画像:「宮島観光でおすすめのモデルコースをご紹介」の「大願寺」より

 ※ 会談部屋の木札には木戸孝允の名がありますが、この会談に木戸は同席していません。