こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。

いつもお読みいただきありがとうございます。

 

 

【 龍馬を待ち受ける幕府の探索方 】

 

前回の続きです。

坂本龍馬とその一行(三吉慎蔵、池内蔵太、新宮馬之助)が下関を発ち、大坂に着いたのは慶応二年(1866年)1月18日のことでした。

 

龍馬はこの日の夜、三吉慎蔵を連れて幕府の大久保一翁の宿所を訪ねています。

一翁はすでに隠居した身でありながら、大坂への召出しの命により前年12月から大坂に滞在していました。複雑な政局が続き、凡庸な老中たちは長州問題を幕府の権威をいかにしたら傷つけずに処置できるかということしか頭になく、幕府としての方針を決められずにいました。

 

困り果てた老中らは、豊かな政治経験を持ち、ひとかどの見識を備えた一翁であれば何か良い知恵を授けてくれるのではないかと期待し大坂へ召出したのです(この間の経緯は、第155話から第157話でお伝えしています)

勝海舟の弟子となっていた龍馬にとって一翁(隠居前は大久保忠寛と称していた)は師の盟友であり、三年前の初対面以来、大いに薫陶を受けた恩人でした。ちなみに幕府内で最初に大政奉還を持ち出したのは一翁で、龍馬にも英国の議会政治制度についても語り伝えたと言われています。

 

 

龍馬は一翁が大坂滞在中と知り、訪ねることにしました。今の幕府の動きを知るには打ってつけの人物には違いありません。ですがこの時期、龍馬が幕府の関係者に近づくことはあまりに危険な行為でした。すでに龍馬が長州人と共に京・大坂に潜入することは幕府の探索方に知られており、厳重な手配りが行われていたからです。

 

宿所を訪ねてきた龍馬の顔を見て驚いたのは一翁の方です。危険を顧みないあまりの大胆さにあきれたのです。身を案じた一翁は、速やかに京・大坂の地から立ち去るよう警告しました。そのため大久保一翁は、薩長の考えと動きを最もよく知る人物を目の前にしながら両藩の和解に関する情報をついに得ることができませんでした。

切迫した状況にあることを知った龍馬たちは一翁の宿所を速やかに後にし、龍馬は短銃を準備し、三吉は手槍を求めています。

 

同月19日、龍馬は薩摩の船印を立てた川船で伏見に向かい、寺田屋に入りました。翌20日、三吉だけを寺田屋に残し、池・新宮と共に京都市内(上京区)にある小松帯刀の屋敷に向かいます。そこで「半日でも早く」と上京を催促した木戸孝允(桂小五郎)とようやく再会を果たしました。ところが木戸は浮かぬ顔をしていました。龍馬の到着が遅れたため木戸が入京してからすでに10日余り経過していました。龍馬は両藩の間ですっかり話がまとまっているものと信じてやって来たのですが、薩長提携の話は進展していませんでした。

 

木戸から提携話の進捗状況を聞き出した龍馬は、二本松にある薩摩屋敷に向かいました。西郷に会うためです。

 

 

( 薩摩藩邸二本松屋敷跡 )

 

 

(この薩摩藩邸は、京都御所の北側にあり、現在の同志社大学今出川キャンパスの入り口付近に藩邸跡の碑があります。余談ですが、同大は私の母校です。学生時代すでに幕末史に関心があった私はこの碑をしばし眺めてはよく往事に思いを馳せていました。私にとって思い出の地です写真は現在の同大敷地内にある碑ですが、私の学生時代にあった碑の環境とは異なっており、時の流れを感じます)

 

 

【 薩長同盟に関する通説 】

 

さて日本史あまりご存知でない方であっても薩長同盟を知らない方はまずいらっしゃらないのではないでしょうか。それほど歴史上有名な出来事と言えます。ではここでこの同盟に関してこれまで語られてきたことを一度整理しておきましょう。

 

 

 ・徳川幕府を倒すためには薩長両藩が手を結ぶことが一番だと考えた土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎が双方の指導者に話を持ち掛けた。

 

 ・龍馬の呼びかけに応じた木戸孝允が藩命により長州から京に向かい、薩摩藩邸に到着。

 

 ・遅れてやって来た龍馬が提携話の行方を尋ねたところ木戸から「貴君の尽力には感謝するが、これより帰国する決心」と意外な返答があり、面食らう龍馬。

 

 ・いぶかる龍馬がこの10日間、何をしていたのかと問うと薩摩から連日手厚いもてなしを受けていたものの今に至るまで西郷から提携の話は一切ないと返答する木戸。

 

 ・ならば長州から切り出せばいいではないかと主張する龍馬に木戸は、「長州から話を持ち出せば憐みを乞うも同然となってしまう。たとえ防長二州が焦土となってもそれだけは断じてできぬ」と強く反論。

 

 

この頃の長州藩は先の禁門の変で朝敵の汚名蒙り、天下を敵に回し孤立した存在。今また幕府から討伐の軍勢を藩領に差し向けられようとしていました。一方の薩摩藩は朝廷にも幕府にも公然と意見を物申すことができ、諸藩とも堂々とつきあうことができる藩。両藩の立場の違いは歴然としていました。

そんな状況下で自ら提携を持ち出せば対等にはほど遠い盟約となってしまいかねず、自ら口火が切れない長州。一方、談笑には応じても提携話になると急に口が重くなる薩摩。互いが相手から申し入れがあるのを待つことに終始し、双方が面子に拘ったため話が一向に進展しないまま空しく日が過ぎていくばかり。

 

そこに颯爽と登場したのが千両役者の坂本龍馬。木戸の言い分を聞いた龍馬は憤然として西郷のいる二本松の藩邸に向かいます。対面した龍馬は西郷を一喝し説得に当たり、薩摩藩から話を切り出すことに成功。ここにようやく薩長による軍事同盟が成立し、武力倒幕への道が切り開かれることとなった。

とまあ、このような解釈がこれまで語られてきました。

 

 

【 薩長同盟は軍事同盟ではなかった? 】

 

薩長同盟の成立が幕末史において極めて大きな歴史的な意義を持つことは異論のないところです。

ですが最近の歴史研究が明らかにするところでは、そもそもこの盟約は武力倒幕を目指す軍事同盟ではなかったという説が有力になりつつあります。そのため最近では歴史用語としての薩長同盟という言葉があまり使われなくなってきています。代わりに薩長盟約 と呼ばれることが多くなりました。では何がどう違うのか。その点をこれから見ていきましょう。

 

 

この頃、京の薩摩藩邸には薩摩藩家老 桂久武が滞在していました。久武は島津久光の命により国許から京に出てきた家老です。

 

前年12月に宇和島藩の伊達宗城(だて むねなり)から久光宛に書状が届きました。宗城は在京の西郷らには幕府の長州再征の流れを阻止するのに兵力を用いようとする考えがあるようだと知らせてきました。過激な行動に走られては困る久光は西郷の行動に目を光らせ、先走った行動を防ぐため直ちに家老の桂久武を京に派遣しました。

つまり西郷ら在京の薩藩幹部は国許の久光の意向に従わねばならない立場に置かれており、藩の立場を不利にしかねない意思決定を行うことは許されなかったのです。

かつて西郷は久光の指示を守らず、自身の判断で行動したことで久光の逆鱗に触れたことがあります。こうした過去の出来事から西郷は何をしでかすかわからない危険な人物という印象が久光の頭に強く刻み付けられていたのでしょう。

 

 

さて薩長の間で提携に関する本格的な会合が持たれたのは1月18日です。

桂久武の日記によると同日の夕刻から深夜にかけて木戸と薩藩幹部との間で国事に関する議論が交わされたとあります。出席したのは、長州側からは木戸一人、薩摩側の主な顔ぶれは小松帯刀、島津伊勢、桂久武の三家老の他に西郷、大久保一蔵、吉井幸輔です。残念ながらこの日記には議論された内容が記されていません。

 

その二日後の20日には大久保の帰国が決定し、翌21日出発を命じられています。18日の会合内容を国許に報告するためです。

ということは18日の会合で両藩幹部たちにより議論が行われた結果、双方の間で事実上、何らかの合意が成立していたことになります。少なくとも薩摩藩幹部にはそうした認識があったはずです。坂本龍馬がやって来るのは20日、この会合があった二日後のことです。

 

 

さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

【参考文献】

 ・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「坂本龍馬」 池田 敬正 中公新書  

 ・「坂本龍馬」 松浦 玲 岩波新書

 ・「西郷隆盛」 家近良樹 ミネルヴァ書房

 ・「大政事家 大久保利通」 勝田 政治 角川文庫

 ・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「江戸幕府崩壊」 家近良樹 講談社学術文庫

 ・「坂本龍馬からの手紙」 宮川禎一 教育評論社

 ・「坂本龍馬関係文書 第1,2」国立国会図書館デジタルコレクション

  写真・画像:ガイドブックに載らない京都 「薩摩藩邸跡 その2 二本松屋敷」より