こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。

いつもお読みいただきありがとうございます。

 

 

【 江戸で閑居中の勝 】

 

前回まで慶応元年秋における京・大坂での動きを中心にお話しました。今回は勝がいる江戸に目を向けることにしましょう。

 

勝は前年(元治元年)秋に軍艦奉行の職を解かれ、自邸を構える江戸の赤坂氷川で困窮と閑居の日々を過ごしていました。勝邸を訪ねた越前福井藩士からの報告により勝の苦境を知った松平春嶽は、勝にカネを送るなどの経済的支援を行っています。

勝は、慶応元年(1865年)10月5日付けの春嶽宛の手紙の中で支援に対する感謝を伝えると共に自分の身辺に関しても書いています。

罷免後、幕府の役人が勝の身辺に目を光らせており、厳しい監視下に置かれていたようです。そのため自らの言動について細心の注意を払わねばならない身の上にあると語っています。これまで幕府に多くの建言を行ってきた勝が、今や自由に自分の意見や考えを表明できない境遇に置かれていました。勝は経済面だけでなくメンタル面でも窮屈な日々を過ごしていたことになります。

 

とはいえ薩摩や諸藩の藩士らが頻繁に勝邸を訪れており、また春嶽や薩の小松帯刀、吉井幸輔らとの書簡のやり取りを行うことで、政局と長州問題に関する情報入手に事欠くことはありませんでした

 

 

また四カ国艦隊の風聞を耳にした勝は、同じ手紙の中で自分の見解を伝えています。四カ国を相手に何度も交渉を重ねた経験があるだけに勝としては今回の交渉の行方が気になるところがあったのでしょう。

これまでの経緯から四カ国側の対応について「幕吏の命のみにては承伏仕るまじく」と厳しい見方をしながらも、一方では希望的な見方もしています。従来の処置を改め、朝廷が考えを一新し条約を認め、開港の方針に転換したことを示すには絶好の機会、10日もあれば万事、片がつくかもしれないと期待も寄せています。

また長州の処置に関して前年、長州征伐に反対を唱えたため「叛逆者同様」の扱いを受けたことを思い出し、意見具申をしたくてもできない今の立場のもどかしさを春嶽に訴えるしかありませんでした。

 

国の将来を想い、自らの信念に基づいて行動したものの周囲の理解と支持を得られず、ついに幕府から睨まれる立場にとなったことは幕臣として不運としかいいようがありません。この先、勝に復帰の機会が訪れるのか、それともこのまま埋もれてしまうのか、全く先の見えない日々を勝は過ごしていました。

 

 

【 大久保一翁の召出し 】

 

同年9月29日(小の月でこの日が晦日すなわち月末)、この年2月に隠居したばかりの大久保一翁に出仕命令が来ました。翌10月1日には、在阪老中から急ぎ大坂に出仕せよとの指示が届きます。

一翁は、これまで幕府に対し何度も自身の考えを述べ、時には厳しい意見をあえて主張したこともありました。そのため老中たちから煙たがられ疎まれるだけでなく、事あるごとに斥けられてきました。

おかげで隠居の身となった自分に今さら何の用向きかと思ったに違いありません。ですが急な呼び出しがあった以上、無下に断るわけにもいかず上方への出立準備を始めました。

 

 

(大河ドラマ「勝海舟」で大久保一翁を演じた小林桂樹さん)

 

 

この頃、江戸にいた勝や一翁には、前回まで(第150話から第154話)にお話した京・大坂での騒ぎについての情報がまだ届いていません。

上方での騒ぎのことを簡単にまとめるとこうなります。

英仏蘭米の四カ国艦隊が兵庫沖に現れ、条約勅許の取得と兵庫開港の要求を幕府に突き付けました。朝廷への対応を巡り在阪老中と一会桑(とりわけ一橋慶喜)との間で意見が対立し、家茂が将軍職辞任を表明する事態に至ります。

一方、幕府が独断で兵庫開港を進めようとしたことに朝廷は激怒し、二老中の罷免を命じました。これが伝わると今度は幕臣らが激しく朝廷に反発。大坂城内は混乱に陥ります。その後、慶喜の奮戦により天皇の許可が下り、懸案の条約勅許問題が解決したため四カ国艦隊が兵庫沖から去り、戦争の危機はひとまず回避されました。慶応元年9月下旬から10月初旬にかけてのことです。

 

 

さて一翁は大坂行きを勝に手紙で知らせ、留守の事を頼み準備を始めます。知らせを聞いた勝は一翁の大坂行きに反対します。

薩摩との交流があり、情報通の勝にすれば一翁が今大坂に行ったところで役に立てることがないと知っていたからです。

 

 

【 幕府との対決姿勢に転じた薩摩 】

 

四カ国艦隊の兵庫沖出現という外圧を利用して薩摩は外交権を幕府から取り上げ、条約勅許問題を決する場を諸侯会議に移そうと試みました。前年秋、勝・西郷会談の中で語られた雄藩連合政権を実現するためです。ですが、慶喜が御前会議で薩摩の介入を阻止し、孝明天皇から勅許を獲得したため、薩摩の方策はうまく運びませんでした(第153話)

前年、薩摩藩主導の下、発足した参与会議は慶喜によって解体され、今また慶喜が勅許を獲得したため開港問題の主導権を幕府に握られてしまいました。薩摩は慶喜一人に二度も苦杯をなめさせられたことになります。そのため慶喜への警戒感を深める一方、幕府への反発心は一層強くなりました。

 

開国を望んでも幕府がこのまま貿易独占を続ける限り、薩摩藩が諸外国と自由な取引ができる日が訪れることはありません。となれば薩摩は独自の道を歩む以外にない。朝廷を利用して幕府を苦しめ、同じ考えを持つ諸藩と連携して幕府と対決することを覚悟しなくてはならない。

小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵らの在京の薩藩首脳は、このように考えるに至り、これまで敵視してきた長州藩と提携する道を模索するようになります。幕府はもはや薩摩の敵でしかなかったのです

 

 

【 期待外れに終わった一翁の読み 】

 

この辺りの事情や背景が薩摩との関係が深い勝にはよくわかっています。ですが薩摩と交流のない大久保一翁は薩摩とその周辺の事情に暗かったため、薩摩の動きが政局を左右することへの認識が不十分とならざるを得ません。

一翁は勝のアドバイスに感謝しつつもそのまま準備を進めました。ところがすっかり出立の手配りを終えた10月8日、今度は上坂するのを見合わせるようにとの知らせが入りました。将軍辞任の報が届いたためです。

報を受け取った一翁は期待を膨らませて勝宛に手紙(10月15日付け)を送ります。手紙には「御英断と存じ奉り候。…仰せの如く最好機会に存じ奉り候」という文言があります。

 

「最好機会」とは何を指しているのでしょうか。

 

一翁はどうやら家茂の辞表提出により徳川が一大名として諸侯会議に参加する好機が到来したと受けとめたようです。いよいよ政治改革が進むと期待したのです。

ですが数日もしないうちにそれが全くの見当違いであったことが判明します。 

17日朝に早駕籠で出立せよとの指示があり、急いで手配りしたところ翌18日夕刻、再び見合わせるようにとの知らせが届きました。

一翁は再び勝への手紙を認めます(10月18日付け)。この手紙によると見合わせの理由は、将軍の「還御(将軍が江戸に帰ること)と決まったためとあります。

家茂の将軍辞任は、一翁が期待したものではなく、単に大坂城内での混乱によるものでしかなかったのです。そのことがわかった一翁は肩を落とすしかありませんでした。

 

 

さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

 【参考文献】

 ・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

 ・「大久保一翁」 松岡 英夫 中公新書

 ・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「明治維新の舞台裏」 石井 孝 岩波新書

 ・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

 ・「勝海舟全集2 書簡と建言」 講談社

 ・「勝海舟全集 別巻 来簡と資料」 講談社

  写真・画像: NHK大河ドラマ「勝海舟」より