こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。

いつもお読みいただきありがとうございます。

 

二か月近く投稿できずにいました。これだけ間隔が空いたのは理由があります。

といいますのは来年以降に新たな仕事を始めることを決め、秋ごろからその準備に時間と労力を投入していたからです。普段は行政機関で労働相談他の仕事をしているので、こうした時間以外を利用して少しずつ進めていますが、当ブログの執筆時間を捻出するには至らず、今日まで延び延びになってしまいました。

なお具体的なことはいずれ機会を改めてお話する機会があると思いますのでそれまでお待ちいただきたく存じます。まずは今年最後の投稿から始めることにしましょう。

 

 

 

【 長州側からみた交渉経過 】

 

前回、勝が大願寺で長州藩の広沢兵助(後の真臣らと談判に及んだことをお伝えしました。この時の勝と長州藩代表との会見(慶応二年(1866年)9月2日)は長州側にも記録(「防長回天史」)が残されています。この史料を読むと勝と長州側との間でどんなやり取りがあったかがより明らかになります。今回はここから始めましょう。

 

 

勝は、今後は政治を一新し諸侯を大坂に集め、「天下の公論」すなわち衆議により「公平至当」に決していくことを慶喜が約束したと説明しました。勝が熱く語る説得の言葉に耳を傾けていた長州側ですが、勝を信用する気配はうかがわれません。それどころか疑い深い態度を示しました。これまで長州討つべしとの方針を貫いてきた慶喜が「一朝一夕」で考えを改めたのでそう承知いただきたいと幕府重臣の勝安房守から伝えられても、長州藩としてはにわかに慶喜の言い分を鵜呑みにすることははばかられるというわけです。

長州側からは(慶喜公が)会議を開催し、その決議が「衆議に従って(長州を)討つべし」となれば再び征討軍を差し向け、「和すべし」となれば講和する思し召しではないのかと容赦のない言葉が勝に向けられます。

 

相手からの鋭い指摘に勝はたじろぎながらも慶喜の意向はすでに衆議で決する方針が確定しており、列藩からも異論がないことを強調した上で長州軍の領内への撤退を要請しました。幕府の使者を務める勝としては全力で弁明につとめるしかありません。ですが長州側はこれまでの経緯を踏まえれば、何か「実効の処」を示してもらわねばなばならず、「一新の御沙汰書」だけでとても信用できるものではないと表明し、幕府への強い不信感を口にしました。

 

勢いに乗る長州側は慶喜の意向が変わったのは、これまでのことに不条理があったと認めてのことかと問いかけ、勝が如何にもと返答するとさらに畳みかけます。

 

天下の耳目を一新し、…不条理を糺(ただ)し、征長に関与した者のたちへの処分が行われ、政治一新の実効が上がらねば兵の引き上げには応じられないと強硬な態度を崩そうとはしません。

 

 

(広沢兵助 後の真臣(さねおみ)

 

 

慶喜から停戦交渉を命じられた勝としては長州兵が領内に撤退する約束を取り付けなければ、使命を果たしたことになりません。

ですが長州側から思いの他手厳しい反論を受け、さすがの勝も困惑の体で、「御趣意通りに悉(ことごと)く行われ候と否とは、是亦(これまた)予め期し難く」と苦しげな返答を強いられています。

長州藩にとって最大の関心事は、慶喜が幕府政治の一新に本気で取り組む姿勢があるのかどうかにあります。幕府に反省を求め、自ら改めたことが明らかにならねば撤退には応じられないと強気一方の主張で迫ります。他の問題についてはその後に改めて話し合うことにしようと完全に長州ペースで会談は進みました。

 

 

 

【 幕府と長州の狭間で 】

 

目の前に居並ぶ交渉相手に歯切れの悪い返答しかできないことに最も苛立ちを覚えたのは、当事者である勝自身かもしれません。というのは、この談判が始まる二日前に慶喜が朝廷に働きかけて得た止戦の勅命が芸州藩に届き、その内容を勝は知っていたからです。その勅命には「侵掠(しんりゃく)の地を引き払え」という長州側をさらに憤激させる文言が記されていました(前話参照)

従来の姿勢を捨てきれぬ幕府と変革を求める長州との間には、はるかな隔たりがあることを勝は認めないわけにはいきません。しかも勝には長州側の主張に共感する想いがありました。それだけに長州側の要望に幕府が応じることはないことを勝は薄々気づいていたはずです。

 

勝は長州軍の撤退を求めることをあきらめ、代わりに幕府軍が撤退する際には追撃しないでもらいたいと申し入れました。幸い長州側がこの要求を受け入れ、その約束が取り付けられたことが勝にとってこの度の談判で獲得した唯一の成果となりました。

 

 

勝には帰坂して委細報告の上で再び長州と協議したい意向があったようです。しかし自分が戻って来られない場合には、幕府は長州の要望に応えることができないものと考えてもらいたいと極めて意味深な言葉を残しています。

 

この日、勝は日記にこう記しました。

「彼が云う処、悉く大節を持し、我が小吏の膏肓(こうこう)に当たる(長州の主張は一貫して大義があり、幕府の俗吏は手の施しようがない)」と。

 

 

 

慶喜、復命する勝と対面 

 

同日夜、勝は厳島を船で離れ翌日(9月3日)、広島に着くと総督府に向かい、先鋒総督らに談判の結果を報告しています。勝の報告を聞くと先鋒総督らは直ちに解兵を命じました。

先鋒総督であった紀州藩主徳川茂承(もちつぐ)も同月6日には大坂に戻りました。迅速な撤兵が行われたのは、幕府軍の士気が極めて低かったことがその理由の一つに数えられます。厭戦気分にあった幕兵らは一刻も早く戦地を離れたかったのです。

一方、長州側は幕府軍への追撃を一切行いませんでした。勝を信じ、勝との約束を順守したのです。追撃に怯え、早く撤退したかった幕府軍にとって勝が持ち帰った成果はそれなりの役割を果たしたと言っていいかもしれません。

 

 

勝は3日夜に広島を発ち、9日夜にようやく大坂に到着しています。

10日に入京し、小倉城攻めの総指揮官小笠原長行(ながみち)が戦線を離脱した(第172話)顚末を知り、「歎ずべし、末世の風習」と嘆いています。

11日、勝は慶喜に「長州の情実、顚末を言上」します。

翌12日には、「長州情実の細事を書して呈上」したと日記に短い記述があるのみ。

勝からの報告を受けた慶喜がどのような反応を示したのか書かれていませんが、おそらく勝に対し極めて冷淡な態度で接したであろうことは想像に難くありません

 

 

勝は生涯を通じて三度、慶喜から大きな裏切りに遭っていますが、この度のことはその一つです。

今回の使命は勝が慶喜から呼び出され、命じられた仕事です。勝は宮島応接を引き受けるに当たり事前に覚書を提出しました(第174話)。幕府自ら政治体制を一新するとの言質を取り付け、極秘の使者として長州に向かいました。ですが想定を上回る長州側の頑強な抵抗に遭い説得することができず、長州兵を撤退させる任務を果たすことは叶いませんでした。

慶喜は勝を起用する一方で勝と松平春嶽には無断で朝廷に働きかけ、止戦の勅命を求め、長州藩の動きを抑え込もうと画策しました。

結局、慶喜には最初から勝や春嶽の考えを受け入れる気持ちなど毛頭なかったことになります。勝が後年、「長州の人を売った姿になった」と語った(「氷川清話」)のは、勝が長州人にした約束を慶喜が無視したため果たされなかったことを指しています。

 

勝の努力により幕府軍が追撃を受けることがなかったことには一片の評価も与えず、勅命により窮地を脱した今、御用済の勝には江戸への帰府命令が下されました。今や無用の存在となった勝にはさっさと江戸に帰れといわんばかりの仕打ちでした。

 

人質なることも覚悟の上、取り組んだ命がけの行動が徒労に終わり、慶喜に煮え湯を飲まされた勝は怒りを爆発させ、辞表を叩きつけました。こうなったからには復帰した第一線を退き、閑職に身を置き、江戸で過ごすしかありません。再び自分に出番が訪れることがあるのか、全くわからないまま暗澹たる想いを抱いて江戸に引き返すしかない勝でした。

 

 

さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

・「氷川清話」 勝海舟 江藤淳・松浦玲編 講談社学術文庫

・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

・「勝海舟全集18 海舟日記Ⅰ」 勁草書房 電子書籍

・「防長回天史 第五編第35章」国立国会図書館デジタルコレクション

  写真・画像:ウィキペディアより

 

 

《 お知らせ 》

 当ブログをしばらくの間、おやすみさせていただきます。

 冒頭でもお話しましたが、来年以降に始めたいと考えている仕事の準備に専念するため、海舟ブログの投稿を休ませていただきます。再開時期は明言できませんが、早くとも来年の夏以降と考えております。筆者個人の事情により真に勝手を申しますが、ご理解賜りますようお願い申し上げます。

今年一年、当ブログをお読みいただき、本当にありがとうございました。皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。