こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。

 

 

【 果たせなかった任務 】

 

前回の続きです。

勝は当初、老中板倉勝静(かつきよ)から命じられた会津と薩摩との仲裁役の任務を果たしたものと考えていました。ですが双方とも自分の説得に応じるだろうという勝の目論見は見事に外れました。後になって勝は自身の失敗を認めざるを得なくなったことについては前回お伝えしました。

 

軍艦奉行に復帰し江戸からやって来た勝は6月22日(慶応二年、1866年)、大坂城で板倉に対面した時、勘定奉行小栗忠順から聞かされた「最秘密の議」(第168話)と呼ばれる小栗構想を痛切に批判する持論を展開しました。勝のあまりに激しい議論にたじたじとなった板倉は何も言わずに目下の課題は薩摩と会津の関係を修復することにあると話題を転じ、勝に仲裁を命じました。

 

一年半ぶりに第一線に復帰し、再び政治向きの仕事に関わることになり勝にも気持ちの高ぶりがあったのかもしれません。今度こそ閑居中に胸に温めてきた政治構想を実現する潮流をつくり出す好機になると期待したとしても不思議ではありません。

小栗とは全く異なる政治思想を持つ勝には徳川家を中心とする構想は到底受け入れられぬもの。その思いの丈をそのまま相手にぶつけたために、板倉は言葉を差し挟むことなく傾聴するしかなかったのでしょう。勝は押し黙る板倉老中の胸中を読み誤り、自説を了解してくれたものと思い込んでしまったようです。

 

 

勝は江戸で反対の立場でしたが、同様のことを経験しています。

江戸城の一室で小栗から構想を聞かされた時、内心あきれ返りながら勝は一言も漏らしませんでした。今、議論しても始まらないと冷静に判断したからです。

ですが反対に大坂で自らが語り手になると胸の熱い想いのままに議論を展開し、冷静な態度で説得に努めることができませんでした。交渉人としてコミュニケーション能力が高いとされている勝ですらこうした過ちを犯しています。人は時として当事者になると相手のことが見えなくなったり、自分の考えや想いだけが頭の中を占めてしまうことがあります。そうなると冷静な判断や思考整理がどこかに置き去られてしまうため大事な場面でいとも簡単にこうしたミスを犯してしまう。他人との話し合いの場や交渉の場面で誰にも起きうる教訓として肝に銘じておくべきことかもしれません。

 

 

板倉老中を読み誤った勝 】

 

勝と板倉、双方の考え方には根本的な対立が存在していました。

一方(勝)は「徳川が自ら倒れ、自ら削小」して賢明・有能な人材の登用を唱え、他方(板倉)はフランスからの支援による「最秘密の議」を実施し、諸侯を削小し徳川の存続を図ろうとする。となれば双方の考えの延長線上にある薩摩に対する方針もまた相違するのは当然のこと。

前回、「勝には困り居る由なり」と板倉が吐露したとお伝えしましたが、凡庸な老中であった板倉には勝の思想はあまりに過激で理解不能なものであったのでしょう。

 

7月5日、勝は京から大阪に戻り、翌日登城しましたが板倉老中に会うことは叶いませんでした。その日(6日)の勝は、日記に老中小笠原長行(広島での長州応接で芸州藩の不興を買い、九州方面小倉口の総督に異動)とこの老中を信じ、フランスを頼ろうとする数名に対する批判の言葉を書きつけてうっぷんを晴らすしかありませんでした。

 

 

(壮年の勝海舟)

 

 

板倉の真意を知らない勝は7月8日、再び登城して板倉に会い、次の二策を具申しています。

 

「第一等の処置は幕府内の奸物を除くこと。第二等は長州に速やかに攻め入り、勝利して寛大な処置を講じよ」というものでした。

また「大邪、既に仏朗西(フランス)に借るの策あり。極めて斯くの如くなるは、彼の術中に陥り、国家の瓦解、日を卜して察すべし」と説きました。

「大邪」というのは小栗忠順を中心とする幕府内の親仏派たちを指しており、勝は小栗らが進めるフランスの借款を厳しく批判し、幕府の政策に猛烈に反対しました。有能で賢明な人材を登用した政治への刷新こそが目下の急務であるとし、この策を速やかに実施するなら戦わずして敵の勢いを削ぐことができると論じたのでした。

 

小栗構想が実現したら大変なことになると考えたのは、勝だけではありません。大久保一翁も、「大いに知恵がある小栗などが、長州征伐が終わるまでに要する費用は何としてもやりくりすると言っているのは実にすさまじいことだ。(…中略…)そのつけはきっと庶民への負担となってしまうのではないか」と強い危惧を抱いていました。

 

 

勝は板倉を説得できる相手と見ていたようですが、板倉が勝の議論に理解を示すことなどあり得ぬことでした。なぜならこの会見があった数日前(7月2日)、勝の知らぬところで板倉は兵庫まで出向き、フランス公使ロッシュと会談しているからです。板倉はフランスとの間で借款計画が密かに進行中であることを知っていましたが、交渉相手から直接、話を聞きくことができ意を強くしたことでしょう。長州攻めに必要な軍艦や武器の調達に目途がつき、これで資金手当の不安がなくなると知り、胸を撫で下ろすことができたはずです。

 

ロッシュは板倉と会う少し前、小倉口で戦闘指揮官となっていた老中小笠原長行とも会見しています。この時、ロッシュは小笠原に対し下関攻略の仕方まで指南しています。また武器や軍艦などの戦費調達を心配する小笠原にロッシュは極秘と断りながらも借款成立の見込みあることを伝え、安心させています。

さらに戦後の長州処分問題にまで話題が及んだといいますから、この頃のロッシュが幕府の政策にも口を差し挟めるだけの影響力を持つ存在となっていたことがわかります。今や幕府の最高顧問と呼んでも少しもおかしくない立場にあったのです。

 

 

【 事態の打開を図る勝の提案 】

 

さて勝が京から大坂に戻った頃、広島で幕府の足並みを乱す事件が起きていました。同地での長州応接で不評を買った小笠原長行に代わり、その後任には老中本荘宗秀(伯耆守)(ほんじょう むねひで(ほうきのかみ))が就きました。本荘は開戦以来、幕府に不利な情勢が続いていたため休戦を図ろうと独断で拘禁中であった長州藩主名代の宍戸(ししど)備後助を釈放しました。この措置に激怒したのが先鋒総督の任にあった紀州藩主徳川茂承(もちつぐ)です。総督の許しもなくこうしたことが行われては、茂承の総督として立場がありません。茂承は直ちに辞表を提出したため幕府は慰留に努める一方、本荘を大坂へ呼び戻し、罷免処分を行う破目となり、混乱が生じました。前線基地のトップ二人の意思の統一が図れていない以上、幕府方に勝ち目がないのはもはや当然の結果と言うしかありません。

 

 

本荘に対して理解ある考えを持っていた勝でしたが、大坂城内に詰める勝の孤立感は深まるばかりでした。仕事もないため勝が帰府することを考え始めた頃、将軍家茂の「御不例」を耳にします。戦況が悪化する中、将軍の病状が重いと知らされたのです。

こうした事態を少しででも打開しようと考えた勝は意見書を提出(7月19日)します。勝の提案はこのようなものです。

自分に軍艦への乗り込みを命じてもらいたい。海上から敵の要所を攻撃する。そこへ幕府の歩兵隊ニ、三隊を以って攻め込めば一勝する見込みが立つ。

 

この策を実施すれば大きな犠牲を払うことなく短期間で苦境にある局面を転換できると考えたのでしょう。これを勝は先の二策に次ぐ「第三等の説」と日記に記しています。この策を用い、勝利した後、寛大な処分を行えば四、五十日を出でずして鎮撫することができるというもの。本当にそれが可能であったかどうかはわかりませんが、後に勝が行う長州との談判における行動から考えると早期の休戦に持ち込む狙いがこの時の勝にはあったようです。

 

 

意見書の策が実行に移されることはありませんでした。というのは7月20日、遠征先の大坂城内で長く病に伏していた徳川十四代将軍家茂がこの世を去ったからです。享年わずかに二十一歳。将軍職にあること八年。黒船来航後、激動の時代に突入し、国内に起きた未曽有の混乱と幕藩体制への揺さぶりが重圧となり、この若き将軍の命を縮めることになったことは明らかなようです。

 

 

さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

・「明治維新の舞台裏」 石井 孝 岩波新書

・「大久保一翁」 松岡 英夫 中公新書

・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

・「勝海舟全集18 海舟日記Ⅰ」 勁草書房 電子書籍

・「続再夢紀事 第五」国立国会図書館デジタルコレクション

 写真・画像:ウィキペディアより