こんにちは、皆さん。
勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。
いつもお読みいただきありがとうございます。
【 対立する薩摩と長州の主張 】
前回の続きです。
国事会談(慶応二年1月18日)は、長時間を要し夕方から深夜に及びました。その間、論点が手際よく整理されながら順調に協議が進んだとはとても考えにくい氣がします。複数の議論すべき論点があり、結論めいたものが決まりかけては別の視点からの指摘により議論が振り出しに戻ってしまう、そんな場面が何度かあったかもしれません。
議論は薩摩側が長州に幕府の処分案を受け入れるように勧めることから始まりました。
薩摩藩の方針を簡単に説明するとこうなります。
・長州側に幕府が決めた長州処分案を受け入れるよう求める。ただし処分内容はできるだ け軽いもので済ませることで決着を図る。
・その後頃合いをみて薩摩藩も協力して朝敵の汚名を蒙った長州藩主父子の名誉回復と政治的復権が遂げられるよう朝廷に対し働きかける。
ところが木戸(孝允)は幕府処分案の受け入れを断固として拒否しました。三家老の切腹を以て長州藩への処分は済んでしまっていると主張し、これ以上の処分はどのようなものも受け入れられないと強気一方の主張を繰り返し、薩摩の提案に耳を貸そうとしません。
取りつく島もない木戸の頑な態度に小松(帯刀)や西郷(吉之助)ら薩摩側は辟易し、提携話をこれより先に進めることができなくなりました。薩摩としては上京した木戸をこのまま帰国させるわけにはいきません。そのため小松らは木戸との協議内容をいかに藩の方針と整合性が取れたものにするかに腐心しなければなりませんでした。
この頃、薩摩は長州問題だけでなく条約勅許問題などで幕府と真っ向から意見が対立していたため幕府から警戒の目で見られるようになっていました。それだけに長州藩との提携を知られることで幕府を刺激し、幕薩関係をさらに悪化させるのは避けたいところでした。とはいえ長州藩は薩摩藩が提携する相手として申し分のないパートナーに変わりないため今後のためにも関係を深めておきたい存在です。
長州藩を支援することに異議がない薩摩藩でしたが、木戸の要求を呑むことは薩摩が長州により深く肩入れすることになるため慎重にならざるを得なかったのです。
深夜になり、ほぼ論点は出揃いました。大胆に整理すると論点は二つ。まず再征反対の立場を取る薩摩藩は、長州の名誉回復に協力を惜しまないことを約束する。もう一つは、長州が幕府の処分案を拒否するのを薩摩側が認めるかどうかということです。
第一点の内容は、一か条から四か条までにまとめられています。
盟約の最初の一か条は、
一、長州藩が幕府との間に戦が起こった時には、薩摩藩はすぐに二千人余りの兵を国許から京に上らせ、在京の 兵と合わせ、また大坂へも千人程の兵を差し置き、京・大坂を固める、というもの。
つまり京・大坂に兵を配置するというもの。これは幕府への圧力となることを狙ったものです。薩軍が京・大坂に駐留すれば幕府はとしても備えのために幕軍の分散を図らねばなりませんから、間接的に長州を支援することにつながります。これは再征の勅許を「非義の勅命」と断定した薩摩の考えに沿ったものです。
次に盟約の二つ目から四つ目までの三ヵ条は、
幕府と長州との間で戦争が起きても起きなくても、また戦争に至った際に戦況の有利不利に関係なく薩摩は長州藩の冤罪を晴らすため朝廷工作を行うことを約束したものです。
【 木戸に追い込まれた薩摩 】
ここまでは18日の段階で固まったと思われます。ですが二点目の論点については軽々に決断できないものでした。
この盟約の五つ目の箇条はこうあります。
一、薩摩藩が兵を京阪に上らせ、一会桑(一橋・会津・桑名)の三者が朝廷を擁して薩摩藩が長州藩のために周旋するのを遮(さえぎ)る時は、最終的に決戦に及ぶことも辞さない。
木戸に納得してもらうには薩摩も幕府と戦う覚悟があることを示す必要があります。「決戦」という言葉の使用には長州への配慮がうかがえます。この条は薩摩側が明らかに一歩踏み込んだ内容となるものです。
ではいつ、どんなタイミングで小松・西郷は第五か条の決断をしたのでしょうか。そのカギを握る人物こそが坂本龍馬であったと考えられます。
【 龍馬はどんな仕事をしたのか 】
すでにお話したように龍馬が京の薩摩屋敷に着いたのは慶応二年1月20日のことです。到着の二日前には双方の協議により両藩提携に関する議論が尽くされ、六か条すべての合意ができていたとする説があります。そうなると龍馬は一体どんな仕事をしたのかという疑問が湧いてきます。
龍馬が木戸に会った時、木戸は暗い表情を浮かべ龍馬に不満と愚痴をぶちまけました。それを聞いた龍馬はすぐに二本松にある薩摩藩邸に向かいます。小松と西郷に会い談判するためです。
では龍馬は両者に何を訴えたのでしょうか。木戸の苛立ちは、薩摩は幕府処分案の受け入れを勧めるが、それは長州藩としてできない相談だと繰り返し主張しても薩摩側がなかなか承知してくれないことにあったと思われます。
龍馬は脱藩して活動していたため木戸や小松、西郷のように藩組織に従順であることを求められる当事者たちとは違った視点から自由な立場で薩長提携の意義を唱えられたはずです。龍馬の説得に小松・西郷は夜を徹して思案することになったでしょう。
戦を辞さない覚悟を示せば小松・西郷が木戸の主張を受け入れた形になり、木戸も面目を保つことができます。前回お話したように「決戦」に及ぶ相手とは一会桑勢力です。
この頃の薩摩が一会桑に対してどのような思いを抱いていたかというと、「朝廷はあっても無きに斉(ひと)しくあらゆることが一会桑の心のままになるのは如何にも憤激に堪えない」(「続再夢紀事」五※)というものでした。したがって、遅かれ早かれ一会桑勢力との一戦は避けられぬものとの覚悟はすでに薩摩側にはあったことになります。
一方で薩摩は幕府が長州再征を本気で行うつもりはないと見ていましたからこうした表明をしても後に薩摩の立場を危うくすることはないと判断したのでしょう。巧妙なのは、一緒に戦うことを約束する言葉が見当たらないことです。
さらに事後報告を行う島津久光には説明がつくものにしておく必要があります。この点においても小松と西郷は久光の意向にも沿い、藩の方針からはみ出しておらず、説得できると踏んだのでしょう。
明けて翌21日(22日とする説あり)、龍馬同席の下、木戸と小松・西郷との会談が行われました。幕府処分案を拒否するという木戸の主張を小松と西郷が認め、薩摩は戦を辞さないとする覚悟を示す六か条の内容でようやく合意に至りました。
(京都市上京区にある薩長同盟が締結されたと言われる通称御花畑屋敷)
このように見てくると薩長盟約において坂本龍馬が果たした役割は、従来から語られてきた英雄的な活動とはかなり様相が異なり、仕上げの段階で貢献していたことがわかります。
提携について薩長の当事者間でそのほとんどの内容が議論され、おおよその合意が形成されていた。それでも一歩踏み出した盟約成立という地点に至るには、双方(とりわけ薩摩側)が抱える様々な事情が足枷となり、互いが手を結ぶことにためらいがあった。
そこに藩という制約から解き放たれた視点を持って語れる存在であった坂本龍馬という媒介人が現れ、最後の一押しをする役を買って出てくれたということではないでしょうか。
歴史家の松浦玲先生は、著書「坂本龍馬」の中で薩摩に「そこを踏み切らせた」のが龍馬であると説明されていますが、尤もな見解だと考えています。
この盟約は薩摩側が長州の木戸の言い分を容認する内容が含まれるため薩摩にとっては長州に押し切られたと言えなくもありません。したがって当時の当事者たち(とりわけ薩摩側)にとっては、今日の私たちが考えるような大きな歴史的意義を持つ盟約を締結したという認識は全くなかったのではないかと考えられます。
さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
※「続再夢紀事」五:慶応二年1月2日、薩摩の大久保一蔵、吉井幸輔らが越前福井藩の中根雪江の寓居を訪れ、中根の方から意見を尋ねた際の大久保の返答。
【参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「坂本龍馬」 松浦 玲 岩波新書
・「西郷隆盛」 家近良樹 ミネルヴァ書房
・「大政事家 大久保利通」 勝田 政治 角川文庫
・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房
・「江戸幕府崩壊」 家近良樹 講談社学術文庫
・「坂本龍馬からの手紙」 宮川禎一 教育評論社
・「続再夢紀事 第五」国立国会図書館デジタルコレクション
写真・画像:「幕末維新庵」近衛家別邸・御花畑御屋敷跡(小松帯刀寓居跡・薩長同盟所縁之地)より