こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。

 

 

【 将軍家茂の死と継統問題 】

 

徳川幕府、最後の将軍が徳川慶喜であることは広く知られており、皆さんもよくご承知のことでしょう。ですが慶喜が将軍に就任するに際し何の支障もなく事が運んだのかというと全くそうではありませんでした。関与する人たちの思惑がそれぞれ違っていたこともありますが、すんなりと決まらなかった最大の理由は何と言っても慶喜が一癖も二癖もある人物だったことにありそうです。何を考えているかよくわからないところがあり、そのため周囲の人たちは慶喜の真意を図りかね、振り回される破目になったのでした。

英邁の誉れが高かった慶喜は安政期にも将軍候補としての名が挙がり、次代を担うリーダーとして嘱望されていました。それだけに家茂亡き後の後継者は慶喜をおいて他に誰もいないと考えられていました。ですが当の慶喜は頑として引き受けを拒みます。

 

一人の強烈な個性の持ち主が周囲の人間関係に大きな影響を与えることは、現在においてもよくあることです。時代の節目や新たな局面への転換が必要な時期においては強烈な個性を持つ人物の存在が周囲の人間を巻き込みながら歴史の流れに大きな影響を及ぼすことがあります。徳川慶喜という人物はその典型例であり、代表的な存在と言えそうです。ではどのような動きがあったのでしょうか。早速見ていきましょう。

 

 

慶応二年7月20日、徳川14代将軍家茂が大坂城内で亡くなります。二十一歳という若さでした。この日の勝の日記には、

 

「登城。君上御重事、殿中騒然、敢て議なし。」

 

とあります。

 

大坂城内の混乱は目を覆うばかりでした。そうでなくても長州藩との開戦以来、各地から幕府方の敗走の知らせが次々と届き、幕府は苦しい立場にありました。何よりも衝撃となったのはこの若き将軍の死でした。

 

危機に瀕し騒然とする城内にあって、勝は冷静な目で周囲の状況を見つめることができる資質を持つ唯一の存在でした。勝は今幕府が採るべき策を意見書(この時点では、家茂の死をまだ知らず危篤状態に陥った場合を想定してのもの)にまとめ提出しています。

意見書の中で勝は、「将軍が政務は速やかに一橋慶喜にすべて委任し、江戸に軍艦で戻るよう」、すなわち慶喜への政務委任と将軍東帰を進言しています。東帰に際しては「今天下の人心は薄氷を踏むような不安定な状況」にあるとの観測からどんな混乱が生じるかわからぬとし、陸路は使わず海路の採用を求めています。勝が極めて強い危機感を抱いていたことがうかがえます。

 

この時期、勝は次々と意見書を提出しており、様々な論点から意見具申を行っています。

23日付けの意見書では、国政に関する建白をしています。

「国を治める道は、結局のところ富国強兵の二つ」とし、そのカギは交易にあると述べています。交易において「外国の侮りを恐れ、国家の転覆を憂えるなら大活眼を開き、幕府を正し、有能な人材を起用し、有力諸侯の意見も取り入れながら政治を行わねばならない」と持論を展開しています。幕府を正す者が勝自身を指していることは言うまでもありません。

 

一方、城内では御継統の事すなわち次の将軍の後継ぎ問題ばかりが議論されているだけで、「国事は御擲捨(ごてきしゃ:投げ捨てられるの意)の形、(これでは)必ず災いを起さむ」と嘆いています。しかしこの度も幕府首脳が勝の意見に耳を傾けることはなく、政治を刷新せよとの申立てはまたしても取り上げられることはありませんでした。

 

 

【 慶喜に振り回される幕府首脳 】

 

征長軍の敗北が続くことは幕府にとっては大きな頭痛のタネでした。ですがそのこととは別に、むしろそれ以上に幕府の封建支配体制を揺るがしかねない深刻な問題がこの年には頻発していました。この頃になると幕府に対する不満から全国各地で庶民が蜂起し、世直し一揆が起きてきます。幕府は徳川幕府開府以来の最大の難局とも言うべき深刻な事態に直面していました。こうした政治的状況の下で、次の将軍を担える人物といえば一橋慶喜以外にはいないことは誰の目にも明らかでした。

 

(慶応二年頃の徳川慶喜)

 

家茂死後、次期将軍の件で迅速に行動したのは老中板倉勝静でした。

板倉は家茂の病状を心配した松平春嶽から登城を打診する手紙を受け取ると翌日登城を要請しました。京から下阪した慶喜を説得するための協力者が必要だったからです。

 

板倉は懸命に将軍職を引き受けるよう慶喜に迫りました。ところが当の慶喜は板倉の懸命の説得にもかかわらず首を縦に振ろうとはしません。困った板倉からの依頼で同月23日、春嶽も慶喜の説得に当たることになりました。

春嶽は大政奉還論者(政権を朝廷に返上し、将軍職からも降りよとの考えの持ち主)でしたから慶喜に後継者となるよう説得するのは一見矛盾しているように思えるかもしれません。ですがこの時の春嶽は、徳川幕府の政治支配体制の根幹を揺るがしかねない最大の政治的危機に直面しているという認識を同じ封建領主として共有しなくてはならぬと考えたのでしょう。

 

これまでに何度も慶喜とは政治的に対立してきた春嶽ですが、説得の仕事を引き受けたのは今の徳川家で後継者にふさわしい人物が慶喜の他には見当たらなかったからでした。

しかし慶喜は春嶽の説得にも応じませんでした。さらに朝廷から継統の事に関し強く要請があるようなら自分は屠腹するか江戸に逃げ帰る他ないとまで述べ、拒み続けます。

 

慶喜という人物の難しさは、口にする言葉が本心なのかどうかを人々に疑いを持たせてしまうことにありました。しかも前言を翻すことに何のためらいも持たず、平然と主張を変える人物でしたから真に厄介な性格の持ち主です。そのため周囲の者たちは慶喜の真意が読めず翻弄されるばかりでした。そんな中、渦中の人物である慶喜は勝手に京に戻ってしまいました。

慌てて板倉が後を追って上京し、春嶽も25日、大坂を発ち京に向かいました。

この局面に関わることができない勝は、幕府首脳による政務が執り行われるべき大坂城に留まって事態を見守るしかありませんでした。

 

 

【 慶喜の豹変 】

 

ところが27日になると突然、慶喜は将軍職就任には応じないものの徳川宗家については相続することを承諾すると表明しました。

将軍職を受けないのであれば、その点では松平春嶽の考えに近づいたように見えますが、すぐにそうではないことが明らかになります。

翌28日、幕府は慶喜の宗家相続と家茂の名代として長州に出陣を発表し、朝廷にも届け出たのです。このとき慶喜は「長州大討込」と称して自ら陣頭に立って征長戦を戦う決意を示し、その準備を始めました。春嶽は一貫して長州再征に反対を唱えていますからここでも両者の政治路線が重なることはなかったのです。

 

春嶽は27日、板倉老中に再び会うとかねてよりの持論を語りました。「幕威を去り、天下有名の諸侯を会同し」、国事に関する大事はすべて諸侯会議で議した上で施行しなくてはならないというもの。

板倉は同意しながらも頑なに出兵拒否を続ける薩摩に対する周旋を依頼しました。

春嶽は、慶喜公が自らを省みて、今後幕府は無きものと考え、これからの国の大事は(長州問題を含め)有力諸侯と協議して決定していくとの方針を公表し、その上で勝に薩摩を説得させれば、薩摩も態度を改め承服するだろうと述べ、勝の起用を求めました。

こう提案した春嶽に板倉は、勝を起用する話は慶喜には決してしないよう求めました「勝は慶喜公が殊の外、嫌っている」からその話は慶喜の耳に入れてはいけないと板倉は注意を与えたのです。

 

勝が何度、意見書を提出しても取り上げられることがなかったのは、板倉が慶喜のこうした考えや性格をよく知っていたからでしょう。一方の勝は板倉を話せばわかる相手と考えていたようでしたが、断然慶喜を支持する板倉としては勝を拒み続けるしかなかったことになります。

 

 

さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

・「徳川慶喜」 松浦 玲 中公新書

・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟全集1 幕末日記 講談社

・「勝海舟全集2 書簡と建言」 講談社

・「勝海舟全集18 海舟日記Ⅰ」 勁草書房 電子書籍

・「続再夢紀事 第五」国立国会図書館デジタルコレクション

 写真・画像:  ウィキペディアより