こんにちは、皆さん。
勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。
いつもお読みいただきありがとうございます。
【 薩長同盟では何が決められたのか 】
前回の続きです。
慶応二年(1866年)1月18日、夕刻から深夜にかけて薩長の幹部たちの間で国事に関する協議が行われたとお伝えしました。
では何が議題となり、どんなことが話合われたのでしょうか。
薩長同盟は幕末史上、これほど重要なエポックはないと断言しても構わないほどの出来事でありながら、意外にも締結に関する両藩の正式な文書は残されていません。そのことが秘密同盟であったことの証左であるとさえ言われてきました。
では後世の私たちがどうして薩長同盟について知ることができたのでしょうか。結論を先に申し上げるなら、それは木戸孝允が坂本龍馬に宛てて書いた長文の手紙が残されているからです。この長い手紙は盟約が締結された1月21日(22日という説も)の二日後、木戸が薩摩藩邸を出てから大坂で書かれたものです。
手紙は、先日の会合で合意に至った内容をまとめると六か条になると思うが、それに間違いがないか木戸が龍馬に確認を求めるものとなっています。木戸は考え違いをしている箇所があったら龍馬に遠慮せず直して欲しいと申し出ています。
六か条を以下に示しましょう。
一、長州藩が幕府との間に戦が起こった時には、薩摩藩はすぐに二千人余りの兵を国許から京に上らせ、在京の 兵と合わせ、また大坂へも千人程の兵を差し置き、京・大坂を固める。
一、戦が起き、長州側に有利な展開となり勝利を収めそうな時には、薩摩藩は朝廷に長州藩の汚名を晴らすことに尽力する。
一、万一、長州側の旗色が悪くても一年や半年で藩が潰れてしまうことはないので、その間に薩摩藩は長州藩のために尽力する。
一、戦が起こらず、幕府の軍勢が江戸に引き上げた時は、薩摩藩は長州藩の冤罪を朝廷に認めてもらうように直ちに働きかける。
一、薩摩藩が兵を京阪に上らせ、一会桑(一橋・会津・桑名)の三者が朝廷を擁して薩摩藩が長州藩のために周旋するのを遮(さえぎ)る時は、最終的に決戦に及ぶことも辞さない。
一、長州藩の冤罪が晴れたなら、薩長両藩は心を一つにして皇国のために皇威が回復することを目指して共に尽力する。
さて上記の六か条から読み取ることができるのは以下の内容です。
まず薩摩藩は出兵し、京・大坂に兵を配置し幕府をけん制する。
次に幕府の長州再征により戦争が起きようと起きまいと薩摩は長州藩の冤罪を晴らすため朝廷工作を行うことに力を尽くす。
さらに一会桑が薩摩の行動を遮ることがあれば、薩長は共に力を合わせて「決戦」に及ぶことを盟約する。
ここでご注意いただきたいことは、「決戦」という言葉の解釈です。これまで長くこの言葉は、薩長両藩が幕府との全面的対決を想定した軍事的攻守同盟の締結を意味するものと解釈されてきました。ですが六か条から読み取れる「決戦」に及ぶ相手とは、幕府そのものではなく、飽くまで一会桑勢力です。すなわち薩摩にしても長州にしても この時点で幕府本体との軍事的衝突を決意したわけではないということです。
前回お話したように西郷はじめ薩摩藩幹部らは島津久光から自身の意向に従うよう強く求められていました。ですから在京幹部だけで幕府との決戦を辞さないなどといった藩の存亡に関わる重大な決断などできようはずもありません。
【 国事会談で協議されたこととは? 】
では1月18日の夕方から深夜にかけて行われた国事関する会談では何が話し合われたのでしょうか。繰り返しますが、この時、龍馬はようやく大坂に着いたばかりで、この会談に同席していません。
薩摩側からは、小松帯刀、島津伊勢、桂久武の三家老に加え、西郷、大久保、吉井らの在京幹部のほぼフルメンバーが参加したのに対し、長州側は木戸孝允ただ一人のみ。ズラリ顔を揃えた薩摩藩幹部を前にして木戸は長州人としての矜持を持って孤独な戦いの場に臨む心境であったに違いありません。
何度もお話したように薩摩藩は幕府の長州再征には反対する立場を取ってきました。幕府が朝廷から長州再征の勅許を獲得すると「非義の勅命」には従えないと幕府側を厳しく批判したのは大久保一蔵でしたが、それは薩摩藩幹部の総意でもありました。
とはいえ薩摩藩は再征には反対するものの、幕府が長州を処分することに反対する考えはありませんでした。御所に向かって発砲したからには長州藩にそれなりの処分が科されるのはやむを得ないことと判断していたからです。
幕府が長州処分案を朝廷に申し出、勅許を得たのは同月22日。その内容は、①藩主父子の隠居・永蟄居(ちっきょ)、②十万石削減、③禁門の変を主導した三家老の家名断絶というものでした。
木戸と薩摩藩幹部との間で協議が行われた18日の段階では、幕府の処分案はまだ発表されていません。ですが薩摩は探索により上記の処分内容で決まるもの見ており、長州が幕府の処分案を受け入れることを望んでいました。この時期に内戦が起きる事態の発生は避けなくてはならないと考えていたからです。
一方で薩摩は幕府が再征を行うには、兵の士気や財政面などあまりに多くの諸問題や困難を抱えており、本気で実行する氣はないと見ていました。
大久保一蔵でさえ、同月23日(会談の五日後)に越前福井藩の中根雪江と議論した際に幕府の処分案に薩摩は同意であると表明しています(第157話)。また越前福井の松平春嶽も長州が受け入れることで事態収拾が図られることを望んだとされています。
【 薩摩の提案を拒絶する木戸 】
薩摩は木戸に幕府の処分案を受け入れるように求めました。ですが木戸は断固として拒否しました。
先の長州征伐においては西郷が主体的に動き、長州藩の三家老が切腹することで事態の収拾を図り、征長総督 徳川慶勝の命により幕府も諸藩も兵を引きあげさせました。つまり三家老の切腹は、長州領を取り巻く幕府軍を解兵させるための条件であり、正式な処分は改めて行われるものとの認識が薩摩側にはありました。
(桂小五郎こと木戸孝允)
ところが木戸の考えは全く違っていました。
木戸は三家老の切腹を以て長州への処分は済んでおり、これは長州藩全体の意見であると強く主張しました。そのため木戸は薩摩の提案を頑として聞き入れません。さらにこれ以上の処分はどんなに軽いものであっても受け入れられないと強気の主張を変えようとしませんでした。幕府との戦を決意しその渦中に身を投じ、藩の存亡を一任され上京した木戸にとってここはどうしても譲れない一線であったのでしょう。
【 薩摩藩家老小松帯刀の決断 】
こうなると薩摩の立場は苦しいものとならざるを得ません。
薩摩の方針は、長州が幕府の処分案を一旦受け入れること。そうなれば幕府は長州攻めの大義名分を失くすため、戦は起こせなくなる。そして長州藩主父子が上京できた暁には名誉回復(朝敵の汚名を晴らす)に双方が力を合わせて朝廷に願い出ようというもの。
ですが木戸は薩摩の提案に耳を傾けることはなく、反対に長州藩の復権に向けての薩摩の周旋を強く求めたのです。これを受け入れれば薩摩は既定の方針より一層長州に肩入れをすることになります。
小松・桂(久武)・西郷の在京首脳は木戸の主張を認めるかどうか、まさに思案のしどころでした。求めに応じず木戸を怒らせて帰らせてしまえば薩摩としても長州藩という有力なパートナーを失うことになりかねません。久光の意向にも配慮しつつ慎重に協議しなければならなかったと考えられます。薩摩側の口が重くなるのは当然のことでした。
結果的に薩長の提携話が六か条にまとめられた内容を見れば薩摩側が木戸の主張を受け入れたことになります。当初、双方の考えにはかなりの開きがありましたから薩摩側から歩み寄るのは極めて難しい面がありました。
この局面で難しい政治的決断を下した人物は、薩摩藩家老小松帯刀以外には考えられません。小松はここで一歩踏み込んでも幕府に対抗する薩摩藩の方針から大きくはみ出るものではないと判断したのでしょう。木戸の強気の主張を受け薩摩藩首脳の長考の末、薩長提携の話し合いはようやくまとまりました。ですがその内容が文書にされることはありませんでした。
さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
※ 薩長同盟は武力倒幕を目的とした軍事同盟ではないと従来の通説に異議を唱えたのは、歴史学者の青山忠正氏です。氏が研究論文を発表されて以後、青山説は歴史研究者から広く支持されています.
【参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「坂本龍馬」 池田 敬正 中公新書
・「坂本龍馬」 松浦 玲 岩波新書
・「西郷隆盛」 家近良樹 ミネルヴァ書房
・「大政事家 大久保利通」 勝田 政治 角川文庫
・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房
・「江戸幕府崩壊」 家近良樹 講談社学術文庫
・「坂本龍馬からの手紙」 宮川禎一 教育評論社
写真・画像: 「小学館ライブラリー」より