こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。

いつもお読みいただきありがとうございます。

 

 

【 勝、薩摩と会津の調停を命じられる 】

 

前回の続きです。

軍艦奉行再任により大坂出張を命じられた勝が、大坂城で老中板倉勝静(かつきよ)と対面した日(慶応二年6月22日)よりも前に幕長戦争は始まっていました(6月7日開戦)。この頃には幕府方敗報の知らせが板倉の許にしきりに届いていました。

同月14日、先鋒軍の彦根藩(井伊家)と越後高田藩(榊原家)が長州軍との戦闘により敗走し、以降も幕府方は各戦線で敗北を重ねていきます。

板倉は、薩摩の大久保一蔵が長州再征に異議を唱え、出兵拒否の文書を届け出たこと、そのため幕府としてその対応に手を焼いていることを勝に打ち明けました。またこうした薩摩の態度を会津が激しく憎み、兵を動かす機会をうかがっており、双方の間でいつ衝突が起きてもおかしくない不穏な情勢にあると語りました。

「一度事が起きれば収拾がつかぬ事態に発展しかねない。そうならぬよう説得できるのは勝、其方しかおらぬ」。

勝は板倉から薩摩と会津の仲を取り持ち、双方の信頼関係を修復するよう求められました。

 

 

勝は後年、この時のことを談話でこう語っています。

 

 「長州征伐に薩摩が反対した時は、大久保市蔵(後の利通)に岩下佐次右衛門、今一人の 三人で、なかなか承知しないのさ。中にも大久保は剛情で征長をお請けせぬのさ。…(中略)…。薩州に付いて出兵を断るものがあってはならぬという所から、ひどく弱ったのさ。

 会津はまた乱暴で、ひどく迫る。薩州を遠まきに巻いて、打殺してしまうと言う。…(中略)…。すると将軍が安房守を呼べと仰しゃったので、急に軍艦奉行に復して召されたのさ。

 何事か知らんと思って行ってみると、この次第さ。大久保等三人で出兵の断り書を出したから、板倉が弱って『お前ら三人の名ではいかぬ、松平修理大夫(薩摩藩主 島津茂久)の考えでなくてはならぬ』と言って下げた。すると翌る日、貼紙をして同じ文句で出したから『なんぼ、何でもひどい』と言うと『いえ、私等は主人の代表ですから、こう致したのです』と言うて聴かぬ。…(中略)…。なかなか剛情で困りっ切って居るというのさ。」

 

 

(老中 板倉勝静)

 

 

板倉の命を受けた勝は二日後の24日夕刻、船で京に向かいました。勝はまず会津側に働きかけることにしました。

談話では藩主松平容保に会ったところ、「自分はわかっているからそんなひどい事はしないが、家来が聴かないのだ。…(中略)…家来たちを説得してくれ」と言われたとあります。そこで勝は家臣たちにも会うことにしました。

 

 

他方、薩摩に行ってみるともっと簡単に解決してしまったと語っています。

 

 「(勝を迎えた岩下から)『モウあなたが来ればどうでもいいから』と言って、ひどい折れようさ。それで『この書付は先ず己に預けてくれ。そのうちに善くするから』と言うと…(中略)…。それで直に片付いてしまった。それから大坂に帰るとなんぼ何でもたった一日で片付いたから、サァ疑い出したよ」

 

勝の話をそのまま聞くと老中板倉が抱えていた難題を勝が広い交友関係を活かし、巧みな説得と尽力の結果、双方が勝の主張を受け入れ、スピード解決が図られたように見えます

ともかくも会津側の薩摩に対する疑惑を解消できたと考えた勝は、薩摩に対しては出兵拒否の意見書をひとまず自分が預かる形で事を収めようとしました。そうすることで幕府・薩摩の双方の顔をつぶさずに済ませられると踏んだようです。

こうして板倉老中からの任務を果たし終えた勝でしたが、その見通しは甘かったと言わねばなりません。というのは勝ならではのうやむやな解決策で済ませられるほど事態は単純なものではなかったからです。勝は勘違いをしていました。しばらく経ってから自分が誤った判断をしていたことに気づいたようですが、談話ではそのことは一言も触れられていません。

 

 

【 容保に届かなかった勝の言葉 】

 

では勝は何を勘違いしたのか。それをお話する前に談話では語られていないことに目を向けましょう。

 

勝は容保に対し「天朝、幕府の御一和」という方針そのものがそもそもの誤りだと断じています。鎖国の時代を経て今や諸外国と広く交際しなければならなくなった。こうした時代になったからには、国内の一致を計り、武士も庶民も志を一つにして賢明で有能な人材を登用した政治を行う国に変えていく必要がある。今幕府が取組まねばならぬことは、こうした政策を実行する政府に変わることを決意し、その実現に全力を挙げること。決して朝廷の意向に従い攘夷を実行したり、長州征伐を行うことではないと論じたのです。

 

容保は勝の話を黙って聞くのみでした。勝に質問することも自身の考えを述べることもしなかったようです。そのため勝は自分の考えを容保がよく理解したものと受け止めました。勝が日記に「薩の疑惑、既に氷解せり」と記したのは、こうした経緯によるものです。

 

ですが容保には勝の話を受け入れる考えは微塵もなく、また薩摩に対する疑惑も消えることはありませんでした。この時期には薩長盟約が成立していますから薩摩と長州は手を結んでいます。かつての盟友を薩摩は裏切っていたのですから会津が薩摩の動きを見て疑惑を持ったとしても何の不思議もありません。

 

 

それからしばらくして越前福井藩の松平春嶽が容保に会いに行き、容保の考えを聞く機会がありました。その折、容保は薩摩が幕府を困らせていることを批判しました。かねてより薩摩の動きを怪しいと思っていたところ、この度は長州再征の出兵を拒んできた。

といって今、出兵を強いたなら薩摩と会津の間で争いが起きかねず、そうなれば長州に有利な情勢になってしまいかねない。そこで春嶽にも下阪して尽力されたいと協力を求めています(春嶽は勝と同様、長州再征には反対ですから応じることはありません

また春嶽が勝のことを尋ねると容保からは勝を批判する言葉が飛び出しました。

容保は勝が、薩摩が兵を出さないのは尤もことであると主張したことに対し、「伊賀守(老中板倉勝静のこと)も勝には困り居る由なり」と語ったのでした(「続再夢紀事五」)

 

 

結局、勝の言葉は何一つ容保の胸に届いていなかったことになります。勝は容保を読み違え、説得は会津藩のトップの考えを変えることに何の効果も及ぼすことはなかったのでした。

 

 

【 説得失敗に気づく勝 】

 

さてもう一方の薩摩はどうなったでしょう。

勝が板倉老中から命じられたのは、薩摩が出兵拒否を撤回するよう仕向けることでした。ですがこちらも不首尾に終わりました。

出兵拒否の意見書の受け取りを幕府から拒まれた薩摩藩は、今度は「幕府に呈した趣意書を以って、御所(朝廷)へ差し出」しました。

薩摩側も幕府の中で話ができる相手は勝をおいて他にいないと見ていましたから勝の話には耳を傾けても、幕府の意向には従わないことを決めていました。そこで幕府にいくら物申しても埒が明かぬと考えた薩摩藩は朝廷に直接、長州再征に反対する意見を申し出ることにしたのです。

 

このように両藩の調停のため行動し説得に努めた勝でしたが、双方とも勝の説得に沿った動きを示すことはなく、努力は実りませんでした。7月14日の日記に「その意達せざるを知る」と記したのはそのことを認めた記述と思われますが、明治以降に語られたこの時期に関する談話には判断誤りを認める発言は見られません。それが意図的に行われたものか、それとも時間の経過により記憶が薄れたためであったかは定かでありません。

 

 

さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

 【参考文献】

 ・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

 ・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

 ・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「氷川清話」 勝海舟 江藤淳・松浦玲編 講談社学術文庫

 ・「海舟語録」 勝海舟 江藤淳・松浦玲編 講談社学術文庫

 ・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

 ・「勝海舟全集19 開国起源Ⅴ」 講談社

 ・「勝海舟全集18 海舟日記Ⅰ」 勁草書房 電子書籍

 ・「続再夢紀事 第五」国立国会図書館デジタルコレクション

  写真・画像:ウィキペディアより