こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。

 

 

【 勝・一翁の登用を画策する松平春嶽 】

 

まず登場する主要人物が、この時期(慶応元年12月から翌二年1月にかけて)、どこにいたのかを整理しておきましょう。

勝は江戸の自邸で閑職の身にあり、隠居中であった大久保一翁は急な召出しにより大坂に。二人の同志松平春嶽は国許の越前福井に。

長州再征のため江戸を発した将軍家茂と幕府首脳らは大坂城を拠点としていました。

朝廷との関係が深い一橋慶喜と松平容保は京にいますが、慶喜が大坂城に姿を現わすことや反対に在阪老中らが京の慶喜を訪ねることもありました。

 

 

松平春嶽の命を受けた中根雪江は京・大坂で幕府や薩摩の要人と会い、情報収集に務めながら政局の打開を図るための活動に専念していました。

中根は、老中小笠原長行(ながみち)に勝と大久保一翁の両名を幕政に起用すべきと進言しましたが、「同列へ申談すべし」とつれない返答のみ。提案に応じる様子はありません。中根は春嶽が「長州再征は幕府の為にならないものとして徹頭徹尾、中止」を望んでいると小笠原に強調するに留まりました。

 

その10日後(12月29日)、今度は慶喜との会見に臨んでいます。中根は、長州問題の処置が二百年有余続いた幕府の命脈が断たれるかどうかの境目となるとの春嶽の考えを伝えました。

先に長州との交渉を終え広島から戻った大目付永井尚志(なおゆき)の報告を受けた老中板倉勝静(かつきよ)や老中らは、長州に寛大な処分を課すことで幕引きを図ることを考えていました。幕府の現状を考えれば戦どころではないと判断していたからです。

一方、一会桑の三者(慶喜・容保・定敬)は、長州側の対応は誠意がなく幕府を侮るものとして再尋問の必要性を訴えたため在阪老中との間で意見が鋭く対立しました。

 

 

この時期、双方にとって気になる存在がありました。

薩摩藩です。薩摩は多くの強い兵を持ち軍備を充実させ、軍事力で諸藩を凌いでいました。

また積極的な政治活動で広く知られており、薩摩の意向が諸藩の動向にも影響を及ぼす状況にありました。幕府から見て薩摩は無視できない存在であるだけでなく油断ならない相手でした。

一方、越前福井藩は薩摩藩との関係が深く、互いに諸侯会議を結成し国の方針を決めて国難に対処しようとする政治構想を持つ藩としてこれまで同じ方向を目指してきました。両藩の協力により元治元年春、参与会議が開催されるに至りましたが、薩摩の幕政への関与を嫌う慶喜によりあえなくこの構想は潰されました。

 

 

両藩の深い関係を知る板倉・小笠原の両老中は、連名で春嶽宛の書簡を送り、薩摩が幕府に協力してくれるよう働きかけを依頼しました(12月5日付け)。また同じ日、慶喜も薩藩の小松帯刀を呼び、薩摩の考えを聞き出すことに努めています。今や政局がどう動くかは薩摩藩の動き次第という認識が広く浸透していました。

 

 

中根雪江が慶喜を訪ねた日、慶喜は浮かぬ顔をしていました。

長州問題について幕府の威光に拘れば事はうまく運ばず、といって事態収拾にばかり目を奪われると御威光に傷がつくかもしれないと、「殊の外(ことのほか)、困却の体」であったのです。

 

中根は慶喜に対してまたも勝・一翁両名の起用を進言しました。

旗本の中で大久保、勝の両人は、目下有志者の嘱望する所であるとし、「この両人を登用すればお苦しみは消えましょう。この人事が採用されたなら薩摩は幕府への信頼を回復し、これまでの警戒心をきっと解く。そうなれば長州は他藩の支持を失い、企てを改めざるを得なくなります」と説きました。

 

さらに春嶽が両人の登用を望んでおり、自身(中根)はその周旋を申しつけられたこと、また小笠原老中にもすでに申し上げていると伝えました。慶喜は小笠原から聞いていると述べ、「両人は技量ある人物なればご登用あってしかるべき」と返答しました。

また「従来の幕私を去り、百事公平を主と」されるようと春嶽から申しつけられていることを明らかにすると慶喜は、「御同意至極」と全面的に賛成するかのような返答をしています。ですがそれが慶喜の本心でなかったことは、やがて明らかになります。

 

 

薩摩藩指導者との会談に臨む中根 

 

こうして長州処分に関する方針が決定しないまま慶応元年は暮れていきました。年が明けた正月7日(慶応二年)、板倉・小笠原の両老中は京に向かいました。京で慶喜、容保らと協議を行うためです。

同月22日、幕府は長州処分に関する勅許を朝廷から得ました。

処分内容は十万石の没収、藩主父子の蟄居、相続は末家から選ぶというものでした。

 

同月23日、中根は薩摩の大久保一蔵(利通)に大坂で会い、時事問題を議論しています。

薩の大久保が中根に語ったのは、「幕府が決めた処分案の長州領の削地、藩主廃立については薩摩も同意である。ただしそれは条理あるものでなければならない。そうでなければ(薩藩として)異議を申し立てることになろう」というものでした。

また大久保は幕府の人事に注文を付けました。大久保(一翁)、勝の両氏を除いて幕府に人はいない。この両氏が登用されるか、されないかは天下の人心の向背に関係すると語りました。

 

 

(9月12日放送「青天を衝け」に登場した大久保一翁役の木場勝巳さん)

 

 

中根の活動は続きます。翌月1日、小松帯刀と京都で会っています。小松は、「防長二州の士民は容易に承伏しないだろう」との認識を示しました。征討についても、「今日は情勢が一変しているから一藩たりとも応じるとは思われない」との見通しを述べました。

 

また小松は、大久保一翁が召出されたことを知り、一翁のこの節の意見はどのようなものかと中根に尋ねました。

一翁は「公議会を開き、天下とともに天下を治むべしとの持論」に今も変わりがない。そう中根から聞かされた小松は、「(一翁の)持論を措いて他に良策はない。その論が行われるか否かは治乱の別れるところだ」と一翁を全面的支持する発言をしています。

さらに勝安房も召されるのかと尋ねる小松に、その件については詮議中のよしと中根は応じました。

小松は、「一翁・勝の両人に事を執らせたならば、天下はたちまち治安に帰すだろう。事を執らせるには直ちに閣老に登用されることを望むが、時運はいまだそんな英断が行われるに至っていないようだ」と大きな期待を寄せながらもその実現に至るには機が熟していないと悲観的な見方を表明しています。

 

 

このように越前福井・薩摩の両藩の指導者たちは、混迷する政局を打開するためには、閣老に代わり一翁と勝の両名を登用して幕府の政務を担当させるのが良策という見解で一致していました。ただ勝も一翁も旗本のため幕府の職制上、老中職に就くことはできません。

両者とも幕府内主流派への抵抗から嫌われ、左遷や罷免の憂き目に遭う立場に置かれていましたが、政局転換の切り札として有力諸藩から大きな期待が寄せられる存在と考えられていたことは明らかです。

 

ここでご注目いただきたいのは、小松が大久保一翁を高く評価していることです。勝は多くの薩摩人と交流があるため、双方とも相手のことをよく知る関係にありましたが、一翁は薩摩人との付き合いがありません。にもかかわらず、小松・西郷・大久保一蔵らから一翁は勝と並び、幕府側で唯一この国の未来を語りあうことができる人物として見られていたのです

 

 

さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

【 大久保一翁 「青天を衝け」に登場 

 先日から再開された大河ドラマ「青天を衝け」では、時代は明治となり慶喜が隠棲(いんせい)する静岡(駿府)が舞台となりました。当ブログではおなじみの大久保一翁(演じるのは木場勝巳さん)が駿府藩中老として初めての登場でした。この大河では勝と一翁の出番はないと思っていましたからちょっと意外な気がしました(笑)

 

勝海舟も静岡に移り住むのですが、このドラマでの出番はなさそうです。渋沢栄一は帰国後初めて勝と出会いますが、生涯勝に良い印象を持つことはなかったようです。

明治以降における徳川慶喜の静岡での長い隠棲の日々がドラマで描かれるのは、私が知る限り初めてです。弟の昭武とは明治においても交流が続くのですが、その辺りがドラマではどう描かれるか楽しみですね。

 

 

 【参考文献】

 ・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

 ・「大久保一翁」 松岡 英夫 中公新書

 ・「徳川慶喜」 家近 良樹 吉川弘文館

 ・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

 ・「続再夢紀事 第四・五」国立国会図書館デジタルコレクション

 写真・画像: NHK大河ドラマ「青天を衝け」より