こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。

いつもお読みいただきありがとうございます。

 

 

【 出陣中止表明の余波 】

 

前回の続きです。

慶応二年8月に入り、小倉城陥落の報せが届くと一橋慶喜は前日まで「長州大討込」と自ら称していた出陣を突然中止しました。幕府側の重要拠点が失われたことで勝算の見込みが立たなくなったからです。突然の中止命令に周囲で大混乱が生じました。幕府内は無論のこと、とりわけ会津藩では慶喜に不満を持つ藩士たちが怒りを爆発させました。そのため藩主松平容保は藩士たちから極めて激しい突き上げを食らう事態にまで発展しました。こうした動きは反対勢力の薩摩藩の注目を集めるほどであったらしく、当時の混乱の大きさがうかがい知れようというものです。

 

さて大討込をあきらめるしかなくなった当の慶喜はどうしたのでしょうか。慶喜は容保(京都守護職)、その弟の松平定敬(京都所司代)らと協議を行いましたが、容保は出陣を主張するばかりで中止を決めた慶喜とは議論がかみ合いません。

そこで慶喜は松平春嶽に救いを求めることにしました。慶喜は春嶽とは文久期以来、悉(ことごと)く政治路線で対立してきました。長州再征を進める慶喜に対し、春嶽は一貫して再征反対を唱えてきました。

ですが幕府側の九州での拠点が失われたと知り、形勢不利を悟った慶喜は春嶽に擦り寄ろうとしたのです。

こうしたことを抵抗もなくできてしまうのが一橋慶喜という人物が持つ不思議さです。皮肉な言い方になりますが、今まで自分が発言したことに手のひらを返すがごとく撤回し、全く違ったことを何の衒いも臆面もなく口にできる強みが一橋慶喜にはありました。

春嶽は長州問題を「公論」により決すべきと当初から唱えていましたが、慶喜までもその方針で行くと言い出したのです。見事と言うしかないほどの変わり身の早さでした。

 

 

【 松平春嶽が突き付けた七つの勧告 】

 

この時期、春嶽はまだ京都にいましたが、勝手に出陣準備を始めた慶喜への怒りから帰国しようと考えていました。その春嶽のところに慶喜から今後のことを相談したいので自邸までお越し願いたいと低姿勢での依頼がありました。さすがに春嶽も素直に応じる気にならなかったのでしょう。病気と称して二日続けて(8月11,12日)の慶喜の誘いに応じようとはしませんでした。

 

ですが慶喜の考えを変えさせる好機とすることができるかもしれないと考えた春嶽は、反正(正しい状態に返すの意)を求めるため以下の7項目を勧告すべき事項としてまとめ上げています。

 

  1.  将軍の喪を公表する

  2.  慶喜が徳川家を相続すること

  3.  幕府は今日より無きものと考えること

  4.  徳川家の従来の制度を改め、諸侯への命令は停止。尾張藩・紀州藩と同様の立場となること

  5.  所司代、守護職などの幕府が設置した機関の存続は叡慮(天皇の考え)により取り計らわれるべきこと

  6.  兵庫開港、外国交際、諸侯統轄、金銀貨幣他、天下の政一切を朝廷に返上すること

  7  開催した諸侯会議の衆議で慶喜が将軍職を引き受けることになっても政治制度は改めること

 

 

すでにおわかりのことと思いますが、この勧告は事実上「大政奉還」論です。文久期の幕政改革で政事総裁職に就任して以来、長年にわたり春嶽が唱え続けてきた議論です。それだけに強固な思想となるだけでなく、相当に整理された内容になっています。この二年後に坂本龍馬が打ち出す大政奉還のアイデアとほぼ同じ内容であることに歴史好きの読者ならお気づきのことでしょう。

 

 

(松平春嶽と一橋慶喜)

 

 

これまで慶喜はこの議論にこれまで耳を貸すことはありませんでした。ですが長州再征に大きくつまずいたことで今回は慶喜の方から相談したいと申し出てきました。救いを求められたことは春嶽にとっても大きな意味を持っていました。春嶽はこれまでに何度も自身の政治的理想を実現するために江戸や京を駆け回りましたがその都度、厚い壁に阻まれ続けてきました。ですがようやく理想を実現する機会が到来したとの期待感が春嶽の胸を大きく膨らませていました。詰まるところ春嶽の提案は、幕府は生まれ変わらねばならないという一点にあったからです

 

 

 

【 勝の起用を巡る春嶽と慶喜の思惑 】

 

8月13日、春嶽はこうした意図を込めた書簡を慶喜に送りました。その中で春嶽は、「将軍職は兼ての御決心の通り固くご辞退」されるよう念を押しています。

同じ13日、越前藩家老の本多修理が春嶽の命で板倉(勝静)老中を訪ね、会見しました。板倉は勢いづく長州兵の進軍を食い止めるための対策に頭を痛めていました。良い思案はないかと問われた本多は、「勅命を降せば事は簡単に収まるだろうが、万一、長州が勅命を奉じない場合も予め想定されるので、ここは薩摩に朝廷の用を務めさせるのが肝要」と答えました。そしてそのためには 勝、大久保一翁の両名を速やかに召し出すことが必要だとし、特に勝を使えば薩摩の疑惑を解くことはたやすく、薩摩の疑惑を解くことができれば「長州の気焔を挫く(くじく)は難事にあらざるべし」と勝の起用を強く勧めました

 

板倉は本多のこの意見をすぐに慶喜に伝えました。同日、本多は一橋邸に呼ばれ、そこで再度板倉に会いました。板倉からは慶喜が本多の意見に「ご満足の様子で採用あるべし」との言葉があったと知らされます。また勝の起用を考慮中だが、長州側の反応が読み切れないため苦慮していると述べました。

 

翌14日、春嶽は頃合いと判断したのか、ようやく慶喜邸を訪ねます。先に板倉に会い、勝のことを聞かされました。板倉が勝の話をしたところ「(慶喜は)初めの程は御不承知なりしが、詰まる所、御了解あり」となり、「(勝に対し)(すで)に召状を大坂に発したり」と告げられました。大坂城に詰めている勝を呼び出したのです。

 

どうやらこの頃から慶喜はこれまで遠ざけていた勝の起用を考え始めたようです。ただ慶喜は対長州戦の敗色が濃くなったため事態収拾を図る休戦交渉の使者として勝の起用を考えたに過ぎません。

これに対し春嶽は、今こそ幕府政治を一新することに取り組む最大の好機と捉えていました。そのため長州を動かすにはまず薩摩に働いてもらう必要があり、その薩摩を動かすには勝が持つ薩摩人脈が大いに役立つはず。勝は単なる休戦交渉の使者にとどまらず、幕府が政治を一新することを伝える幕府側の唯一の適任者であり、また重要な交渉人としての役割を果たしてもらわねばならない、と考えていました。

このように勝を起用する両者の考えにはかなり開きがありました。ですが、慶喜はそうした考えはおくびにも出さず春嶽との会見に臨みます。

 

 

 

【 春嶽と慶喜の会談 】

 

春嶽は口頭で先の七項目の考えを伝えました。

この時、慶喜は春嶽の提案を受け入れました。というか受け入れたような素振りを慶喜は見せました。そのことは後に明らかになります。

席上、長州との停戦交渉のための使者に勝を起用することが話題となりました。

慶喜は、板倉が勝を長州への使者に命じるよう勧めるのだが、「あなたはどう思うか」と春嶽に質問しています。

問われた春嶽は、「止戦交渉のお役目だけなら勝も全力を尽くすことはできないでしょう。勝は軍艦奉行職にあり、止戦は本来その職に就く者の任ではないと勝が考えたなら、命じても快くお受けするかどうかわからない」と返答しました。

 

前述したようにこの時点で慶喜はすでに勝に上京を命じています。長州に派遣する考えがあったからでしょう。にもかかわらず慶喜がこの問いを発した理由は何だったのでしょうか。迷いがあったのかもしれません。これまで勝を遠ざけてきたため自分に対し良い心証は持っていないだろう。であれば今回、長州への使いを命じたとしても自分への疑念から引き受けてくれないのではないかという思いが慶喜にはあったのかもしれません。

今や長州の背後に薩摩が控えていることは明らかでした。その薩摩へのパイプを持っているのは幕府内にあって勝一人のみ。

 

春嶽は慶喜に次のように伝えました。

「幕府中、薩の為に信を得たる者、(勝)安房に如くはなし」

薩摩から見て信頼のある幕府人は勝安房以外にはいないと明言したのです。その上で、

「あなた(慶喜)の心中を素直に勝に打ち明け、勝を通じて薩摩を説得することができれば長州は討伐することなく服することになりましょう」と答えました。

 

こうして勝を長州への使者として派遣することが決まりました。

呼び出しを受けた勝が慶喜邸に向かい、慶喜と面談したのは、8月16日夜になってからでした。

 

 

さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

【参考文献】

 ・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

 ・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

 ・「徳川慶喜」 松浦 玲 中公新書

 ・「徳川慶喜」 家近 良樹 吉川弘文館

 ・「江戸幕府崩壊」 家近良樹 講談社学術文庫

 ・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

 ・「勝海舟全集18 海舟日記Ⅰ」 勁草書房 電子書籍

 ・「続再夢紀事 第五」国立国会図書館デジタルコレクション

  写真・画像:ウィキペディアより