こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。

いつもお読みいただきありがとうございます。

 

 

【 新たな章の始まり 】

 

さて今回から章が改まります。

前章では主に薩長盟約が成立するまでの経緯を取り上げたため勝の弟子である坂本龍馬の行動を中心に話を進めました。師の勝がほとんど登場していませんでした。

弟子の活躍で盟約が成立したので、長い休暇中(?)の勝にここからは登場してもらうことにしましょう。新たな章においては勝が所属する徳川幕府がいよいよ瓦解への道を突き進んでいくことになります。

 

皮肉なことに勝がその生涯において最も活躍するのは、幕府が瓦解の一途を辿る時季と重なります。最終的には、二百六十年続くこの巨大な組織にどのような終幕を迎えさせるのか、その幕引き役の大任を勝は引き受けさせられます。それは勝が望んだ仕事ではなく、危険極まりない役目でした。

敵から狙われるだけならまだしも、味方ともいうべき徳川方からも憎悪と恨みの言葉を浴びせられます。どうにも割の合わない損な役回りです。命をいつ落としてもおかしくない日々の中で勝が何を考え、どのように行動したのか、そのことをお話していきます。

 

 

【 軍艦奉行に再任 】

 

先に軍艦奉行を罷免されて以来、勝が江戸の自邸で閑居していた月日はやがて一年半に及ぼうとしていました。そんなある日、何の前触れもなく勝は御城から呼び出しを受けます。久しぶりに登城すると軍艦奉行への再任と大坂行きを言い渡されました。慶応二年(1866年)5月28日のことです。

 

勝が大坂に向かうきっかけとなった長州再征の件について簡単に説明しておきましょう。同年1月22日、幕府は朝廷から長州処分に関する勅許を朝廷から得ました(この前日に薩長盟約が成立しています(22日という説もあり)

十万石の没収と藩主父子の蟄居を主な処分内容とする案で朝廷の許しを得た幕府は同月26日、老中小笠原長行に広島行きを命じました。翌2月4日出発し、7日に広島に到着した小笠原は、処分案を通告するため代表を呼び出します。ですが長州側が呼び出しに応じず、延期を何度も申し出ては幕府側を苛立たせました。長州ペースで交渉は進み、幕府が処分案を伝えたのは何と5月1日。このことからも長州藩がいかに幕府を侮っていたかがわかります。またこの頃の幕府の権威がどれほど地に落ちていたかを示す象徴的な出来事と言えます。

 

回答期限は5月21日でしたが、応じる気のない長州側はなおも延期を申し出ます。

5月中に返答がなければ戦端を開く決意を固めた幕府は、開戦日を6月5日と決定しました。すでに幕府との戦争を覚悟していた長州藩でしたが、少しでも準備のための時間稼ぐ必要がありました。幕府は長州の術中にまんまとはめられていました。

 

 

幕府は長州再征のため出兵するよう諸藩に命じていました。

4月14日、かねてより長州再征に反対を唱えていた薩摩藩は、大久保一蔵が大坂城で老中板倉勝静と対面し、幕府の出兵命令を拒否する文書を提出しました。薩摩藩が出兵しないとなれば幕府としては大いに困ることになります。薩摩に同調しようとする他藩への影響が計り知れないからです。そのことを恐れた板倉は懸命に翻意を促しますが、大久保が応じることはありません。こうして薩摩を説得するため薩摩人と広くつき合いがある勝が呼ばれることになったのです。

 

 

【 小栗忠順が打ち明けた最秘密の議 】

 

この日、江戸城に登城した勝は勘定奉行の小栗忠順(ただまさ)他二名に別室に招き入れられ、密談を持ち掛けられました。

対面すると小栗は自分の考えに勝が賛同するのが当然であるかのように話し始めました。

 

貴殿がこの度のお役目で大坂に出張すれば幕府のトップシークレットに関与することになるだろうから先にお伝えしておこう。これから話すことは幕府内でも一握りの者しか知らぬことなので左様心得られたいと極秘の決定事項と断った上で以下のことを明かしました。

 

 

(小栗忠順肖像 )

 

「貴殿も承知のように今は危急存亡の秋である。幕府はフランスに依頼して資金と軍艦数隻の提供をしてもらうことにした。到着次第、まず長州を追討し、次に薩摩も討滅する。さらに他の諸侯の領地も悉(ことごと)く削った後、郡県制を敷く。貴殿も幕臣だからきっと同意してくれるだろう」というもの。

勝は背中に冷たいものが走るのを感じながら小栗が語る構想に耳を傾けていました。この時、勝の頭に浮かんだ言葉は、「首根っこを押さえられてしまうぜ」であったでしょう。ですが何も口を挟まず、ただ聞くだけに留めました。今ここで口を開いて論争に及んでも時間のムダになるだけと考えたからです。

 

 

【 勝、小栗構想を厳しく批判 】

 

日記によると勝は6月10日に江戸を発ち、同月21日、大坂に到着しています。軍艦奉行に返り咲いた勝でしたが、この時は陸路で大坂に向かうしかなく、いわば「名ばかり軍艦奉行」に過ぎません。

翌22日、勝は大坂城で老中板倉勝静に対面します。その日の日記に、「登城、老中伊賀守(板倉勝静のこと)へ御逢。当時の猜疑然(しか)る可からざるを言上」とあります。

 

板倉としては小栗構想がその後、江戸城内でどのような議論に発展しているかを勝の口から直接確かめておきたかったのでしょう。ですがこの日の勝の日記には、「猶関東決議甚だ不可を云う」という簡単な記述しかありません。小栗の考えに反対する意見を述べたことだけはうかがい知ることができます。

 

勝がこの時、板倉に何を語ったかは明治になってまとめられた「開国起源」に示されています。

勝は江戸で口にしなかった考えを板倉に対し言上しました。

「郡県制の議は、今後世界との交際をしていくからには当然のことと承知する。だが徳川家のために他の諸侯を削小し、政権を握り天下に号令をかけるなどという考えは断然不可である。真に国のためにこの郡県の事業を成し遂げようとするなら、先ず(徳川)自ら倒れ、自ら削小して顧みず、賢明な人材を選出、有能な者を登用し、誠心誠意、天下に愧じることのない位置に立った後に成すべきこと。薩長を憎んで、打ち倒すことなどあってはならない。この考えをお取り上げいただくなら不肖の自分もその事業に微力を尽くす」所存。

 

 

勝の小栗構想への手厳しい批判は、勝の中で永年思索を重ねてきた確固とした政治思想に基づいています。同志ともいうべき松平春嶽、大久保一翁、横井小楠らと文久年間以来、幾度も議論し、今や「公共の政」という政治的理念は勝の中で深く根付いていました。その理念というのは、徳川家による支配体制を維持することを目的とした「私」の政治でなく、外様も譜代もなく政治的能力のある人材を登用した真の開かれた中央政府による「公」の政治でなければならない、というもの。

こうした発言は、今日の私たちの常識からすれば当然のことに思えるかもしれませんが、幕臣の立場にある勝がこうした言葉を口にするのは、命懸けの覚悟と勇気をを要するものであったことを理解する必要があります。

 

勝は、小栗構想は空議に過ぎず、このようなことを実行すれば幕府は天下の恨みを受け、至るところで災害が発生することは必定と批判しました。さらに勝は自説を上様の耳にも達するよう取り計らわれたい、そのために死を賜っても主張を引っ込めるつもりはないと「席を叩かん」ばかりの勢いで老中板倉に迫りました。

勝の激論を板倉は当惑して聞くしかなかったようです。いきり立つ勝を板倉は制し、「郡県の議は当面の急務ではなく、目下の課題は征長戦のこと」であると話題を転じました。

 

 

さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

【参考文献】

 ・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

 ・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

 ・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「氷川清話」 勝海舟 江藤淳・松浦玲編 講談社学術文庫

 ・「海舟語録」 勝海舟 江藤淳・松浦玲編 講談社学術文庫

 ・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

 ・「勝海舟全集19 開国起源Ⅴ」 講談社

 ・「勝海舟全集18 海舟日記Ⅰ」 勁草書房 電子書籍

 写真・画像: ウィキペディアより