こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路 貞善です。

いつもお読みいただきありがとうございます。

 

 

【 慶喜と対峙した勝 】

 

前回の続きです。

大阪にいた勝が京の一橋慶喜から上京を命じられた書状を受け取ったのは、慶応二年(1866年)8月14日夜のことでした。

通知する書面には「至急の御用の向きこれあり候間、不快に候とも押して上京致すべき」との一見強引にも思える文言が見えます。慶喜は自らの見込違いにより窮する立場に追い込まれました。そこで松平春嶽を頼ったところ、これまで遠ざけてきた勝を起用せざるを得なくなりました。そんな慶喜の複雑な心境がこの文言に現れているような気がしなくはありません。

翌朝、勝は夜明けると京に向け出立しています。

慶喜邸に到着したのは16日。夜に入ってようやく慶喜に会い、長州への密使を命じられます。

 

このとき勝は慶喜に長文の覚書を差し出し、長州藩との交渉の進め方と今後の方針に関して確認を求めています。この度の勝の役目と任務は、幕府側の密使として単身敵地に乗り込み、長州側に戦闘をやめるように命がけで説得することです。そのために慶喜の命により遣わされるのです。勝にすれば慶喜は変わり身が早く、何のためらいもなく前言を翻すところがあり、信頼に足るとはとても言い難い人物です。武力を行使して局面を乗り切ると宣言した慶喜に果たして本気で諸問題を「天下の公論」により決し、幕府政治の一新しようとする意思がありやなしや。また長州側に信用してもらうためには確たる約束をしなくてはならないが、本当に今回は慶喜が誠実に約束を守ろうとするだけの固い意思があるのかどうか。そのことを念押ししておく必要があったのです。

 

勝はこう考えていました。

幕府に対し優位に立つ長州側に幕府側から持ちかける交渉のテーブルについてもらうには、慶喜が今後の方針として「天下の公論御採用」を約束し、これまでの幕府のやり方を本気で改めるというメッセージを伝えなくてはならない。これに反すれば天下の目するところ曲直は判然とするため、慶喜としてはいささかも後世から道理から外れていると批判されるようなことはしないと誠実に交渉相手に約束する必要がある。このように長州側と話をつける予定ですが、慶喜公は意義を唱えないでしょうねと書面にして詰め寄ったのです。 

ここで勝が念を押した趣旨は、前回のブログ(第173話)でお話した松平春嶽が慶喜に示した勧告と同じものです。

 

勝にすれば泥沼状態に陥った長州再征を早く終結させ、幕府自ら政治体制を一新するための使命を全うするには、少なくともこれほどの覚悟を示さなくてはならないと強く感じたからでしょう。

勝が示した覚悟に対し、慶喜は自らの筆で付箋に「見込みの趣、尤(もっと)もに存じ候間、十分取り計らい申すべき事」と返答の言葉を書き与えました。微妙な言い回しながらも、勝の言い分を認めた恰好です。

 

勝と春嶽は、これまでも「公共の政」の実現に向けて同じ政治路線を推し進めようと努力を続けてきました。今回も原則的には変わりがないものの両者の長州に対する姿勢にはわずかな違いがあります。春嶽が長州問題を「天下の公論」でのみ決しようというのに対し、勝は交渉結果の次第が明らかになるまでは戦争の備えを緩めないよう求めています。長州が当方の主張に応じない場合には「曲直を以て御打ち入り」の手配をされたいと和戦両様の考えを慶喜に伝えています。交渉の当事者である勝としては死地に飛び込む者の覚悟を示したかったのかもしれません。

 

 

【 慶喜の方針転換を喜ぶ勝と春嶽 】

 

翌17日、勝は慶喜邸で春嶽と顔を合わせました。勝はたちまち満面の笑みを浮かべ声をひそめて「手の裏がかえり重畳恐悦なり」と慶喜が方針転換に踏み切ったことに心から喜びを表しています。「最早大路は開けたり。以後小路は如何様にもなるべし」とまるで大船に乗ったような楽観的な言葉を口にしました。勝は春嶽のこれまでの尽力に感謝の言葉を伝え、両者はようやく悲願が実現するかもしれぬ喜びに浸りました。

 

同日夜、春嶽は青山小三郎を勝の許へ遣わし面会させました。今回の芸州行きの次第を聞き出すためです。

勝は、慶喜の一番の腹心である原市之進(慶喜の側近)も「自己流にては到底天下を横行する事」は出来ないとわかったと見えて、諸侯会議の場において公議で決することに理解を示し、自分と同論になったと述べました。こうなったからには、慶喜公も恐らく手を返されることはあるまい。将来のことを案じても始まらないが、「今日は今日だけを安心すべきなり」とまたしても春嶽に伝えたのと同様に楽観的な見方を示しました。

 

(原 市之進)

 

さらに勝はこの度の芸州行きは極めて秘密を要するため、貴藩では春嶽公に本多修理(越前藩家老)、他一名のみ。幕府にあっては慶喜と板倉老中以外は知らないと語り、極秘の使命であると伝えました。

芸州藩到着後の行動については、吉川監物の家来となるわが門人を通じて、桂小五郎を呼び寄せ、説得する積りであると明かしました。

 

勝は桂を説得する趣旨として次のような内容を考えていました。

「長州再征は名義が立たないことを今や朝廷も幕府も了解しており、そのため将軍家茂の薨去(こうきょ)を機会に喪中止戦の勅書を下し、追って征討の可否は天下の諸侯を召集して公議に付すと決定した。

ついては長州側も公議が一定するまでの間、兵を国元へ引き上げ、情勢を静観されたい」

長州側が承知すれば、幕軍も速やかに解兵となるが、万一、不承知なら今度は長州側に曲があることになり、征討の名義が判然となるというもの。

 

また勝は、桂が説得の使者である自分を斬るか、捕らえたなら不義は長州にあり、たとえ非業の死を遂げたとしても犬死ではなく征討の名義が立つので「頗(すこぶ)る愉快なり」と考え、命を抛(なげう)つ決心をしたと語りました。「今日が永訣とならんも知るべからずと涙を含みて語り」と記録にはあります(続再夢記事五)。いささか芝居じみた感がなくもありませんが、この時点でも勝が長州との一戦を視野に入れていたのは少し意外な気がします。

 

 

さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

・「徳川慶喜」 松浦 玲 中公新書

・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

・「勝海舟全集18 海舟日記Ⅰ」 勁草書房 電子書籍

・「続再夢紀事 第五」国立国会図書館デジタルコレクション

 写真・画像:ウィキペディアより