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講義中にお話した、平成18年度問題5について、当時アップしたブログの記事を再
掲載しておきます。
以下、再掲載部分
平成18年度の本試験問題は、問題5と問題31の正解が受験指導校の間でまだ割
れていますね。
問題5について、合格コーチとしては、誰も主張していない肢3が誤りだと考えて
います。
ほとんどの受験指導校が、肢4あるいは肢5を誤りとしている中で、肢3を誤りと
主張することは、とても勇気のいることです。
「地球は回っている」と主張したガリレオの気持ちがよくわかる気がします。
最高裁は、レペタ訴訟の中で、「筆記行為は、さまざまな意見、知識、情報に接し、
これを摂取することを補助するものとしてなされる限り、憲法21条の規定の精神に
照らして尊重されるべきである」と判示しています。
これに対して、取材行為については、「憲法21条の規定に照らし、十分尊重に値
する」と判示しています。
つまり、判例の考え方では、筆記行為と取材行為とでは、その保障の程度が少し
違うということです。
この点について、行政書士試験の試験委員でもある林教授も共著となっている
「憲法学の現代的論点」p368には、次のような記載があります。
おそらく、この本を読んで解答しているのは、日本中で合格コーチだけだと思いま
す。
『「尊重されるべきである」とするレペタ訴訟判決と、「十分尊重に値する」という
博多駅事件決定とは、どう違うのか。
文言を素直に受けとめる限り、「十分尊重に値する」自由の方が、「尊重されるべ
き」自由より、憲法上の尊重の度合いが高いといえる。中略
では、どうして尊重の度合いの較差が出てくるのだろうか。
博多駅事件決定において、最高裁が、「報道機関の報道は、民主主義社会にお
いて、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の「知る
権利」に奉仕するものである」と論じていることが想起される。
これに鑑みれば、手続主義的に捉えた自己統治の価値が関係してくるといえる。
個人のメモの自由より報道機関の自由の方が、自己統治の価値に緊密に結び
つく、ゆえに、より尊重に値するというわけであろう』
したがって、この部分を読む限り、肢3の「憲法21条の規定に照らして十分尊重
に値する」という部分は、判例の採っている考え方として誤ったものとなります。
「尊重されるべきである」という判旨を、わざわざ「十分尊重に値する」というよ
うに書き換えているわけですから。
また、問題5の問題文(柱書)との関連でいえば、問題文に掲げられている判例
は、「政治的意見の表明」とあるように、純然たる意見表明ではない行為の自己
統治の価値に関する判例です。
しかし、肢1~肢5のうち、肢3の筆記行為だけが、自己統治の価値よりも自己実
現の価値に重きが置かれている判例となっており、1つだけ方向性が異なってい
ます。
もっとも、上記の見解は、あくまで合格コーチの個人的見解です。
試験委員がこの部分を読んで問題を作成したかは不明ですし、1月29日の正解発
表があるまでは、正解は誰にもわかりません。
以上です。
もちろん、1月29日の正解発表では、正解は「3」でした。
この問題では、試験委員は、表現の自由の価値、すなわち、自己統治の価値と自
己実現の価値の違いという「視点」(切り口)から問題を作成しています。
表現の自由の2つの価値、基本中の基本です。
この「視点」が頭に思い浮かばなければ、正解を導くことは難しいですが、こういう
「視点」は事前に準備することができます。
本試験では、基礎力とこの「視点」を前提にして、本試験現場での応用力(法的思
考力)を問うています。
いきなり、基礎→応用と言っても難しいですから、基礎と応用をブリッジするような
「視点」(切り口)が重要になってきます。
平成22年度、平成25年度にも、表現の自由の価値、すなわち、自己統治の価値と
自己実現の価値の違いという、平成18年度問題5と、全く同じ「視点」の問題が出
題されました。
おそらく、この「視点」に気づいた方は、答えが浮き出ていたのに対して、「視点」に
気づかなかった方は、かなりの難問、あるいは、捨て問になってしまったかもしれ
ません。
「視点」とは、問題を解く際の隠れた「ヒント」です。
最近の憲法の本試験問題は、単に、判例のサビの部分と結論を記憶しただけでは
なかなか得点できない問題となっています。
受講生の皆さんは、今回講義の中でお話した、いくつかの「視点」を、是非とも「ア
タマ」の中に入れておいてください。
それにしても、平成18年度と平成25年度の問題は、とても似ていますね。
平成18年度の問題。
問題2 次の文章は、表現と行為の関係に言及した、ある最高裁判所判決の一節
である。これを読み、同様に純然たる意見表明ではない各種の行為に対して、判例
が採っている考え方として誤っているものは、次の1~5のうちどれか。
憲法21条の保障する表現の自由は、民主主義国家の政治的基盤をなし、国民の基
本的人権のうちでもとりわけ重要なものであり、法律によつてもみだりに制限するこ
とができないものである。そして、およそ政治的行為は、行動としての面をもつほか
に、政治的意見の表明としての面をも有するものであるから、その限りにおいて、憲
法21条による保障を受けるものであることも、明らかである。
3 一人の筆記行為の自由について、それが、さまざまな意見、知識、情報に接し、
これを摂取することを補助するものとしてなされる限り、憲法21条の規定の精神に照
らして十分尊重に値するが、表現の自由そのものとは異なるため、その制限や禁止
に対し、表現の自由の場合と同等の厳格な基準は要求されない。
5 報道機関の報道が正しい内容をもつためには、報道のための取材行為も、憲法
21条の規定の精神に照らし、十分尊重に値するから、報道の公共性や取材の自由
への配慮から、司法記者クラブ所属の報道機関の記者に対してのみ法廷において
メモを取とを許可することも、合理性を欠く措置とはいえない。
平成25年度の問題
問題3 次の1~5は、法廷内における傍聴人のメモ採取を禁止することが憲法に
違反しないかが争われた事件の最高裁判所判決に関する文章である。判決の趣旨
と異なるものはどれか。
1 報道機関の取材の自由は憲法21条1項の規定の保障の下にあることはいうまで
もないが、この自由は他の国民一般にも平等に保障されるものであり、司法記者クラ
ブ所属の報道機関の記者に対してのみ法廷内でのメモ採取を許可することが許され
るかは、それが表現の自由に関わることに鑑みても、法の下の平等との関係で慎重
な審査を必要とする。
4 さまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取することを補助するものとしてな
される限り、筆記行為の自由は、憲法21条1項の規定の精神に照らして尊重される
べきであるが、これは憲法21条1項の規定によって直接保障される表現の自由その
ものとは異なるから、その制限又は禁止には、表現の自由に制約を加える場合に一
般に必要とされる厳格な基準が要求されるものではない。
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