◆ 丹後の原像【17. 「丹後國一宮深秘」 (大意 ~その6)】



 「丹後國一宮深秘」という室町時代に著されたと考えられる、智海という社僧が興した海部家(籠神社社家)代々の秘蔵書。

今回はその書の大意を掲載する第6回目、そして最終回。
どうやら「付記」といった内容のようです。


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一、 当社造替の事 三十年に一度は必ず行われています。養老年中(717~724年)より二十数回。その後の二回を過ぎると六十余年に及び造替はなされていません。今 [元弘年中(1331~1334年)天下に申し上げました] その解状には「建保二年(1214年)三月二十日に将軍家に御下文出され、造営要脚一万余貫を国々に要請し、造替されることになりました。同三年二月二十七日遷宮を終えました」とあります。
次に貞応元年(1222年)四月七日、関東(鎌倉幕府)に造替の御教書を出され、元仁元年(1224年)八月二十七日に遷宮を終えました。
次に文永五年(1268年)十二月二十三日に関東に造替の御教書を出され、同十年八月二十一日に遷宮を終えました。
嘉元元年(1303年)十一月二十日、また延慶三年(1310年)七月●日に院宣が出され催促されました。ところが関東の御下知が無かったことにより、地頭や御家人らの武威を楯にし叶いません。何とかしようと解状を捧げ何度も訴えましたが、国衙の怠慢のせいで六十余年の春秋が過ぎ、神殿は甚だしく老朽化が進んでしまいました。神慮は量り難し。



【ちょっと一服して補足を…】

籠神社の造替のことについて書かれています。奈良時代始めより頻繁に行われていますが、鎌倉末期に60年以上も行われなかったようです。動乱期のせいでしょうか。

当時の社殿の建築様式は分かりかねますが、例えば茅葺きであれば20年ほどで傷み始めると聞いたこともあります。60年以上ともなると、それはもう…。


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一宮 大乗院家の事

夢想によって、長録三年(1459年)卯己より文明五年(1473年)癸巳に至る15年間、代理として義直朝臣大檀那(※)をもって、御子孫繁昌家運長久、国家豊饒の御祈祷を致しました。長期間に渡り不動護摩供、不動尊金色座像(三尺七寸)、二童子(三尺三寸)、不動尊の心に行基菩薩の作品を籠め奉りました。これは源義直の御守仏です。(長さ五寸の不動、二童子有り)、三間四面の堂舎、五間六間の坊一宇(※)、新たに建立しました。仏具両界本尊絵等がここに在ります。そうすれば私の祖師仏法証明山田權介御先祖を頼み申し上げるに、今また權介通忠朝臣が末代仏法証明のために頼み奉るところが本当のところ。末世においては弟子や門徒といっても破戒無懺の僧は禁制であるべきです。他山の客僧であるといっても持会器用(戒律を保っていく)には、精進波羅蜜の行をもって命じられるべきなのです。同時に国土安寧、同時に御神法楽、すべて諸人の願望を乞請成さんがための申状は大体このようなことです。

文明五年(1473年)癸巳八月時正(※)
本願法印智海(花押)



【補足】

◎義直とは後に出てくる源義直のことであろうと思うのですが不明。

◎「一宇」とは一軒のこと。「時正」とは昼と夜の長さが同じになる日のこと、ここでは秋分の日のこと。



以上で 「丹後國一宮深秘」をすべて訳し終えました。仏教関係者ならもう少し楽にできたのでしょうが。

ところどころ完璧に訳しきれていない箇所もあります。大勢には影響の無いところとしてご理解頂けるとさいわいです。O型的な手抜きと言えなくもないですが。

次回以降のテーマは模索中、何にしようかな~と。長らく丹後に行けてないし、行ける日が来るのかどうかも分からんし…といったところですが。