James Setouchi

2924.10.1

 

  源信『往生要集』(講談社学術文庫に川崎庸之・秋山虔らの訳がある)

 

1 源信 942~1017(前号で道元=自力聖道門を紹介したので、今回は他力浄土門から源信を紹介する。)

 

 大和国葛城(かつらぎ)郡当麻(たいま)郷出身。父は卜部(うらべ)氏、母は清原氏。姉妹の一人に安養尼願証(953~1034)がいる。比叡山に登り出家。良源(912~985)(天台座主、慈恵大僧正)に学び慶滋保胤(よししげのやすたね)(?~1002)(『日本往生極楽記』の著者)らと交わったと言われる。比叡山(天台宗)の学僧として、浄土門信仰を深めた。『四相違略注釈』『阿弥陀仏白毫観法』『往生要集』『観心略要集』『阿弥陀経略記』などを著した。空也上人(903~972)(市の聖)より少しあと、法然上人(1133~1212)よりも前の人である。源(多田)満仲(清和源氏)や余五将軍平維茂(これもち)らも源信に帰依したと言われているが、史実かどうかは分からない。藤原道長や花山院天皇も同時代である。(講談社学術文庫の川崎庸之の解説による。)

 

2 『往生要集』 コメントを入れつつ紹介する。

 源信が四十代の時の著作。永観2(984)年~3年に天台山延暦寺首楞厳院(しゅりょうごんいん)において撰集した、と巻末にある。通俗的な紹介書に、「最初に地獄のひどいありさまをこれでもかこれでもかと書き、次に極楽浄土は穏やかなよいところと書いてある」などと紹介してあるが、それだけではなく、念仏の方法、それを助ける方法、念仏という方法をなぜ採用するのか、種々のお経や論考の章句を突き合わせての疑義とこれに対する応答などに多くのページを割いている。

 

1 厭離穢土(おんりえど):①地獄の恐ろしいさまを描く。あまりにも恐ろしいので略。②餓鬼道の恐ろしい様子も描く。略。③畜生道④阿修羅(あしゅら)道も、生まれ変わりたくはないところだ。⑤人道は、「不浄」「苦」「無常」と描写される。→決して人生肯定的ではない。が「人生は不浄で苦に満ち無常だ」と言われれば確かにそういう面もある。⑥天道ならいいかと言うと、最初は快楽に満ちているが最後は救われない。→これは現代の物質文明に溺れた生活のことを言っているかのようだ。

 

2 欣求浄土(ごんぐじょうど):阿弥陀如来、観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)、大勢至(だいせいし)菩薩らが迎えに来て、喜びのうちに我々は西方極楽浄土に生まれ変わる。身は紫金色となり厳かに飾られる。神通力を得、無数の仏の国を自在に往来できる。国土は限りなく美しい。そこに縁ある者を意のままに連れてくる。多くの菩薩に会える。仏の教えを親しく聞くことができる。そしてその後には必ず自分も仏となり多くの衆生(しゅじょう)を救済できるのだ。→まことにありがたい場所ではないか。なお三河地方岡崎の徳川家康ゆかりの小学校では運動会で児童会長か体育委員長かが「厭離穢土、欣求浄土!」と叫んで指揮をとっていた。家康は阿弥陀如来を信仰し、この言葉を旗印の言葉にしていた。

 

3 極楽の証拠:天台大師はじめ多くの先達(せんだつ)が極楽浄土への往生を薦めている。懐感禅師(善導和尚の弟子)は弥勒(みろく)菩薩の兜率天(とそつてん)と阿弥陀如来の極楽浄土を比較し極楽浄土を勧めている。

 

4 正修念仏:礼拝、讃嘆、作願(さがん)、観察、回向(えこう)という五種の行がある。例えば作願では①衆生(しゅじょう)を救う②煩悩(ぼんのう)を断つ③教法を知る④悟りを得て衆生を救う、という四つの誓願を持つ、→念仏について、「悪を行っておいて、念仏一つで帳消しにして(ちょうど自販機にコインを入れてジュースを出すように)、また悪を行おうとする人がいたらどうするか?」という問いを立てる場合があるが、実はその問いは誤りで、念仏の時には四つの誓願を込めて念仏をする、ということなのだろう。

 

5 助念の方法:念仏を助ける各種の方法について述べる。修行の心得としては①至誠心(しじょうしん)②深く信ずる心③回向発願心(えこうほつがんしん)が大切だと『観無量寿経』にある。

 

6 別時念仏:日常とは別に時を限った念仏の行、および臨終時の念仏について述べる。

 

7 念仏の利益:①滅罪生善②冥徳護持③現身見仏④当来の勝利⑤弥陀を念ずる特別の利益⑥引例勧信⑦悪道に落ちた者も利益を受ける

 

8 念仏の証拠:各種の経典を根拠として引き、念仏による極楽往生を勧める。

 

9 往生の諸行:極楽往生のための行は念仏ばかりではない。仏と僧に施しをする、父母に孝養するなどなども良い行いではある。→ほかの行を一切捨ててはいない。比叡山(天台宗)の正統的な教えの上に源信は立っているということだろう。

 

10 問答料簡:教理上の疑義を質す。道綽・善導・懐感など中国浄土門の先達の言葉を多く引いている。

 

→①この世を相対化している。阿弥陀仏の圧倒的な力、極楽浄土の圧倒的な魅力の前に、この世の問題は些細なこととなる。だからこの世を改革する努力はしないのか? と言うとそうではない。今抑圧され絶望している人にとって希望になったとは言える。

 

②先行するお経や論考にこう書いてあるからこうだ、という考察をしている。先行するお経や論考が正しい保証はない、というのが近代科学の立場だ。が、これは壮大な信仰(信心)告白の書だと読めば筋が通る。偉大な阿弥陀如来と極楽浄土を讃える書なのだ。

 

③大宋国に帰国する人を通じ中国にも伝えた、と巻末にある。インド・西域・中国・日本と国境を越え人類普遍的な問いを立てて人間の救済を考えようとしている。源信だけではなく法然・親鸞や道元らも当然そうだ。日本史で出てくる名前だが、グローバルな教養を持った「グローバル人材」なのだ。スケールがでかい。

 

④比叡山天台宗の枠組みの中にありつつも

 

⑤法然『選択本願念仏集』にも似た文言が沢山ある。法然・親鸞の先駆ではある。(道綽・善導・懐感、あるいは日本の空也と源信と法然・親鸞の共通点と差異点など、細かい教理の違いについてはひとまず措く。

 

⑥信仰(信心)の目から見た時、道綽も善導も懐感も空也・源信以下法然・親鸞らも、向かうところ最後は一つなのだろう。法然上人は「余計なことを考えず念仏して浄土にすくい取られるようにしなさい」と教えた(『一枚起請文』)。(H31.2.4)