James Setouchi
2025.4.10
小林照幸『ひめゆり 沖縄からのメッセージ』角川文庫 2010年
殉国(じゅんこく=国に殉ずる、国のために命を投げ出す)の美談ではない
1 小林照幸(1968年~) 著述家。長野県生まれ。一時明治薬科大に学ぶ。信州大経済学部卒。著書『毒蛇』『闘牛の島』『朱鷺(とき)の遺言』『21世紀のひめゆり』『車いすラッキー』など。(各社のサイトなどから)
2 『ひめゆり 沖縄からのメッセージ』(毎日新聞社『21世紀のひめゆり』2002年発行、を再編集、加筆・修正したもの)
・読みやすい文体で書いてあるが、内容は内容だけにハードで、読み応えがある。自分の勉強不足を感じた。
・戦前・戦中から戦後2002年までの沖縄について学べる。2002年以降については「文庫版あとがき」(2010年)に少し言及がある。2011年以降については記述がない。が、2002年までについてはかなり学べる。皆が読むといい本だと私は思った。
・以下、内容の紹介をしながら私(JS)の感想を書きます。
・ひめゆり学徒隊に参加し過酷な戦場を経験し辛うじて生き延びて語り部をしている宮城(兼城)喜久子さんと、沖縄戦記録フィルムの「1フィートフィルム運動」に関わった中村文子(仲村渠文=なかんだかりあや)さんを中心に、彼女たちの戦争体験、戦後の歴史と国際政治情勢の中での動きと切なる願いを描く。戦後の沖縄が基地と共にある現実、その中で沖縄の人びとがどういう思いで暮らしてきたか、がよくわかる。
・ひめゆりを殉国(じゅんこく)の美談にしてはならない、と語り手たちは言う。・・その通りだ、と感じた。「彼女たちは国のためにこんなにも頑張って立派に死んでいった、だからこれからの若者も国のために死ぬべきだ」、ということにしてはならない。
・「ひめゆり部隊」ではない。兵隊と共にいたが武器を取って戦う部隊ではなく、あくまで看護その他をする「ひめゆり学徒隊」だった。
・「ひめゆり」という学校はない。沖縄第一高女と沖縄師範学校女子部を会わせて「ひめゆり」と呼んだ。13歳から18歳くらいまでの少女たちが過酷な沖縄戦で従軍看護師として働き、悲惨な目に遭い、多く死んでいった。
・子どものときは何も分からず国民学校で皇民化教育のなすままに「ちゃんころをたくさん殺して下さい」などと兵隊への慰問文に書いた。
・1945(昭和20)年の3月23日、沖縄は米軍から大変な空襲を受けた。ひめゆり学園の240名(うち教師18人)は校長に激励されて学園を出て南風原(はえばる)の沖縄陸軍病院に動員された。(この動員の法的根拠は、実はなかった。)うち136人(うち教師13人)が亡くなった。それ以外にも一高女・女師関係で他の場所に配属され
死亡した者が91名。計227名。中には13、14歳の者もあった。
・南風原陸軍病院で卒業式をした。卒業式で歌った歌は『海ゆかば』だった。・・これは酷(ひど)い。十代の少女たちを洗脳して「大君の辺にこそ死なめ」と卒業式で歌わせたのだ。
・4月1日米軍が沖縄本島に上陸。病院の壕には沢山の負傷兵が運び込まれた。「学生さーん、水下さーい」と言いながら血まみれの兵隊が死んでいく。傷口に蠅が卵を産み付けウジが湧き傷口を食べる(食べる音がする)。手足が腐った兵士の切断手術の体を押さえつける手伝いをした。麻酔は不足した。生理も止まった。
・米軍が首里に迫り、日本軍は南下、自分たちも南部に撤退を命じられた。動けない兵士には青酸カリ入りのミルクが配られたそうだ。
・6月18日突如「ひめゆり学徒隊解散命令」が出た。必死の逃走をしたが、米軍の総攻撃下、南に逃げる間の5日間でひめゆり学徒隊の117名が死んだ。海岸に辿り着き手榴弾で自決しようとした。先生も友人も死んだが自分は生き残った。投降しようとする日本兵を日本兵が後ろから射殺した。・・日本人を日本人が殺したのが沖縄戦だ。
・助けられ収容所に入った。沖縄本島の中部以北が焼けていないので驚いた。子供たちは米兵にチョコレートやチューインガムを貰った。喜久子は師範学校出身なので子供たちに青空教室で勉強を教えた。8月、家族に再会できた。母は抱きつき「生きていた! 生きていた!」と泣いた。5ヶ月近くも着ていた兵隊服を脱いだ。
・戦前(明治以降)は「皇民化教育」により方言は禁止、「風俗改良運動」と称して沖縄的な名前を大和風にする(仲村→中村、安慶名→安田など)、「御獄(うたき)」の入口に鳥居を立てる、天皇陛下を讃える歌を歌う、などが行われた。沖縄は経済的に貧しく南米やサイパンへの移住も多かった。ソテツを食べ中毒死する人も続出。
・戦後はアメリカの軍政下に置かれた。初代琉球民政長官はマッカーサー。通貨は「B円」だった(1958年9月からドル)。「土一升・弾一升・骨一升」と言われるほど、兵器や弾薬の残骸が転がり、人の骨も未回収で散らばっていた。
・1950年沖縄群島政府発足、のち琉球臨時中央政府と改称、1951年4月1日に琉球政府発足。行政主席は親米派の比嘉秀平が任命された(公選ではなかった)。アメリカの琉球列島米国民政府(USCAR)の高等弁務官の支配に服していた。
・1952年4月28日発効のサンフランシスコ講和条約と日米安保条約は、日本にとっては独立・国際社会復帰の日だが、沖縄にとっては「屈辱の日」となった。沖縄は日本から切り離されたからだ。
・1953年に映画『ひめゆりの塔』(主演香川京子)が大反響を呼んだが、喜久子たち多くの生存者は辛くて見ることができない。殉国を美化していることにも疑問を抱いた。高名な大宅壮一の沖縄理解にも違和感を感じた。
・米軍機の事故など、基地ゆえの事故や事件が多発した。沖縄の人は、「日本国には平和憲法がある、はやく日本に復帰したい」と熱望した。(下の注参照)
・他方、基地があるゆえに経済が潤う面もあり、沖縄の人にとっては難しい問題であり続けた。選挙でも保守と革新が交代で勝った。
・1972(昭和47)年5月15日に日本に返還。米軍基地は残った。基地を残したままの返還に反対する人びともあった。(1971年の11・11ゼネストでは10万人以上が参加。与儀公園に6万人が集まった。)通貨は円になった。祖国復帰を記念して、植樹祭、特別国体(若夏国体)、海洋博が実施されることになった。
・映画『ああひめゆりの塔』(主演吉永小百合)は1968年、『ひめゆりの塔』(主演栗原小巻)は1982年。いずれも有名になったが、実際の経験者から見れば、脚色があり事実と違う部分も多かった。曽野綾子の本『生贄の島』(1970年)も作者の意図が反映する「作品」であり、取材された側から見ると違和感があった。生存者たちが自分たちで証言していく動機の一つとなった。
・米軍が撮影した沖縄戦のフィルムがアメリカにあった。仲宗根政善らが運動し、1フィート100円で頒布して貰えるので、「1フィート運動」として募金を集めて購入し、1984年上映会を開いた。沖縄の住民たちは「あれは父ちゃんだッ!」「あっ、じいちゃんだ!」「チヨちゃんだ!」と涙を流した。これをベースにして記録映画『沖縄戦・未来への証言』(英語版も)を作り、各地で上映会をした。1987年にはリマ(南米)、1988年にはNY、SF、LA、ハワイの沖縄県人会などでも上映、共感を呼んだ。
・有名な「白旗の少女」比嘉富子(ガマから救出された6歳の少女)が生きていた。それを撮影したカメラマン、ヘンドリックソン氏とも対面した。ヘンドリックソン氏は沖縄を訪れ、摩文仁のサンゴ礁の海を見て言った。「あのとき、この海は血で真っ赤だったのに・・・」と言った。・・・私(JS)はこの言葉に強烈な印象を受けた。本来青く美しいはずの海が、赤く血で染まっていた。ヘンドリック氏の見た沖縄の海は赤い血の色だったのだ。
・ひめゆりの同窓生たちは、お金を出し合って、「ひめゆり平和記念資料館」を作った。「ひめゆりの塔」に隣接している。他の人の資金をもらわず、自分たちだけのお金で建てたので、他の誰からも注文をつけられることではなかった。(ヒロシマの原爆資料館などは市の資金が潤沢に入っている。)
・その記念資料館で喜久子らは語り部として戦時中の証言をしている。修学旅行生たちが多数来館し、ナマの声を聞いていく。反響は大きい。語り部が高齢化してので、ビデオに残すなどをしている。一方で観光資源化していくことに違和感を感じつつ、それでも確かな手応えを感じて戦争体験を語っている。
・普天間基地の移転問題などについても記述があるが、ここでは略。
・金沢の護国神社に「大東亜聖戦碑」を建てた人びとが、ひめゆりと鉄血勤王隊の名を勝手に使った。そこには殉国美化の思想があったので、ひめゆり同窓会は建立委員会に遺憾の意を示す文書を郵送した。鉄血勤皇隊の生き残りの男性は「・・許せない。・・学業を続けたかった。国のために喜んで戦った、ということではない」とコメントを寄せた。ひめゆりの生存者たちは北陸中日新聞社に「・・・『敵に捕らわれることは日本人の最たる恥』と教育され、・・十代の女の子をそこまで追い詰めたあの戦争を心から憎み続けます。/『聖戦』だったでしょうか。人間が人間でなくなる戦争の残酷さを身をもって知った私たち。一番恐れるものは殉国美化の思想です。・・」と書き送り、掲載された(2001年3月23日)。
・日本における米軍専用施設の75%が沖縄県にある(本文による。県のサイトでは「7割」)。米軍基地は沖縄県土の11%にあたる。沖縄本島のみでは20%が米軍専用施設だ。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争・・と戦争は続く。爆音を立てて米軍機が飛び立つ。演習では大量の砲弾が使われる。米兵は町にあふれる。公害、事故や事件の基地被害も多い。他方、基地を観光資源とする、基地で仕事を貰う、軍用地に貸し出し地代収入で潤う県民もある。また返還された基地跡地に商業施設を作り成功している事例もある。基地経済への依存度は復帰当時は15%だったが執筆当時(2001年)5%。米軍の駐留費の70%(本書執筆当時)を日本政府が「思いやり予算」でまかなう。基地問題は沖縄にとって非常に難しい問題だ。本書は戦中のひめゆりのリアルな体験を出発点に、戦後の沖縄(と日本)の困難な進みゆきを視座に入れ、それでも平和を求め体験を語り続ける喜久子たちの生き様と切なる祈りを描いている。読み応えのある良い本だ。皆様に読んでほしいと思います。
・喜久子さんの歌を一つ紹介します。「それほどに 戦がしたい 男らよ 子を産んでみよ 死ねと言えるか」
私見ですが、女にも無責任に戦争を煽る人がいます。自分は戦場に行かない(他の人を行かせればいい)と思っているからでしょう。男も戦争何か絶対いやだ、という人が多いと私は思います。戦争を煽る人から順番に前線に出て貰う、という法律を作ってはどうでしょうか・・・あの国でもその国でもそう決めたらいいですね・・
(下注) 米軍基地関係の事故・事件:
一部でしかないが、取り急ぎ本書に記してあるものをいくつか列挙する。
1958年、小学校に空軍のジェット機が墜落、児童11人を含んだ17人が死亡、
121人が全身大火傷などの重軽傷。
1959年、スクラップ拾いをしていた農夫を米兵軍曹が射殺。
1961年、伊江島でスクラップ拾いをしていた20歳の青年を射殺。
同年、久米島に軍用ジェット機が墜落、民家が大破、二人死亡、4人重軽傷。
1963年、男子中学生を米軍トラックがはねた。
同年、22歳の女性が米海軍兵により絞殺。
1964年、米軍の爆弾が民家に落下。
同年、小学校の校門付近に小型爆弾が落下して爆発。
同年、米軍ヘリからトレーラーが落下して女児が下敷きになって死亡。
1965年、艦載機スカイホークが沖永良部島東方に水爆を搭載したまま水没し未回
収(発覚は1979年)。
1968年、B52戦略爆撃機が嘉手納基地に墜落、大爆発を起こした。150メート
ルのところに知花弾薬貯蔵庫があり、核兵器が貯蔵されているという噂も
あった。
1969年、知花弾薬貯蔵庫から毒ガス「サリン」が漏れた。
事件や事故はあるいは隠蔽され、あるいは日本の警察では手の出せないところに行った。沖縄県民は怒り、悲しんだ。
これらはほんの一部である。70年代以降も事故や事件は続いている。
沖縄県のサイトによると、
1995年、小学生が米兵3人に暴行される。
2004年、海兵隊のヘリが沖縄国際大学に墜落、炎上。
2016年、オスプレイが名護市の集落の近くに墜落。また、米軍属が女性を強姦し死亡させる。
2017年、大型ヘリの窓枠が小学校の校庭に落下。
2019年、海軍兵が女性を殺害し自殺。
最近覚えているニュスでは、
2023年、米空軍兵が16歳の少女を暴行。(24年12月に沖縄地裁で懲役5年の判決)
琉球新報のサイトを見ると、交通事故や窃盗などまで合わせると、米軍関係による事故や事件は数え切れないほどある。うううむ・・
*言うまでもないが、A国の軍隊でなくB国の軍隊やC国の軍隊であれば事故や事件がないか、と言えば、そうは言えない。自衛隊であればよいか、と言うと、戦前の日本軍が沖縄の住民にひどいことをしたので、これもいいとは言い切れない。(今の自衛隊が災害救助に尽力して感謝されているのは言うまでもないこととして。)狭い沖縄に基地と兵士があふれているから事故や事件が多発するのであるから、安保と米軍がどうしても要ると言うのであれば、基地と兵士をもっとひろく分散すればいい、という考え方もあり得る。三沢、横田、横須賀、座間、岩国、佐世保、に分散してなお足りなければ他の場所にも・・ということになる。すると本土の人もいやおうなく当事者として考えざるを得ない。あなたのご近所に米軍基地が来る、というわけだ。米軍の側から見てどれが都合がいいかは私は知らない。東アジアだけでなくインド洋や中近東まで短時間でカバーするには沖縄が便利なのだろうか? 地元住民の側から見れば、基地被害のリスクが増えるのはどこもいやだろう。沖縄の人から見れば、リスクを沖縄だけに押しつけるな、となるのは当然だ。世界中から基地も武器もなくなるのが一番いいのだが・・(本書に出てくる人たちの深い願いはその方向にある。)なお、米軍はそれでもこれだけ情報が明らかになっている。あの国やその国だと、情報公開や報道・言論の自由自体がなく、問題点を国民に対しても国際社会に対しても隠蔽し続けていたりするので、もっと問題だなと思うのだが・・?
(参考書)
髙橋哲哉『沖縄の米軍基地』集英社新書
大江健三郎『沖縄ノート』岩波新書
曽野綾子『生贄(いけにえ)の島』文春文庫
沖縄タイムス社『沖縄戦記 鉄の暴風』ちくま学芸文庫
大田昌秀『沖縄 戦争と平和』角川文庫 などなど