James Setouchi

2025.4.3  室生犀星『蜜のあわれ』 金魚が恋人?  

 

1        室生犀星(むろうさいせい)(1889~1962)

 集英社日本文学全集の奥野健男の解説・小田切進の年譜などによれば、犀星は明治22年金沢に生まれた。実父は武士の子孫。実母はその家の女中。父の世間体を守るため、犀星は生まれてすぐ近所の寺の住職とその内縁の妻の養子に出された。この養母は、私生児を貰ってきて養育し金に換える(女子は娼婦として売り、男子は働かせる)内職をする女で、子供たちをヒステリックに虐待した。幼い犀星は血縁のない姉らとそこで育てられた。子ども時代は乱暴だった。高等小学校を放校になり働く。仕事は転々とする。俳句の世界に出会いそこで人並み以上に活躍できることを知り熱中する。講談本などにも熱中。少年向け雑誌に投稿する。やがて詩を書き始める。東京に出て野獣の如き生活をする。叙情詩で注目され萩原朔太郎と交わる。大正7年『愛の詩集』『抒情小曲集』自費出版。(発表は『抒情小曲集』が大正5年で先。)結婚し田端に住む。抒情詩に飽き足りず散文へ。大正8年『幼年時代』『性に目覚める頃』『或る少女の死まで』発表。やがて史伝、史実小説を書く。大森に転居。夏は軽井沢で過ごす。昭和9年『洞庭記』『あにいもうと』以降自分の生い立ちと正面から対決する散文を多く書く。市井鬼ものを書きまくる。昭和10年『聖処女』などの長編。戦中戦後は沈滞し王朝ものや身辺雑記を書く。昭和30年66歳の『随筆・女ひと』以降奇跡的な復活で『舌を噛み切った女』『杏っ子』『蜜のあわれ』『かげろうの日記遺文』などを書く。昭和37年死去。

 

2 『蜜のあわれ』 

 昭和34年連載。作者は70歳。語り手は金魚。金魚は作家のおじさまの孫のようにあるいは年若い恋人のようにして暮らしている。金魚とおじさまの会話を中心として話が進む。

 

(登場人物)(ヤヤネタバレ)

あたい:金魚。出目金。3歳。三年子。17歳の女の子に化けて人語を交わしあちこちに出没する。自分のことを「あたい」と呼びいかにも幼いが、知的な面も見せる。「おじさま」に、毎月5万円お金を頂戴、あれもほしいこれもほしい、と言う。孫のようでもあるが年少の娼婦のようでもある。

おじさま:文士。上山という名前。金魚の三年子を飼っている。三年子と語り、遊ぶ。

バトラー歯科医院:丸ビルの七階で営業。三年子の歯を治療する。

ぐれんたいの男:三年子をつけまわす。

小母様:「おじさま」の妻か。足が悪く歩行できなくなって19年経つ。

隣のおじさん:上山と地所の境でトラブルがある。

金魚屋のおじいさん:三年子を売った金魚屋。多くの金魚を売っている。

美しい婦人記者:講演に行く上山を迎えに来る。

田村ゆり子:なぞのおばさま。十五年ぶりに上山(「おじさま」)に会いに来たという。実はすでに亡くなった女性で、幽霊。昔作家志望で上山に学んでいたが、急死した。腕時計を奪われる。

女給:バーの女給。

手紙の主:母親の小説を上山に読んで欲しいと言ってくる。

別の幽霊:なぞのおばさま。昔上山と付き合っていたが、突如他の男と結婚した。明記していないが、恐らく、上山の子を中絶したものと思われる。

娼妓:上山のところに税金の相談に来る。税金のせいで娼妓の生活から抜け出せない。

大工たち:上山の家を改修する。

 

(コメント)

 平たい言葉で書いてあるが、子どもにはわからない、大人のメルヘン。

 

 上山は文士で高齢の「おじさま」。金魚の三年子は17歳の人間の女の子になって「おじさま」と仲良くし、「おじさま」に甘えて遊んだり金を引き出して何かを買って貰ったりする。結構わがままで欲が深い。(永井荷風が銀座の女給と仲良くする話のようなものか?)三年子はメダカを食べるなど残酷な面もある。三年子は子どもを妊娠するが、上山の子にしてほしいと願う。(金魚は哺乳類ではないのだが、本作では妊娠した三年子のお腹が大きくなる。)・・金持ちの高齢者が若い女子をそばに置いて遊んで貰っている話だ。犀星の初期の作品『或る少女の死まで』には金魚は娼婦に似ていて嫌いだとの旨書いている。昨今の奇妙な事件(金持ちの高齢者と金のない若い女性の)を思い出してしまうが・・

 

 「おじさま」の妻らしき人は家にいるが足が悪い。彼女はほとんど出てこない。「おじさま」の家庭の事情は本当は重い。「おじさま」は妻を放っておいて若い子と遊んでいる。妻の苦しみはぼんやり読んでいると読み落とす。

 

 田村ゆり子という、昔上山の弟子だったが急死した女性が、今は幽霊になって現われる。

 

 別の幽霊も出てくる。昔上山の恋人だったが、恐らく上山の子を中絶し(そうほのめかしているように読める)、他の男と結婚して去った。三年子は彼女を励まして上山に会わせようとするが、彼女はいつも尻込みする。これもぼんやり読んでいると田村ゆり子と見間違える。

 

 ある娼妓は税金のせいで娼婦の生活から抜け出せないと言ってくる。犀星の幼い頃娼家に売られていった姉の記憶がこめられているかもしれない。

 

 上山と三年子の会話はたわいもないものが多く、明るい感じで話が進む。が、断片的に語られている上山の過去や現在、そのほかに登場する女性たちは、実は複雑な事情を抱えていて、問題だらけだ。この世の中でひどい目に遭っている女性たちのことを、作家は記しておきたかったのだろうか? 娼婦として売られる娘があり、急死した女があり、病(中絶?)を経て他の男と結婚する女があり、妻も結婚しても足が悪く19年も立てないでいる。明るく振る舞っていても金もなく「おじさま」に頼るしかない若い女もいる。妙な男につけ回されることも。

 

 本作を奥野健男は、「犀星の最高作、いや明治以後の日本文学の中での稀有(けう)の傑作だ」と絶賛し、「娼婦、囲われた女、処女、あどけない幼女、母親性、女房性、巫女性など、考えられるかぎりのすべての女性の美と性格」を表現したものだとしている。本作は平たい言葉で書いてあり問題を抉(えぐ)り出すようには書いていないため、私は最初表面を流し読みしただけではさほど面白く感じなかったが、再読してあらためて、犀星の接した様々な女性たちの苦しみに触れていく作品かもしれない、と言い直しておこう。

 

 「あたいね、昨日ふいに(海をわたる一尾の金魚)と、書いてみたのよ、とても大きい海のうえに金魚が一尾、反りかえって燃えながら渡ってゆく景色なのよ、・・・」と三年子は言う。小さな金魚だが、情熱に燃え意欲に燃え憧れの世界を求めて反りかえって真っ赤に燃えながら海を渡ってゆくとは。小さなものにも大きな情熱があり誇りと夢がある。今はここで窮屈な現実を生きているが、今こそ顔を上げ、この現実を超えて旅立って行く。これは三年子の願望であろうか。若き日に故郷を脱出し東京へ向かった犀星の姿を重ねてみることもできる。

 

出目金:中国の清朝で開発され、明治以降に日本に移入されたもの、赤、黒、三色などがある、といくつかの金魚関係のサイトには書いてある。真偽は知らない。

丸ビル:千代田区丸の内にある有名な高層ビル。大正時代に12階建て。

バトラー歯科医院:丸ビルに実在する。バトラー博士はシカゴの歯周病専門医。金魚の三年子は都心の高層ビルのバトラー歯科医院に行く。高度な文明の花を享受する都会人だ。スノッブ(ミーハー)とも言う。・・バベルの塔以来、日本でも五重塔、天守閣、丸ビル、霞ヶ関ビル、新宿や池袋の超高層ビルなど、文明はしばしば高層建築を立てて示威をしようとした。是か非か。