James Setouchi

2025.4.5  室生犀星『あにいもうと』   復讐の文学!?

 

1        室生犀星(むろうさいせい)(1889~1962)

 集英社日本文学全集の奥野健男の解説・小田切進の年譜などによれば、犀星は明治22年金沢に生まれた。実父は武士の子孫。実母はその家の女中。父の世間体を守るため、犀星は生まれてすぐ近所の寺の住職とその内縁の妻の養子に出された。この養母は、私生児を貰ってきて養育し金に換える(女子は娼婦として売り、男子は働かせる)内職をする女で、子供たちをヒステリックに虐待した。幼い犀星は血縁のない姉らとそこで育てられた。子ども時代は乱暴だった。高等小学校を放校になり働く。仕事は転々とする。俳句の世界に出会いそこで人並み以上に活躍できることを知り熱中する。講談本などにも熱中。少年向け雑誌に投稿する。やがて詩を書き始める。東京に出て野獣の如き生活をする。叙情詩で注目され萩原朔太郎と交わる。大正7年『愛の詩集』『抒情小曲集』自費出版。(発表は『抒情小曲集』が大正5年で先。)結婚し田端に住む。抒情詩に飽き足りず散文へ。大正8年『幼年時代』『性に目覚める頃』『或る少女の死まで』発表。やがて史伝、史実小説を書く。大森に転居。夏は軽井沢で過ごす。昭和9年『洞庭記』『あにいもうと』以降自分の生い立ちと正面から対決する散文を多く書く。市井鬼ものを書きまくる。昭和10年『聖処女』などの長編。戦中戦後は沈滞し王朝ものや身辺雑記を書く。昭和30年66歳の『随筆・女ひと』以降奇跡的な復活で『舌を噛み切った女』『杏っ子』『蜜のあわれ』『かげろうの日記遺文』などを書く。昭和37年死去。

 

2 『あにいもうと』 

 昭和9年発表。作者45歳。

 

(登場人物)

赤座:秩父連山の見える北関東の河で働く、人夫頭。子ども時分から河原で育ち魚を捕る仕掛けを作り、潜っては魚を捕る名人。多くの人夫を使う。河師(川師)。

りき:赤座の妻。「かかあ仏」と言われ人夫たちから慕われている。

伊之:長男。28歳。職人としての腕はいいが怠け者。何かと東京に出て遊ぶ。仕事をせずのらくらしている。女にも手が早い。

もん:長女。東京の下谷の寺に奉公に行き、小寺という学生とできてしまう。懐妊するが小寺に捨てられ死産。以来自堕落な死活に陥り、家ではのらくらするばかり。

さん:末娘。大人しい。真面目に働いている。

小畑:かつてもんを捨てた男。気の弱そうな学生。

 

(あらすじ)(ネタバレ)

 赤座の、厳しい自然の中での肉体労働で鍛えられた風貌がすごい。りきはやさしい母親だ。もんは小畑との関係で傷つき自堕落な女になってしまった。そこに傷つけた男・小畑が挨拶に来る。赤座は小畑を卑怯な男とみなし殴るまでもなくひどい言葉を投げつけて追い返す。小畑が伊之と遭遇する。伊之は小畑にさんざんに暴力と暴言を加える。そこへもんが帰ってくる。伊之が無抵抗の小畑に暴力を加えたと知ると、もんは逆上し、兄・伊之に襲いかかる。「もう一度言ってごらん。あの人をどうしたというのだ。」「極道兄キめ、誰がお前にそんな手荒なことをしてくれと頼んだのだ、・・、卑怯者、豚め、ち、道楽者め」・・・

 もんは散々泣きわめいた。父・赤座はやはり河で仲間たちと働いている。

 

(コメント)

 赤座の、自然の中の労働で鍛えられた姿が強烈だ。その妻のりきもリアリティーがある。題になっている「あにいもうと」はそのあとでやっと出てくる。兄の伊之は遊び人だ。妹のもんは男(小畑)に捨てられやけになっている。ここまでですでに濃厚なキャラクターが四人。そこに、かつてもんを傷つけたかつての恋人・小畑が来たらどうなるか。赤座がたたきのめすだろう、との予想は外れた。かえって兄の伊之が小畑をたたきのめした。さらに、それを知ったもんは、逆上して兄・伊之に襲いかかる。もんは堕落し多くの男を知っているが、最初の恋人・小畑だけは大事に思っていたのだ。それでももんは小畑に再会しようとはしない。

 

 非常に濃密な物語。感情・性格の強烈なキャラクターが出てくる。短篇だがずしりと重い。暴力と暴言。実際には兄も妹ものらくらして暮らしているのだが。兄は道楽者だが、それでも妹を傷つけられたくなかったのだろう。怒りが暴力になって出る。さらにそれでも妹のもんには、小畑との関係は、兄に踏みにじられたくないものだったのだろうか。小畑と関係を戻すわけではないのだが。それぞれに大事にしているものがあって、それを踏みにじられたと感じるとき、暴力が爆発する。

 

 赤座もんは、犀星の育ての母親である赤井ハツがモデルだそうだ。それでわかった。幼い犀星は、赤井ハツのDVにただただ恐怖しただろうが、その赤井ハツがDV女になるためには前史がありいきさつがあった、というわけだ。そう考えると、さらに恐るべき小説だ。悪人にも悪人になるべき人間的事情がある。それを描いてこそ文学小説だ、というわけだ。本作では、赤座もんの抱えた悲しみの出発点を描いている。

 

 (但し、犀星の本当の父親は誰か、養母の赤井ハツは本当はどのような人物であったかについては、私は奥野健男らの通説に従ったが、研究者によって異論がある。犀星自身の述べていることでも、誇張や粉飾(ふんしょく)があり得る。)

 

 本作は何度も映画化・TVドラマ化された。(未見。)調べてみると、兄と妹の配役で、大泉洋と宮崎あおいのペアの時があった。草刈正雄と秋吉久美子のペアの回もあった。渥美清と倍賞千恵子のペアのもの、杉本哲太と寺島しのぶのペアのものも。(全く個人的な好みの問題だが、宮崎あおいの『篤姫』は良かった。草刈正雄の『真田丸』も。)

 

 本作をヒューマニズムと優しさがあふれる作品だ、と言う人もあるが、私の印象は違う。凶暴性があふれる作品だ。最後にもんは家族に会いたくなるなどと言うが、愛と憎しみの両方に揺れて引き裂かれるアンビバレントな(相反した、葛藤(かっとう)のある)心情を書いているのであって、そこに救済を描いている感じはしなかった。犀星はこの時期いわゆる「市井鬼」ものを書き始める。市井(しせい)の人間の奥底に鬼のようなものが棲(す)む、とみなし、それを抉(えぐ)り出しているように思う。犀星はそれによって自分の不幸だった幼少期、それをもたらした「世間」「社会」に復讐しているのか。文筆による復讐だ。有名な「復讐の文学」(『改造』、昭和10年6月)にはこうある。「私は文学といふ武器を何の為に与へられたかといふことを考へる。その武器は正義に従ふことは勿論であるが、そのために私は絶えずまはりから復讐せよと命じられるのである。・・」

 

 対して、例えば鈴木結生『ゲーテはすべてを言った』は、人間の幸いへの祈りに満ちている。犀星の作品はそれとは随分異なるものだ。本作を読んで、鈴木結生の作品がいいものだと改めて感じてしまった。文芸だから表現が人を驚かせればよいと思ったら大間違いだ。内容、思想内容が大事だ。犀星のこの作品は悪どさが前面に出て、しかし親鸞のような慚愧(ざんき)と祈りはない。むしろTVのスペシャルドラマなどになりそうだ。 

 

*船登芳雄「室生犀星における小説の方法―初期三部作から「市井鬼」物への展開を追って-」(『論究日本文学』42 37-47, 1979-05立命館大学日本文学会)は参考になった。