James Setouchi
2025.4.7 室生犀星『聖処女』 美少女はどうなってしまうのか
1 室生犀星(むろうさいせい)(1889~1962)
集英社日本文学全集の奥野健男の解説・小田切進の年譜などによれば、犀星は明治22年金沢に生まれた。実父は武士の子孫。実母はその家の女中。父の世間体を守るため、犀星は生まれてすぐ近所の寺の住職とその内縁の妻の養子に出された。この養母は、私生児を貰ってきて養育し金に換える(女子は娼婦として売り、男子は働かせる)内職をする女で、子供たちをヒステリックに虐待した。幼い犀星は血縁のない姉らとそこで育てられた。子ども時代は乱暴だった。高等小学校を放校になり働く。仕事は転々とする。俳句の世界に出会いそこで人並み以上に活躍できることを知り熱中する。講談本などにも熱中。少年向け雑誌に投稿する。やがて詩を書き始める。東京に出て野獣の如き生活をする。叙情詩で注目され萩原朔太郎と交わる。大正7年『愛の詩集』『抒情小曲集』自費出版。(発表は『抒情小曲集』が大正5年で先。)結婚し田端に住む。抒情詩に飽き足りず散文へ。大正8年『幼年時代』『性に目覚める頃』『或る少女の死まで』発表。やがて史伝、史実小説を書く。大森に転居。夏は軽井沢で過ごす。昭和9年『洞庭記』『あにいもうと』以降自分の生い立ちと正面から対決する散文を多く書く。市井鬼ものを書きまくる。昭和10年『聖処女』などの長編。戦中戦後は沈滞し王朝ものや身辺雑記を書く。昭和30年66歳の『随筆・女ひと』以降奇跡的な復活で『舌を噛み切った女』『杏っ子』『蜜のあわれ』『かげろうの日記遺文』などを書く。昭和37年死去。
2 『聖処女』
昭和10年発表。作者46歳。生い立ちのわけありな美少女・閃子が、育てられた寄宿舎を脱走して様々な男たちに言い寄られる話。
(登場人物)(ややネタバレ)
本多閃子(せんこ):本作の主人公。東京のキリスト教の修道院の経営する寄宿舎で育った。美しい眼をした美少女。唇の先を曲げて皮肉な笑みをする。テニソンを英文で読む。舎監に憎まれ寄宿舎を脱走し、大森谷中に親友と住み、様々な男たちに出会うが・・
ダンロップ院長:私生児(婚外児、非嫡出児)など事情のある少女たちを育て神学を教える寄宿舎「十五番館」の院長。カナダ出身。
川島舎監:寄宿舎の舎監。閃子を憎み、厳しく当たる。
岸本貞代:寄宿舎のコック。
粂次(くめじ):貞代の子。私生児。14歳。
春本春子:寄宿舎の閃子の親友。人のよい少女。閃子と共に寄宿舎を脱走し大森谷中で同居。キリスト教系幼稚園の先生になるが・・
古川満知子:寄宿舎の先輩。過去に男と寄宿舎を脱走して・・
真子:閃子の姉。大井町に母と住む。金持ちの蒲原の愛人。人のよい女性。
慶子:真子と閃子の母親。大井町に住む。過去に多くの男との関係があった。
結城専造:慶子と過去に関係した男。金をせびりに来る。
椎葉金次:過去に慶子の夫だった男。閃子の父親かも知れない。
森田かよ:大井町の近所のカフェ・ミナトの女給。酔漢に追われる。
蒲原泰介(たいすけ):親譲りの資産家。穏やかで上品な四十代の男。真子以外に多くの女性を養っている。渡辺商事の大株主。
榛野真佐子:蒲原の長年の愛人の一人。軽井沢で闘犬をする。
礼以子:渡辺商事の社長夫人。男関係が乱れている。
鉄本諄平(じゅんぺい):支配人代理。礼以子と関係があった。
裃(かみしも)行雄:宣伝部長。人間味のある大人。
松方誠一:広告文芸部の若い社員。作家志望。閃子を恋する詩を書く。
織栄:女給仕。
鷹匠準雄(たかしょうじゅんお):渡辺商事の営業部員。男前。礼以子と関係がある。
藤木:大井町の近所の薬局の男。閃子を誘惑するが・・
灘孝:軽井沢で知り合った謎の若者。実は明文社という小さな会社で、大会社相手のゆすりをしている。
鳥子:灘孝の妹だという女。実は愛人?
鹿島:灘孝の仲間。義眼の男。
旗本:灘孝の仲間。速記者。カフェ・ミナトで閃子と関わったことがある。
水木恭之:明文社の社員。美男子。四谷塩町の修字館に住む。閃子は一目惚れしてしまうが・・?
ノルマン院長:春木春子が勤めたキリスト教系幼稚園の園長。カナダ出身。
鹿児島教頭:幼稚園の教頭。
倉地啓介:春木春子と知り合い仲良くなってしまう。石灰会社の社員。
(コメント)(ネタバレ)
舞台は東京、軽井沢、東京。キリスト教系の神学校兼寄宿舎の「十五番館」を、舎監たちのいじめに反発して脱走した本多閃子は、はじめて社会に出て、様々な人物に出会う。美しい閃子に魅入られ男たちが次々と言い寄ってくるが、閃子は「聖処女」の題名の通り激しく突っぱねる。特に、姉の真子の愛人で金持ちの蒲原泰介が、複数の愛人を囲っていることを知ると、閃子は最も激しく反発する。だが、蒲原は、いつか閃子が自分の手に落ちるであろうことを予測している。閃子は近寄る男たちを片端から拒むが、親友の春木春子が男と出て行くと、不安定になり、美男子の水木恭之にふらふらと吸い寄せられていく。水木も実は悪い男だった。閃子あやうし! というところで物語は突然終わる。
男たちに振り回され没落する様々な女たちが書いてある。先輩の古川満知子はヒモにたかられ苦労している。近所の女給の森田かよも酔漢(すいかん)に追いかけられる。寄宿舎のコックの岸本貞代も過去に何かがあって私生児を育てている。閃子の母親の慶子がすでに多くの男と関わり今も金をせびられる。社長夫人の礼以子は上流階級の社交クラブに出入りしているが、男関係が乱れている。それを灘孝らに突き止められ会社がゆすられそうだ。閃子の姉の真子はたまたま蒲原が金持ちで大事にしてくれるから生活に余裕がある。純粋な閃子はそれを不潔と考えるが、自身も美形の水木に吸い寄せられていく。ここを逃れても、いつかは蒲原の餌食(えじき)になるのかも知れない。それとも聖処女・閃子はあくまでも聖処女であり続けるだろうか? そうではなく、閃子も他の女たちと同様に没落してしまいそうだ。
室生犀星は、自分の養母の赤井ハツが、貰ってきた子供たちにDVを行う、という環境の中に育った(通説による)。その悲劇的な生育歴に対して、「復讐の文学」を唱え「市井鬼もの」として一連の作品をこの時期(昭和10年頃)沢山書いたと言われる。赤井ハツは犀星にとって正視しにくい相手だったが、この時期これと対決し、苦しみの中で育った者にも救いはある、という方向で作品を書こうとしているのだ、などと評されることもある。好意的に見ればそうかもしれない。だが、本作では、聖処女・閃子もまた男たちの手に落ちそうだ。そこに救いはあるのか? 疑問だ。
閃子たちはキリスト教の修道院の経営する寄宿舎で育った。英語を学び、讃美歌を歌う。室生犀星は当時の思想界の潮流の影響でドストエフスキー、トルストイ、聖書などを読み、あるかたちで影響を受けていたと言う。劉金挙・単妮「室生犀星における「キリスト教的感覚」及びその意義」(『札幌大学総合研究』第4号(2013年3月)に考察がある。
どういうかたちでどのように影響を受けたが肝心だろうが、本作を読んで私が受けとった限りでは、神の義による福音は感じられない。飲んだくれのだめ男・マルメラードフは娘を売春婦にしてもなお神信仰だけは手放さなかった。スヴィドリガイロフは神信仰を手放して自死する。ソーニャは売春婦だがラザロの復活を信じている。ラスコーリニコフはソーニャとの交わりを経て最後に救いに達するのかどうなのか? シベリアの彼方に遠望する遊牧民の姿は、有史以来続く神に祝福された姿であるのか? ドストエフスキー『罪と罰』を読めば例えばこのような問いに至るはずだが、室生犀星はドストエフスキーをどこまで読んだだろうか? あるいは、アレクセイ・カラマーゾフは、『カラマーゾフの兄弟』の書かれざる第二部で、神の人アレクセイのごとく神をたたえつつ放浪する隠者になっているかもしれない。こうした問いは、室生犀星『聖処女』には感じられない。強いて言えば、『聖処女』には続編があって、一度は没落した閃子たちがしかし福音に出会って救済されていく、という形になるのであれば、話はすっかり違ってくる。奥野健男が室生犀星をドストエフスキーなみだと激賞しているが、私には腑に落ちなかった。
トルストイ『復活』であれば社会批判を展開する。トルストイ晩年の民話集であれば素朴な信仰者を描出する。旧約『ヨブ記』であればヨブは最後には神を讃える。新約『ロマ書』であれば「律法道徳とは無関係に、ただ信仰によって義とされる」とパウロが記す。(内村鑑三が講演でこう訳したと言う。小西芳之助による証言。)室生犀星はそうではない。福音についてもっと随所で垂直的に切り込んで深めて欲しいところだったが、犀星にはこれが精一杯だったのだろうか。いや、もっとひどい目に遭って育った人もある。私の知らない犀星『聖処女』第二部があるのであれば、お教え下さい。第二部では春本春子が主人公として浮上し福音を説く、あるいは一見余裕のある蒲原が、神に背いていたことに気付き、全的自己否定に至る・・・といった構想を妄想してみたくなったのだが・・?
同じドストエフスキー読みでも、『重き流れの中に』『美しい女』などの椎名麟三(しいなりんぞう)には、福音がある。椎名麟三はマルクス主義から転向し最初ニーチェを読んだがやがてドストエフスキーを経てキリスト教徒になった。
大前提に、貧富の差(絶対的な格差社会)がある。大金持ちの蒲原。大会社・渡辺商事の社員たち。ゴロツキのような明文社の人間。カフェの女給。愛人たち。女にたかるヒモ男たち。・・・ええ? 今の時代も・・? やめてください。
なお、本作だけではないが、文章におかしなところがある。誤植かと思ったがそうではないようだ。犀星は悪文と言われ、いや、人間の醜い部分を描くために敢えて悪文、文法の乱れた文を採用したのだ、と絶賛する評があったが、本当か?
*軽井沢:長野県東部にある避暑地。当時外国人、上流階級などが集まる場所。バブル後の雰囲気とは全く違うはず。
*大井町:品川区南東部にある。当時東京市に編入(昭和7年)されたばかり。やがて大井競馬場ができた。つまり膨張する東京市の最辺縁部であったに違いない。