James Setouchi

2025.3.31  

 

 舟橋聖一『悉皆屋康吉』 昭和16~20年にこれを書いたとは  

 

1        舟橋聖一(1904~1976)

 明治37年東京の本所(現・墨田区)に生まれる。父・了介は東京帝大助教授(のち教授)(採鉱冶金)で仙台藩の儒者の子。母方の祖父は近藤陸三郎と言って古河鉱業の幹部で足尾銅山の所長もした人物で大金持ち。聖一にとっては足尾鉱毒事件は「生まれながらに負わされた十字架」だった。陸三郎の妻(聖一の祖母)が聖一を溺愛、芝居に連れて行ったり花柳界(芸者の世界)に触れさせたりした。聖一は病弱で各地に転地するが学校では優秀で水戸高校から東京帝大国文科に進んだ。卒論は岩野泡鳴。明治大学の教師となった。小山内薫に入門、今日出海らと劇団「心座」を作った。徳田秋声門下となる。昭和9年頃行動主義運動。昭和13年『木石』『母代』、昭和15~16年伝記小説『歴史の一枚―北村透谷―』連載。昭和15年『りつ女年譜』(当初『氷雪』と言った)。昭和16~20年『悉皆屋康吉』。昭和22年『鵞毛』。昭和24年から芥川賞選考委員。昭和27年から「夏子もの」を書く。昭和30年『寝もやらぬ夏子』『山茶花匂う夏子』『産院へ行く夏子』。昭和31年『白薊』。昭和35年『白鷺記』。昭和51年死去。作品多数。横綱審議会や国語審議会、競馬運営審議会、社会開発懇談会の委員も務めた。日本文芸家協会理事長。日本芸術院会員。文化功労者。(集英社日本文学全集の野口冨士男の解説・小田切進の年譜などを参照した。)

 

2 『悉皆屋康吉(しっかいやこうきち)』 

 昭和16~20年(1941~45年)前半を『公論』『改造』『文芸』『文学会』に発表しさらに後半を書き足し昭和20年5月創元社から発行。作者37~41歳。発表時代はまさに太平洋戦争中にあたる。扱っている時代は、関東大震災前から昭和の二・二六事件頃まで。

 

 悉皆屋の康吉という男の奮闘努力を時代背景を織り込みながら描く。和服・着物の好きな人は必読。そうでない人にもお勧めします。面白い。

 

 悉皆屋とは、本文によれば、染物業の仲介をする者。もとは大阪発祥で、着物などの初め模様や色あげ、染め直しものなどを請け負って京都の染物屋に送り仲介料を取ったのがはじまり。しみ抜き、洗い張り(着物を解いて洗い、のりを弾き直すなど)、ゆのし(スティームアイロンのようなもの)、湯通し(生地をお湯に通して糊気をとるなど)なども引き受けるようになった。東京の呉服屋でも反物を京都に送って初めさせるようになった。やがて京都でなくても染物業の仲介をする者をすべて悉皆屋と呼ぶことになった。

 

(登場人物)(かなりネタバレ)

康吉:吾妻橋近くの悉皆屋・稲川の手代(てだい)。最大手の日本橋の悉皆屋・梅村屋に出入りするうち気に入られる。震災後は主人父子を助けて水戸で生活。やがて東京へ。鶴村という店を出す。主人の娘・お喜多と結婚。創意工夫して独自の染色を作り出し有名になる。

梅村市五郎:日本橋の悉皆屋。東京の最大手・梅村屋の主人。震災ですべてを失い、水戸を経て京都へ。

伊助爺:梅村屋の大番頭。歯の抜けた爺さん。最初は康吉に厳しくあたるが、やがて康吉を気に入り、何かと支援する。傾いた稲川を継承し飛田屋を開くが震災で行方不明に。やがて・・・

与助:伊助の子・放蕩で勘当され行方不明に。

お喜多:梅村屋の一人娘。康吉を気に入る。のちに康吉の女房に。

山春:京都の染物屋。

お兼:悉皆屋・稲川の細君。稲川が傾き、客の預かり物に手をつけてしまう。

松川屋:質屋。

南條と津田:水戸の高校生(旧制高校のエリート)。康吉の家に下宿する。南條はお喜多と恋仲に見えるが・・

おくら:飯炊きのおばさん。

田部辰次郎:康吉が東京に出した鶴村屋の手代。

菅子:おくら婆さんの嫁。連雀町の佃煮屋。

霞町の叔母:お喜多の叔母。新婚の康吉とお喜多に皮肉を言う。

田代さん:京都の東山区の女。水戸時代から落ちぶれた梅村市五郎のつれあい。

延小扇:清元(きよもと)の師匠。

諸口病院:東京の精神科の病院。伊助爺さんが入院していた。

お園:昭和通りの鳥屋の女将。派手な女で借金を踏み倒そうとする。

阿蘇金助:帯部門の老匠。千葉の中山に住む。康吉の実力を認めて褒める。

馬越福平:時流に媚びる染織屋。巧言令色(こうげんれいしょく)。

 

(コメント)

 江戸以来の東京・下町の町人言葉が魅力的だ。いや、言葉ではなく生き方が魅力的だ。悉皆屋康吉が手代として主人の稲川を立て、梅村屋の番頭になってからは梅村父子に献身的に尽くす姿が美しい昔の職人、いや日本人のいいところが書いてあるように感じた。もちろん欠点もあるし人との葛藤もある。だが、例えば震災で全てを失った梅村屋の主人に対して康吉が忠義を尽くす姿は見事だ。伊助爺さんも最初は意地悪に見えたが康吉を見込み育ててくれる。康吉がピンチのときは身銭を切って助けてくれた。伊助爺さんも見事だ。

 

 だが、残念なこともある。伊助爺さんは震災後全てを失って、どういう経緯か、東京の精神科の病院に入っていた。康吉は恩義のある伊助爺さんを家に引き取ろうとするが、女房のお喜多に反対され、そのままにしてしまう。伊助爺さんは病状を悪化させ亡くなってしまう。律儀者の康吉でも、約束を果たせないことがある。義理人情に厚い人が必ず報われるわけでもない、人生は思うように皆が幸福になれるわけではない、ということか。女房のお喜多との夫婦げんかも出てくる。お喜多は康吉にとって元の主人の娘だ。世間はあれこれ噂する。康吉は夫が妻の上に立つべきだと考えている。この辺は今の男女平等理念から言えば古くさいと感じられるだろう。お喜多の親類の霞町の叔母や、梅村市五郎を尻に敷いて恩着せがましい口を利く田代さん、支払いの悪い鳥屋のお園も出てくる。昔の日本人が全員立派だったわけではない。計算尽くの欲得で動く者もいる。康吉もお喜多も欠点を持つ。

 

 康吉は仕事が進むにつれ、自分は職人でなく芸術家だとの自覚を持つようになる。さらに大衆の嗜好に迎合するかどうするかも。芸術作品を創造するか、それとも大衆受けする作品を作るか。これは永遠の問いだ。船橋聖一は自分の小説について同じ問いを問うたに違いない。

 

 関東大震災の描写がある。その後の対策と若槻内閣総辞職や田中政友会内閣下の放漫財政と浮わついた大衆社会の雰囲気。これに対し康吉は警戒する。このままでは社会は破滅に向かうのではないか。しかし商人としては当面「滔々(とうとう)たる奢侈浪費(しゃしろうひ)のお先棒をかついで」流行するものを作っては売る。これでいいのか? 

 

 康吉の不安は的中し血盟団事件五・一五事件が起きる。大本教やひとのみちが弾圧される。それでも人びとは奢侈贅沢(しゃしぜいたく)に拍車をかけ、道義の念の麻痺は特に上層生活者に多く見られる中以下の生活者は、「滔々(とうとう)たる自由主義の名において、最もはなはだしく、自由を奪われていたので、暖衣飽食は、これを見ながらにして、一部のものの独占にゆだねたのである。」とある。一部の者だけが自由を享受し、しかも彼らは道義の念を忘れている。多くの者は不自由に苦しんでいる。おや、これは今(2025年)の話ではないか? 

 

 やがて伊助爺さんが病院で悲しい死を遂げたとの知らせが届く。東京に雪が降る。二・二六事件(昭和11年=1936年)を予感させて作品は終わる

 

 古き良き時代の日本人の代表とも言える伊助爺さんを破滅させたのは、まずは関東大震災。(加えて、精神疾患に対する当時の日本人の無知・無理解とケアのまずさがある、と今なら言えるところだ。)伊助爺さんの死を二・二六事件の直前に持ってきたのはなぜか。古き良き日本人の典型の悲惨な死、古き良き日本の無残な喪失を象徴させているのかもしれない。(もちろんこれは船橋聖一の作品であって、明治と昭和前半は構造において連続していると私は考えている。)

 

 伊助爺さんの遺品に、悉皆屋の注文帳があった。そこには伊助爺さんの職人としての様々なアイデアが書き込んであった。康吉はそれを見ながら、再び仕事への情熱が「泉のように湧いてくる」のを感じる。伊助爺さんは非業(ひごう)の死を遂げたが、伊助爺さんの魂は確かに康吉に伝わったのだ。ここに希望がある。

 

 本当は社会経済的な構造に切り込むべきだが、戦時中の作品で、それはできなかったのだろう。古き良き時代への愛惜(あいせき)に終わらず、同時代の潮流の中で今を懸命に生きる康吉の姿が描かれている。読者にも励みになる。

 

 

 ここで反転する。

 梅村市五郎と康吉の関係は、主人と使用人の関係で、一種の前近代的・封建的な主従関係(主奴(しゅど)関係、と言うべきか)であって、近代的な(あるいは、現代の)雇用主と労働者の健全な関係ではない。そこに労働基準法はない。今で言えば究極のブラック・ワークだ。康吉の生き方は美しいと感じるが、そこに甘えている主人の梅村市五郎は作中でも欠点を暴かれている。康吉に働かせて、自分は女と関係を持っていた。その女、田代さんにも、水戸時代から京都時代まで尻に敷かれてしまう。自分で働く力が(田代に奪われた面もあるが)なくなっているのだ。市五郎の娘、お喜多も、康吉にとっては長年憧れたお嬢さんだが、一緒に暮らしてみるとわがままな娘の面がある。康吉の封建的な男上位思想を抜きにしても、わがままでお嬢さん気質が抜けていない。康吉は悉皆屋の仕事だけでなく家事全般を器用にこなし父子の世話をする。「奴隷が主人を養っている」とはこのことだ。

 

 対して、伊助爺さんと康吉の関係は、主従関係や雇用主・労働者の関係ではない。おなじ悉皆屋という仕事における先輩後輩の関係だ。先輩は、後輩が伸びてくると自分の仕事を奪われるので、後輩を潰しに来る場合もある。だが、後輩の努力を認め、この道を継ぐ者として助言し、育て、場合によっては一身をなげうって助ける場合もある。伊助爺さんは、康吉がピンチの時、私財を投げ出して助けた。康吉は伊助爺さんに心から感謝する。年の違う同士の、非常に美しい倫関係(友情、と言うべきか)だ。結果として関東大震災もあって伊助爺さんは無一文になり、流れ流れて精神科の病院に入れられてしまう。それでも伊助爺さんの残した注文帳に込められた、伊助爺さんの情熱が、康吉の情熱を奮い立たせる。体面状況での人格同士の交わりを失っても、書かれたものを通じて人格の交わりが復活した、と言い直してもよい。

(唐突だが、キリストが昇天し弟子たちはキリストとの対面状況に置ける人格的交わりを失ったが、パウロの手紙や福音書という書かれたものによってキリストとの交わりが復活する、という例を想起してもよい。釈尊や孔子学団の場合も同様か。)

 

 伊助爺さんが去ったあと、康吉は阿蘇金助という高名な老匠と出会う。康吉は阿蘇金助の仕事を尊敬し、阿蘇金助も康吉の仕事を評価する。もっとも、伊助爺さんとの交わりほどの濃密な関係ではない。

 

 伊助爺さんと康吉の関係は、職人の魂において響き合う強い絆がある、現実に落魄しても職人の魂は継承される、ということを示している。そこに船橋聖一のロマンがあり、例えば小林秀雄など昭和10年代の文筆家の書くものに近しいものがあると私は思った。つまりどこかで戦時中の精神主義、ロマン主義に近しいものがあるというわけだ。だから戦時中に出版しても出版禁止にならなかったのかも。(本作のこの内容を精神主義・ロマン主義として批判することもできる。)