今日昼間ラジオを聞いていたら女性の社会進出に関する番組をやっていた。NHKの第二だったかな。
その内容はというと、これがもうこれでもかと言うほどカビが生えたような男女平等論の羅列。そして、そのひたすら滔々と穏やかに話す雰囲気がまるで宗教番組のようで、そうか、これはもうはや一種の宗教なんだなあ、と妙に納得してしまった。
日本が、いや世界中の先進国がこの半世紀の間押し進めてきた社会のあり方、つまり男女が同じように働き同じように生きることができる理想の世界が作り上げたものとは結局何だったのか。それは極端な少子化による社会活力の疲弊と、それを埋め合わせるための無秩序な移民政策による文化文明の破壊でしかなかったのだと思う。アメリカのような移民を前提とした国家ならばいざ知らず、普通の国家でその道を選べばどういう結果を招くか、今のヨーロッパを見れば一目瞭然だろうに。
女性が男性と同じように働くようになれば当然子供のために割ける時間は激減する。更に年金や社会保障制度の過度な充実は、人と人のつながりを希薄にする。ようするに、今の世の中、子供や家族を持つなんて損にしかならないということ。そういう社会を我々はこの50年ほどの間に平等の名の下にせっせと作り上げてしまったわけだ。
そもそも何故この平等は望まれたのか、それは男女の平等と貧富の格差の補填が全ての人々にとって良い結果を招くと信じられたからだ。つまり平等や保護は良い結果を生み出すための手段でしかなかったはず。しかし、長い年月のうちに、いつしかその「平等であること」「弱者に寛容であること」自体が目的化してしまったのだと思う。平等でさえあれば、寛容でさえあれば、その結果が皆を不幸にしても無視をきめこむ。そういう矛盾の中に我々は落ち込んでしまっている。
ベッドに縛り付けられて人工呼吸器がなければ生きていられないような重度の障害者が普通学校への登校を望む。それを実現するために10人もの補助者が常時付き添う。級友たちも世話をしなければならない。それが本当にその子にとって、そして周りの子供達にとって幸せなことなのだろうか。
癲癇の持病を持っているものが運転免許証を取得できてしまう。そして持病を隠して事故を起こし6人もの子供が一瞬で亡くなる事故に至る。しかし病気持ちは弱者と見なされて無罪となるだろう。これが本当に正しいことなのだろうか。
平等平等平等!弱者弱者弱者!
霞を食っているような学者様の空理空論だとか、真性の狂信者のルサンチマンのはけ口を除けば、多くの人は平等や慈悲をイデオロギー的な視点では支持していない。彼らはただ単に良い人であろうとしているだけだ。しかし、この平等教の上層部はそうではない。
本当に恐ろしいのは、この平等強迫観念の中心にいる人たちだ。彼らは自身では平等や慈悲など糞食らえとしか思っていない。彼らにとってそれは人の罪悪感を刺激して金を稼ぐための口実に過ぎない。女性が弱者としてより優遇されるようにと組織的に活動すれば、そこに金が落ちる。障害者が差別されたと騒ぎ立ててごねれば食い扶持になる。弱者への金のばらまきを餌にして政治家になる。そうやって数限りないタカリが今この日本中に満ち満ちている。その親玉が民主党だ。
安倍晋三は戦後レジュームの脱却を目指した。それは主に安全保障と教育の分野においてだった。しかし、我々が見直すべき問題はこの50年間日本がどっぷりと使ってきた常識の全てにわたって存在している。
阪神淡路や今回の震災、そして尖閣の事件を体験した今、もう自衛隊はいらないなどとほざく馬鹿は死滅しただろう。そうやって一つ一つこの半世紀の垢を落として考え方を改めなければならない。電力不足の問題も東京一極化と贅沢な環境を見直す良い機会と捉えるべきだ。
男女が同じように働けるようになってから、特にここ10年ほどのことだが、見るからに疲れ切ってボロボロになりつつ企業で戦い続けている女性を多く見かけるようになった。もう少し以前ならば、女性の社会進出が進んだとはいえ、そのほとんどは閑職であったり、所謂職場の華的なポジションであったりして、皆小奇麗にしていた。しかし、今の女性はそうではない。彼女達は男と同じように働くことを要求されて無理をし続けているように見える。若いのに肌も髪も爪もボロボロで、それを化粧でごまかしてなんとか生きている悲壮感を全身で放射しているような女性によく会う。彼女達は本当にあれで幸せなのだろうか。
本心から男と同等に仕事がしたいと思っている女性、そしてそれだけの能力がある女性の社会進出を妨害する理由はどこにもない。しかし、全ての女性が男と同じように働く必要はない。
ところが、仕事よりも家庭を重視することを選択する女性を、まるで女性の権利獲得を邪魔する悪者のように罵るサヨクがいる。曰く、「あなたのように家に閉じこもってしまう人がいるから、いつまでたっても女性差別がなくならない」。また、女性の役員比率や収入だけをとりあげて、「まだまだ、男性とこんなに差がある」と煽り立てる無責任な自称有識者がごろごろしている。メディアはさもそれが当然であるかのように、働く女性のあるべき姿を毎日毎日これでもかこれでもかと宣伝し続ける。
その結果、特別仕事が好きなわけでも、人生をかけているわけでもない女性が、日々仕事に忙殺され、気がついたら30過ぎてしまいました、40過ぎてしまいました、という状況がここ何十年も続いている。国はどんどん子供が減って消費が減退し雇用の縮小が続いている。このまま結婚しないとして、自分はいつまで仕事が続けられるのだろうか。自分に会社に残れるだけの価値があるのだろうか。そもそもこの仕事はいつまで存在するのだろうか。
多くの女性が、自分は別段他の人と違った道を選んだはずではないのに、これが一番普通で良い選択だと思って歩いてきたはずなのに、気がついたら先がない道に迷い込んでいたことに気がついて唖然としている。普通に勉強して、普通に良い学校に行って、普通に良い会社に入って、普通に恋愛して結婚して、テレビで話しているような人生が自分にも必ず約束されているはずだった。だから見合いの話も全部断ってきた。でも、仕事が忙しくて、気がついたら・・・。幸運にも働きながら結婚することができた女性も、妊娠すれば仕事が出来なくなってしまう。仮に復帰できても仕事と育児を両立できる自信がない。あるいは、二人目が欲しいが、共働きで両親は遠くサポートは期待できない。これ以上はどう考えても無理だ。この仕組みの中でどうやって子供を育てろというのだ。多くの女性がそう感じているはずだ。何かが根本的に間違っていると。
育児休暇や保育所の充実をいくらはかっても、どんなに国が子供にお金を払ってくれても、結局それによって得られる利点は全て女性が今以上に激しく働けるようにするために使われてしまう。子供を増やすためには役に立っていない。なぜなら、それらの制度は女性の社会進出を促進することを目的に作られてきたからだ。別の言い方をすれば、どうやって仕事の邪魔になる子供の問題を軽減するか、そのために作られてきた制度だということ。そんな考え方で少子化が防げるわけがない。
女性の社会進出については実はサヨクだけでなく保守系の政治家にも積極的な人が多い。それは何故かというと、ようするに女性が働いてくれれば税収が増えるからだ。逆に扶養家族として政府が金を出してやらなければならない状態だと財政が苦しくなる。従ってサヨクの詐欺人道主義と保守の残酷な金銭感覚は女性の雇用促進に関して一致した利益となる。
このままどんどん男女平等が進めば、やがて家族は過去の制度となり結婚する人はいなくなるだろう。そして子供の生まれない育たない環境が当たり前になっていく。しかし、普通に町を眺めている分には人々はなかなかそれに気づかない。公園には子連れの母親がたくさんいる。町にも幸せそうな家族がたくさん歩いている。だが、ひとたび彼らが話すのを聞けば、それは日本語ではないのだ。我々が平等で自由な生き方を追い求めた結果、いつの間にか、そっくりこの日本の中身が入れ替わってしまっている。そういう未来を我々は本当に望むのだろうか。
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