一から学ぶ東洋医学 No.3 東洋医学の歴史 中国編① | 春月の『ちょこっと健康術』

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 こんにちは 

「一から学ぶ東洋医学 No.1 東洋医学とは?」にも書いたし、繰り返しになりますが、日本でいう(狭義の)東洋医学は、中国伝統医学理論をベースとしたもの。このブログでも単に「東洋医学」と書いているときは、これをさしています。

「一から学ぶ東洋医学 No.2 西洋医学との違いは?」では、東西を比較してみました。これで東洋医学の特徴が多少見えましたか? 治療法・養生法も、漢方薬と鍼灸を中心に、あんま、指圧、推拿(すいな)、導引(どういん)、気功、薬膳など、他に類を見ない幅の広さ。これも東洋医学の特色です。

なぜ東洋医学はそんなにいろいろな治療法を持っているのか? 「ところ変われば、治療法も変わる?」あたりを読めば、おわかりいただけるかなぁ~。中国は広いですからねぇ~。「あんまマッサージ指圧は東洋医学に入らないの?」もご参考にどうぞ。

さて今日は、東洋医学の起源と歴史について。まずは中国編です。ちょっと長くなります。

(1) 古代(伝説の時代~周)

鍼灸の起源は「鍼灸治療って、いつ始まったの?」に記したように、偶然トゲが刺さったら痛みが取れちゃった♪みたいな経験が積み重なった結果じゃないかと思われますが、薬学(本草学)も似たような道をたどってきたんじゃないかしら?

古代、人々の食糧調達法は狩猟と採集。日々の経験から、まず食べられるものと食べられないものを、次においしいものとまずいものを分けた。いつもおいしいものだけが手に入るワケでもなく、ときには飢えに負けて、毒のあるものを口にしてしまうこともあったんじゃない? すると、当然ですが、毒に中る(あたる)。つまり中毒を起こす。

ところが、そんな毒でも、病人だと中毒症状を起こさないケースも出てきて、むしろ病気が軽くなったりして…。で、薬として使われるようになっていった。そうした経験を積み重ねていくと、今度は積極的に薬になるものを探すようになる。やがてそれは本草学として体系化されていく。そんなところじゃないでしょうか。これってきっと、洋の東西は問わないよね?

伝説の三皇五帝のひとり、医薬の祖と言われる神農(しんのう)は、多くの薬草を発見したとされていますが、その過程で、ひどいときには1日に70の毒に中ったとも伝えられています。よく漢方薬には副作用が少ないと言われますけど、それはひとえに神農のような昔々の人たちのおかげなんだなぁ…。そう、昔は副作用に苦しんだ人もいたはず…。

やがて、薬草や鍼灸のようなものの扱いに長けた人が出てきて、それが自然崇拝とも結びつくと、巫医(ふい)という存在が登場します。そう、西洋の歴史にもシャーマンの存在は大きいでしょ? 人間の行動・生活の中で、ごく自然ななりゆきよね? それが儀式化してしまうところに、迷信も結びついちゃうんだけど、医療として有効な部分も確かにあった。

やがて巫医の中にも医療を得意とする人たちが登場すると、巫の部分が消えていくのも当然のなりゆきでしょう。周の時代には、『周易』が登場して、自然科学の分野も進化しますからね。

(2) 春秋・戦国~前漢・後漢時代(前770~後220)

国としてのまとまりができると、中国各地に点在する名医と称される人が宮廷に呼ばれるようになってきます。すると、医療の記録が残されるようになって、医学として体系化されていく。そこから、しっかりとした医学理論を持った医学書が登場します。それが、中国伝統医学の三大古典である『黄帝内経』、『神農本草経』、『傷寒雑病論』と、日本で重用されることになる『難経』です。

 『黄帝内経(こうていだいけい)』(前475~前221)

医学理論の基礎となったのは、古代から続く『気の思想』です。宇宙、森羅万象の成り立ちから、人間も含めたすべての生き物の生命現象まで、「気」でできていて、「気」によって営まれているという考え方。

それは、数万年もの間、四季のある中国に定住して、農耕によって食物を得ていた人々の生活の知恵から生まれたもの。自然現象や気象変化が、収穫を左右するし、人の健康にも影響することを、「気」でとらえて理解しようとしたんですね。

『気の思想』が、春秋時代に、老子・荘子の『精気思想』としてまとまります。この世のすべては「気」から生じ、「気」が陰陽の法則にしたがって変化することで、森羅万象が成り立っているという考え方。

こんな話、どっかで聞かなかった? そう、「『易経』の宇宙観」です。『易経』が書かれたのは、老子・荘子と同じころですから、その背景は同じ。「太極はすべての原点」であり、陰陽論が展開されていく。

『黄帝内経』が編纂されたのは春秋・戦国時代で、老荘思想と『易経』の少し後。当然ながら、根底に流れるものは同じ。つまり、『気の思想』が『精気思想』、『易経』となり、陰陽論に五行論も加わって、『黄帝内経』へとつながっていったんですね。

『黄帝内経』がどういうものかについては、「あらためて、東洋医学の根本『黄帝内経』とは?」にありますので、そちらをごらんくださいませ。

 『神農本草経(しんのうほんぞうきょう)』(前漢末期)

本草とあるとおり、薬草辞典であり、中国最古の薬物学書。前漢のころ成立したと考えられています。365種の薬物が載っていて、その薬物の性質によって上品・中品・下品に分類されていて、漢方薬学(中薬学・方剤学)の基礎となっています。

神農が選りすぐったものとされていますが、神農は黄帝よりも古い人だし、牛の頭に人間の身体を持っていたと言われるくらいですから、やはり実際の著者は不明ということになりますね。神農は農耕と医薬の神様であり、易経の六十四卦をつくったとも言われてます。

 『傷寒雑病論(しょうかんざつびょうろん)』(後漢末期)

後漢の名医、望診(視診)の達人と言われた張仲景(ちょう・ちゅうけい)の書。『黄帝内経』を土台として、多くの医家たちと自分自身の臨床経験をまとめあげたもの。現存するのは後代の医家が残した著作に引用されていた部分で、『傷寒論(しょうかんろん)』と『金匱要略(きんきようりゃく)』の2部構成になっています。

現代でも使われている葛根湯や小青龍湯、五苓散、麻黄湯などの処方が記載されています。書かれたのは後漢末期ですから、200年ごろだったとしても1800年以上前!すごいよね。西洋でも、ローマ時代には薬物療法はあったみたいだけど、当時のもので現代でも残ってるものってあるのかなぁ…。西洋薬は成分抽出から合成という方向に進んだから、ないだろうなぁ…。

『傷寒論』は、その題名にある「傷寒」について書かれたもの。傷寒とは、風寒邪によって傷つけられて発熱することをさしますが、『傷寒論』で扱われているのは現代の腸チフスのような病態。したがって、広い意味での傷寒の中でも重傷なものと考えられます。傷寒の病態を三陰三陽(六病位)と呼ばれる6段階に分類した治療原則を打ち出しました。

東洋医学では、「弁証論治(べんしょうろんち)」と言って、診断結果がおのずと治療法を示すようになっています(診断即治療)が、その基礎を固めたのが『傷寒論』と言われています。

『金匱要略』は、「雑病」についてまとめられたもの。雑病とは、外感病(いわゆる感染性の病気)以外の慢性的な疾患をさしていて、『金匱要略』には循環器、呼吸器、泌尿器、消化器などの障害から、皮膚科、婦人科、精神科疾患までカバーされています。

 『難経(なんぎょう)』(後漢初期)

『黄帝内経』について「難を問う(疑問をぶつける)」として、81項目の問答形式で書かれていて、いわば『黄帝内経』のトリセツ(取扱説明書)。『黄帝内経』と『難経』を合わせて、東洋医学理論が完成したと言われています。伝説の名医、扁鵲(へんじゃく)が編纂したと伝えられていますが、事の真偽は不明。

扁鵲は、『史記』の『扁鵲倉公列伝』に「扁鵲は渤海郡、鄭の人。姓は秦、名は越人という。」とあって、実在した人らしい。でも、他の史書に残る逸話をまとめると300年ほど生きたことになってしまうので、実はひとりの人ではなく、職人さんや歌舞伎役者、落語家のように代々継がれる名前だったのかもしれません。

ふ~っ。中国編を一気に書いちゃおうと思ったんですが、歴史が長いだけに、書いておきたいことも多い。ってことで、今日はここまで。中国編は②に続く…。

一天一笑、今日も笑顔でいい一日です。

 

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