昨年に引き続きRHYTHMワークショップのジャンベ初級コースを再受講する。基本は大事。長く叩いていると瞬間は痛いが、指の内出血はしなくなった。ククは体に沁みこんでおり、イントロを聞くことで条件反射のように頭で考えなくても刻むことができた。成長の証だ。さらに新しいリズムを覚えた。トラディショナルではなく、変則打法は左右の手の動きが入り乱れて容易でない。これも早く体で覚えるよう叩き込むあるのみ。

あにいもうと 身重での出戻りに兄の伊之吉は妹のもんに嫌味をかけ続ける。もんはそれに耐えかねて、母と末の妹のさんを振り切って家を出た。田舎の古い体質が沁みついている伊之吉の口から出る言葉は、もんや家族でなくてもげんありする。世間体ばかり気にする素振りがもんを強く思うこそのことだったと分かる時、謝罪に来たはらませた男・小畑に追い込みをかけ、なじり、殴る場面で溜飲が下がる。そして思いの丈を一しきりぶつけた後「バスはこの先を左へ行くんだぜ」と教える口調の苦々しさが逆にすがすがしくさせる。そんな兄の心をもんは知らない。

さんは製麺所の養子・鯛一と破談になりかけている。もんの事情がそれに絡んでいるが、姉に学費を出してもらっていることもあり、仕方のないことだとして姉妹は仲が良かった。意気地のない鯛一は実害を避けるその場しのぎで諦めも早い。さんも男運が悪かった。

溝口健二の「雨月物語」と同年、同じく四大巨匠の成瀬巳喜男の本作でも森雅之と京マチ子は再び共演した。二人の兄妹げんかは圧巻だった。すれっからしになっていく過程で声色が変わり、仕草も品を失い、体当たりの京マチ子は大柄。対して小柄な久我美子は失恋したとしても初々しい。兄の心を知らずとも、家族を思う気持ちは妹二人も同じ。傍観者の立場で見ている映画の観客は内を知って、彼らに幸あれと思わずにいられない。

運転する機会が減っているにせよ、ある程度の自信を持っているのは大型や特殊な車両の運転経験があるからだが、夢の中ではどうも鈍る。夢でも脳のどこかが眠っているのだろう。ガードレールやその他の障害物にぶつかりながら車を進めている。止めて降りるという考えは思いつかず、ただひたすら走り続けた。どこから来たのか、どこへ行くのかも分からない。ひたすらリアルタイムのみ。数秒前のことも覚えているかどうか怪しい。誰の車なのだこれは。何色の車かも知らない。どうも運転しづらいと思ったら、ペダルが助手席にあって僕はそこに座っている。上半身だけをずらしてハンドルを握っている。人を轢いてもアクセルは踏みっぱなし。ブレーキがなかった。

カラオケに行かなくなって久しい。どうもあの空間とその行為が美的になしと思え、というか誘われることも少なく助かっている。学生時代にまでさかのぼればそこそこ足を運んだ時期もあり、しかしバリエーションに跳んでいなかった僕は行く度に同じ歌を選択して、日々顔を合わす連中には「またそれか」、あまり会っていなかった連中には「まだそれか」と、どちらにせよ飽き飽きされていた。ザ・タイマーズの“デイ・ドリーム・ビリーヴァー”はその一つ。

放送禁止

You Tubeを漁っていたらたまたま発見し、忌野清志郎の随分と攻撃的なスタンスが改めて格好良かった。ついでWikipediaで経歴も確かめ、考えたらそのアナーキズムも含め、音楽・中日・自転車と、尊敬する人物を問われた際に彼の名を挙げよう僕は。

THE TIMERS
TIMERS

風呂は夜に入るほう。幼少時にアトピーを患った僕は、ほぼ治った今も汗に汗に弱く、それに関しては敏感で布団に潜る時はきれいな体でいたいの。

さて就寝前に便意をもよおした。快便マン はこれが困る。即座に行くべきか、我慢して朝に回すべきか。その6時間の差に大きな隔たりがあり、葛藤を強いられる。ウォシュレット で洗い流せば全く問題はないのだが、気分的に穏やかでないので大抵は朝まで持ち越す。腸のうねりが激しいなら、出して再度入浴する。今回はちょうど境界の辺りでなお悩む。結局ひねり出して浴室へ直行。小便以外でトイレから布団へダイレクトという選択肢はない。

みえない雲 映画が切り取った時間はハンナが転校生のエルマーと急速に接近し、その間に原発事故が起こり、二人はくっついて離れてくっついて離れてくっついて、数々の不幸が彼女を襲い、そこから立ち直るまでで、とり立てて長い期間ではない。淡い青春物語が一転してパニックムービーになってからはその長くない時間が細切れにされてリズムが悪いが、ハンナの経過と心情の変化を見せるには必要なことだった。

原子力発電所は全く映し出されない。警報のサイレンによってハンナの通う学校は騒然となり、のどかだった片田舎の街も風におののいて秩序が乱れ混沌とし、瞬く間にもぬけの殻になる。恐怖のシンボルは黒い雲だった。

原発事故なんて身近ではなく、劇中の彼らのパニックぶりがピンと来ない。チェルノブイリに対する認識の浅さは遠く離れた日本人として仕方のないことと自分を許すか、現実味がないという無知を戒めるか。温度差が怖い。

温度差はエルマーについても同じで、覚えているだけでも3人がその名前を変だといっていた。「エルマーのぼうけん」も「ぞうのエルマー」も作者は英語圏で、ドイツではめずらしいのだろうか。なぜそこを押すのか分からない。

植物 を愛するブンレツさんにとって虫は天敵で、見つければ普段ののろい動きが3倍速になり人並み以上に早くなる。食事中にハエを確認して夕飯どころではなくなった。しかし病み上がりの彼女は3倍速になってもまだ遅い。目障りな上に耳障りで、代わりに食べ終えた僕が殺すことにした。強敵だった。

ハエが台所に入ったのでそこを締め切り、新聞紙を丸めて機をうかがった。仕留めることができず何度も壁や床を叩いていると向こうも興奮してきて羽音が一層うるさい。「まさしく五月蝿いだな」と思ったが、5月ではないから「まさしく」は違った。不燃ごみを入れる袋と買い置きのペットボトルの水の間にハエは逃げ込み、静かになった。とりあえずおびき出そうとしてガサガサその辺りを闇雲に叩いたが、影でほくそ笑んでいるかのように気配を消している。おそらく苦虫を噛み潰したような顔をしていただろう僕は一旦部屋へ戻った。

しばらくして開けたままのドアからからハエが姿を現す。わざわざ来るとは明らかな挑発である。右手に先の新聞紙、左手には殺虫剤も持って売られたケンカを買う。できれば飛び道具は使いたくなく、必死で叩いたが全て空振り。やむなく左手をかざし、ハエに向けて噴射した。動きはみるみる鈍り、よろめきながら本棚と壁の隙間に消えていった。とどめの殺虫剤をそこに撒き散らし、次第に弱くなった羽音もついに聞こえなくなる。死に様は見せなかった。敵ながら天晴れだ。

度を超えたマゾヒストの地獄絵師が自らの住む世界と生い立ちを話す。10ページ前後の短編を主人公の語りによって繋ぎ、その短さゆえ凝縮された地獄は終始テンションが高い。狂っていながらも道理が通っているからなお怖い。

常軌を逸した様子を、自らを省みて客観的な視点をも持っている。登場する彼の周囲の人間が、それらも一人としてまともではないのだが、彼が理想像として創造したものであるということがクライマックスで描かれた。

描写で訴えかけるだけでなく、読者も世界へ引きずり込もうとするラストが強烈。全て地獄行きだ。

日野 日出志
地獄変

その友人からの電話はこの日 以来だった。彼女もその後、交際に至ったそうでお互いに事後報告。しばらく話してから変な愛想笑いをするようになったと指摘され、風邪のせいで声の調子が悪いからだと真っ向から否定したが、実は否めなかった。

逆に、古くから知っている人にその傾向が出たと感じたことがある。その時は耳障りな笑い声に嫌悪感を抱いた。しかし俗世間にまみれながら生きる術を学んだのは決して卑下することではない。自分もそうなったからというわけではなく、そうでもしなければ渡っていけないという負の染みつきにはむしろ喜んで愛すべきだ。とっさには認めなかったが、それは愚直であり、それを美徳とし、今後は高らかに誇ろうと思う。

邦画2006 見た映画が100本程度ではベストも糞もないが節目として。新作映画は不作だったように思う。原則一監督一作品でピックアップした。順不同のようなそうでもないような。

新作10本
紙屋悦子の青春 (黒木和雄)
父親たちの星条旗 (クリント・イーストウッド)
太陽 (アレクサンドル・ソクーロフ)
饗宴 (緒方明)
ニュー・ワールド (テレンス・マリック)
明日へのチケット
(エルマンノ・オルミ 、アッバス・キアロスタミ、ケン・ローチ)
洋画2006 (井口昇)
ゆれる (西川美和)
(キム・ギドク)
蟻の兵隊 (池谷薫)
戦争映画の多いこと。選んでいるうちに何が面白いのか基準が分からなくなり、強く印象に残った作品を挙げる。自分自身の“面白い”さえ主体性がないとはこれいかに。

旧作10本
言い出しかねて (後藤大輔)
残菊物語 (溝口健二)
かえるのうた (いまおかしんじ)
独立少年合唱団 (緒方明)
猫と庄造と二人のをんな (豊田四郎)
父、帰る (アンドレイ・ズビャギンツェフ)
神々の深き欲望 (今村昌平)
受取人不明 (キム・ギドク)
いとこ同志 (クロード・シャブロル)
瞼の母 (加藤泰)
ピンクで溝口をサンドイッチしているのは、現在の僕の傾向を如実に表している。昨年 から続く緒方とギドクにしつこさがうかがえる。邦画の旧作への傾向は今後さらに強まりそう。