アングルは斜め上から、しかも傾いて、時にグラグラと揺れ、緊張が続く。全ての映画、その傑作に当てはまるとは断言しないが、映し出されたものから緊張感が醸されて、保たれると見応えは増長する。
兄の稔は山梨の実家に残り、家業を継いだ。弟の猛は家を出て、東京でカメラマンとして成功した。稔は猛を、単調な毎日を繰り返す自分と違い、洗練されて自由に生きていると思っている。猛は稔を、閉鎖的な田舎から逃げ出した自分と違い、人望厚く実直に生きていると思っている。ピントを片方に合わせると、もう片方はぼやけて、その間に距離と隔たりがあった。
千恵子は猛のかつての恋人で、今は稔と共にガソリンスタンドで働いている。兄弟の母親の一周忌で猛が実家に帰ってきた時、3人は渓谷に行った。そこで、千恵子は吊り橋から落ちて死んでしまう。そばには稔がいた。猛はそれを見ていた。事件として裁判になり、その時の様子は映像と供述で徐々に明らかになりつつ、真実と記憶は徐々に書き換えられた。
羨望はコンプレックスへ。二人の父・勇とその兄・修の関係は、さらにそこから確執へと続いている。兄弟の、兄弟ゆえの不穏が露になり、人間の醜さが如実に表れる。しかし再生の道があることを示される。
新聞や雑誌などで本作の関連記事を読むと、聡明で美しく全てにおいてセンスがあるようなそれでいて性格に難がありそうな西川美和監督のコメントには、どれも一様に夢が起因となったと記されている。僕が見る夢はどれも不条理で、もし僕が何かをアウトプットする人間だったとしても、あまりにつじつまが合わず夢から膨らませることは無理だ。人の夢はかくも違う。いや比べることもおこがましいか。