前回の記事

 

‐シリーズ・朴烈事件を追う その10(新井初代の「証言」≒関東大震災の「流言飛語」)‐

 

 

関係記事

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その1(『自由法曹団』について)‐

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その2(柳宗悦の「予言」が適中す)‐

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その3(日本在住外国人のトップランナーの歴史)‐

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その4(「義人弁護士」に至るまでの生い立ち)‐

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その5(三・一独立運動以後の『義烈団』活動について)‐

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その6(布施辰治の仕事歴)‐

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その7(虐殺真相究明に対する帝国政府の妨害と朴烈事件の経緯)‐

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その8(壮観たる大法廷裁判・朴烈の四ヵ条要求)‐

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その9(朴烈事件以後の『義烈団』金祉変の弁護について)‐

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その10(朝鮮の土地問題・植民地化の歴史)‐

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その11(「法曹界」のキャリアと地位を捨てた活動)‐

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その12(台湾の反植民地闘争弁護と朝鮮共産党事件)‐

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その13(日本の労働問題「先人たち」の努力)‐

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その14(新潟県水力発電所・朝鮮人土工「虐殺」の話)‐

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その15(布施氏の「弁護士資格剥奪」と その後の趨勢)‐

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 最終回(生くべくんば民衆と共に、死すべくんば民衆の為に)‐

 

 

・帝国政府を「被害者」と位置付けるための 巧妙な算段

 

 

日本当局は、苦慮のあげく、例の新山初代の暴露した朴烈の胸算用(天皇や皇太子に爆弾を投げつける)の筋書きを組み立てて、なんとか元凶にデッチ上げるべくもくろんだのだ。

 

これについて江口渙<日本のプロレタリア作家>は次のように述べている。

 

「それは何故、朝鮮人をあんなにも多数、殺さなければならなかったか、その原因を外国に説明しなければならない。そこには、朝鮮人が大震災のどさくさまぎれに、これこれの驚くべき悪事を企てた、だからこそ日本人の激怒を買って、あんなことにもなったのだ、ということにしなければならない・・・・・・」

 

かくて朴烈と金子文子<日本人妻>は「大逆罪」に仕立てられて、一九二六年(大正十五年)三月二十五日、死刑の判決を言い渡された。

 

 

呪いぬき呪い殺す力を

 

かの朴烈は、一片の爆弾も入手したことはない。

 

たとい入手して使ったとしても通常、「爆発物取締罰則違反」に問われるものだ。彼は、爆弾注文書を書いたわけでもない。が、大逆罪<最高刑>に突き出された。天皇専政の天下に、大逆罪というと「聞くだに恐ろしい罪名なので裁判所では特別事件あるいは刑法第七三条の罪と呼んでいた」という。

 

そこに突き出されると一審にして終審、死刑に定まっている。

 

そして翌日か数日中に絞首台に消えていく。

 

ところが日本政府は、死刑宣告の一〇日目、朴烈に「死刑一等を減じて無期懲役」の恩赦令を下した。ということは「朴烈大逆事件」そのものが、外国向けの弁解用としてデッチ上げられた産物であることを物語る。

 

かくて秋山市ヶ谷刑務所長が、丁重に恩赦状を手に、朴烈の房を訪ねたとき、彼は言下に突っぱねた。

 

「生かすのも天皇の勝手だよ。殺すのも天皇の勝手だよ。しかし、それはあくまで天皇の勝手で、俺は天皇の勝手になりたくないね。日本の天皇から恩赦だなんて恩を着せられる義理もなければ、理由もない。ただ俺は俺の呪いたいように、生きていれば生き霊になり、死ねば死霊になって天皇を呪うだけで、そんな恩赦令などというものに用がないね」

 

それで所長は恩赦状の処置に困って、三日間も朴烈の房を訪れ、泣かんばかりの顔をしたという。朴烈は、その途方にくれた顔をとても見ていられなくて、渋々と「俺は天皇からの恩赦状を受け取らないが、君がやり場に困って途方にくれるというなら、君のためにそれを預かってやろう」と、受け取った。

 

朴烈は、約二年にわたる法廷の場において、すべての法官を「君」と呼びつけ、自分を「俺」で言い通した男だった。ちなみに、朴烈大逆事件は「怪写真事件」という重大な副産物を生み、やがて政争となり、若槻内閣の倒閣問題へ発展し、数多の裁判官が免職になった。

 

かくて朴烈は無期囚として二三年、ついにマッカーサーの指令で出獄した。旧知が感激して、「よく生き返ったね」と慰めると、彼は「おれは呪いはじめた天皇を呪い抜き、天皇を呪い殺す力を最後まで失いたくないと思ってね」と答えた。

 

まさに日本帝国官憲が名づけた「不逞鮮人」にふさわしい反逆者の弁であった。

 

参考文献

 

東京弁護士会所蔵 『朴準植・金子文子特別事件重要調書』全五巻。

布施辰治著 『運命の勝利者朴烈』(世紀書房、一九四六年)。

江口渙著 『奇怪な七つの物語』(三一書房、一九五六年)。

金一勉著 『朴烈』(合同出版、一九七三年)。

 

※<>は筆者註

 

『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社 73~76頁より

 

 

・実際は「テロ行為」はしていなかった 『大逆者』朴烈

 

 

いくら口で言おうとも、実際に「事を起こさなくては」一切の『犯罪』は成立しない。

 

ましてや、その「準備」すらしていなかった。

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その6(体制維持の「生命の道具化」と「隠蔽工作」)‐

 

外国を騙すために、エセの銃撃戦を演じてみたり、「殺戮の狂騒」の中で憔悴した在日朝鮮人たちに、ご飯と毛布を与え傷口には赤チンキを塗り一部の例外には注射まで行い『善者』を演じる始末であった。

 

その場面を写真に撮って対外宣伝用とし、伊集院大臣<外務省1923~1924年在任>の名アジア全域の日本領事館に送付した。

 

さらに日本当局は、収容中の朝鮮人煙草銭などの恩情をみせて“感想文”を書かせ、「日本の兵隊さんや警察の御恩は一生忘れられません。決して日本人を恨みません。放火したり爆弾を投げた朝鮮人が悪いのです」と綴った文面に、母音を押させられた。

 

金丸の原に収容中の金潤福(第二班ト組)などは、「天皇陛下、司令長官閣下の慈しみと御同情の賜物に感激に耐えません」といった具合でした。

 

もはや、開いた口が塞がらない。

 

一方では、流言を裏づけて殺害事件の不可避を立証するかのように急遽“朝鮮人の犯罪”をつくり上げ「南某九月二日氏名不詳者の衣類二点在中の紙包一個窃取す、李某九月二日焼跡で焼銭一円七八銭窃取す、韓某九月一日神保町焼跡で鳥打帽子一個を拾得し金一七円七七銭を拾得す」といった『現実離れ』した罪を創作するに時を惜しまなかった。

 

無論、当時の国家的状況から類推して、大日本帝国「欺瞞」「残虐性」ばかりが目につき、傍若無人な帝国主義国家のひとつして、ここ北東アジアにおける「イキりモード」を全開にしつつ、在日朝鮮人を「軍備拡張」「体制維持」のためのスケープゴートとして、『虐殺すべき対象』にする非人間的な行動も、その後の知り尽くされた趨勢にしろ、朴烈の『計画』自体の是否については、多くの議論があるにせよ、しかと歴史を鑑み、事実を眺めていけば「実際やられても仕方がない」と認識できます。

 

‐朝鮮最後の『クラウンプリンス』李垠<イウン> その1(高宗皇帝7人目の息子)‐

 

一国の王家を滅ぼして、辱め、降嫁し併呑するという暴挙を平気でするのなら、きっと彼ら皇家が、爆弾かその他手段で「皆殺し」にされても、私は『因果応報』の一環として見るし、戦前~引き上げまで、満州で戦争体験を持つノンフィクション作家澤地久枝さんは、「朝鮮半島の人たちが、韓国や北朝鮮を含めて、そんなに良い感情を持っていないことは、私はわかる気がします」として「私たちの国(日本)が、どこかの植民地になって、苗字も変えなさいと言われ、自分の可愛い娘も連れ去れたということがあれば、やっぱり許せないという気持ちはずっとある」と、経験者ゆえの説得力ある発言と、物事の道理からして至極まっとうなご発言をされた。

 

‐人はお互い『恩義』を忘れない(ローソン朝鮮学校支援と澤地久枝さんの話)‐

 

そして今も、日本政府は、あらゆる施策において『無責任の渦中』にある・・・。

 

 

<参考資料>

 

・『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社

 

 

<ツイッター>

 

【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】

 

https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6As

 

 

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