前回の記事

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その4(「義人弁護士」に至るまでの生い立ち)‐

 

 

関係記事

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その1(政府を決して信用してはならない)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その2(デマ拡散と大衆の「民度」)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その3(目玉や鼻をえぐり、腸や胎児を引きずり出す)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その4(「天皇制」サイコパス国家への批判)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その5(なぜ政府は『虐殺』を画策したのか)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その6(体制維持の「生命の道具化」と「隠蔽工作」)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その7(極度の「情報統制下」にあった朝鮮半島)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 最終回(なおざりにされる『教訓』と『生きづらさ』)‐

 

 

・布施弁護士の「渡朝」 解放決死隊『義烈団』の活動内容

 

 

さて、この布施辰治は、いよいよ朝鮮へ渡る。それは一九二二年である。彼は在東京の朝鮮社会主義者と共に、朝鮮へ渡って「巡回講演」をやっている。

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その3(日本在住外国人のトップランナーの歴史)‐

 

韓晛相の前掲運動史(『民主新聞』四七九号=一九六一年十九日)によると、同年、在日朝鮮学生と知識人が主体となり社会思想研究を目的に「北星会」が結成されて「鄭又影をソ連に派遣し」、一方では思想講演会を組織し、夏休みを利用して幹部全員が朝鮮へ帰国する。

 

そのとき「日本人有志の中から布施辰治、北原鉄雄両人が参加した」という。

 

これは日本人として思想運動のために朝鮮巡講に参加した最初のできごとだ、と述べている。俗に、法衣をまとっていかめしく“一城の主”といわれる弁護士が、植民地の解放思想啓蒙のために朝鮮へ渡り巡回講演を行ったということは、すでに日本での一介弁護士にとどまってはいない。

 

まさしく彼こそ、日本帝国にひしがれた朝鮮民衆の解放運動者だったのである。

 

その布施弁護士が、本格的に、嵐の中の朝鮮人のための法廷弁論を開始するのは、一九ニ三年(大正十二年)である。例の関東大震災の年である。震災より少し前に「義烈団事件」公判があり、九月に震災と虐殺があり、「朴烈大逆事件」の公判準備が数年間つづく。

 

 

義烈團<ウィヨルダン>

 

1919년 11월 만주 지린성에서 조직된 항일 무력 독립운동 단체. 쉽게 말해 대일 무장 단체였다.

 

<1919年11月 満州吉林省で組織された抗日武力独立運動団体。簡単に言えば対日武装団体だった。>

 

이 단체를 발족한 약산 김원봉은 3.1 운동의 대중화 단계에서 죽음을 무릅쓰고 독립 만세 시위를 전개한 한인들을 보고 크게 감동하였다. 이로써 의열 투쟁 결사대를 조직하여 암살ㆍ파괴 활동을 전개함으로써 국내 동포들의 독립 정신을 환기시키고, 나아가 이를 통하여 국내외 한인을 중심으로 혁명을 촉발함으로써 민족의 독립과 조국의 광복을 달성하고자 하였다. 이 같은 구상 아래 김원봉은 1919년 11월 윤세주, 이성우, 곽경(곽재기), 이종암 등의 동지들과 길림성(吉林省)에서 의열단을 발족시켰다.

 

<当団体を立ち上げた若山[号]・キムウォンポンは3.1独立運動の大衆化段階において、命を賭して独立万歳示威を展開した韓人[朝鮮人]たちを見て大きく感動した。これにより、義烈闘争決死隊を組織して暗殺・破壊活動を展開すべく国内同胞たちの独立精神を喚起させて、さらに、これを通じて国内韓人[朝鮮人]たちを中心に革命を触発させ、民族独立と祖国の光複を達成しようとした。このような構想のもと、キム・ウォンポンは1919年、ユンセジュ、イソンウ、クワッキョン(クワッチェギ)、イチョンアㇺなどの同志らと吉林省[中国]にて、義烈団を発足させた。>

 

※<>[]は友人翻訳/筆者註

 

ナムウィキ 『의열단』記事より

 

https://namu.wiki/w/%EC%9D%98%EC%97%B4%EB%8B%A8

 

まず同年七月、朝鮮独立運動者の結社「義烈団」事件を弁護するために、布施は渡朝した。すでに朝鮮では、布施弁護士は“朝鮮民族の友”として知られ、その影響力も強いことから、彼の渡朝に甚大な関心があったとみえる。

 

彼が釜山に着くや「アナ系朝鮮人の北風会などに迎えられ、あいさつや講演で気勢をあげて京城<旧漢城・現ソウル>入りをした」。

 

<帝国政府が>言論集会を禁じた朝鮮では、二、三人が寄っても集会とみて検挙する狂態下で、布施という日本人の来朝を機会に、あいさつの形で集まった際、彼は朝鮮の闘士に激励の言葉をぶった。

 

つまり『史記』を引用して総督府の訳圧政治を諷刺し、「力を頼む者は亡ぶ」と言ったので「非常な反響があった」という。朝鮮人側にすれば、渡来する日本人といえば一攫千金の投機を狙い、傲慢に振舞い、詐術と収奪を身上とし、眉をひそめているだけに、「布施辰治」という日本人に、奇特さと感激の念で目を見張ったにちがいない。

 

ところで「義烈団」について一言を要する。

 

これは「三・一運動」の一九一九年に旧満州吉林省虎林門外で金元鳳<キムウォンポン>を主道に組織され、日本帝国主義者への爆弾と暗殺を目的とする決死的秘密団であり、約七年間行動する。

 

すなわち朴載赫の釜山警察署襲撃(一九二〇年九月)、崔寿鳳の密陽警察署襲撃(二〇年十一月)、金益相の総督府襲撃(二一年九月)、金益相ほかの上海黄浦灘襲撃(二二年三月)、金相手玉のソウル<京城>鐘路署襲撃(二三年一月)、黄鈺らの黄鈺警部爆弾事件(二三年二月)、金祉変の二重橋爆弾事件(二四年一月)、羅錫疇の東拓襲撃(二六年十二月)━これらは義烈団の行動である。

 

※<>は筆者註

 

『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社 115~117頁より

 

 

次回は、布施辰治氏による「義烈団弁護」の内容と、後の朝鮮人虐殺の究明活動ふくめ、具体的に迫っていきたいと思います。

 

その中で布施弁護士は、「日本人がいつも朝鮮人を迫害して」ある種の負い目から「震災混乱に乗じた『報復』を恐れる心理」が働き、「“朝鮮人来襲”の妄想が生まれ」たことについて触れています。

 

事件後、亀戸警察署に迫り、殺された朝鮮人200~300百名の遺体を確認し、時の警視総監に詰問し、その勇気と威厳たるや、周りの憲兵や警官などもろともせず、まさに義憤の闘士そのものだと、当時の中村高一弁護士(自由法曹団)は手記で述べています。

 

 

<参考資料>

 

・『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社

 

 

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