前回の記事

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その3(日本在住外国人のトップランナーの歴史)‐

 

 

関係記事

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その1(政府を決して信用してはならない)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その2(デマ拡散と大衆の「民度」)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その3(目玉や鼻をえぐり、腸や胎児を引きずり出す)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その4(「天皇制」サイコパス国家への批判)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その5(なぜ政府は『虐殺』を画策したのか)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その6(体制維持の「生命の道具化」と「隠蔽工作」)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その7(極度の「情報統制下」にあった朝鮮半島)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 最終回(なおざりにされる『教訓』と『生きづらさ』)‐

 

 

・在日コリアンの「光」となった 布施辰治の生い立ち

 

 

この“暗い谷間”に、朝鮮人は布施辰治によって、どんなに世話になったか、また、法的擁護を受けたかを一瞥しよう。

 

まず布施辰治の出発から述べる。

 

宮城県の田舎に生まれ「無類の正気ッ子」として育ち、義憤を感じやすい少年であった。

 

哲学を志して上京した彼は、明治法律学校(明大)に学び、一度で判事試験に合格、宇都宮地裁に赴任し、検事代理になる。しかし彼の扱う事件の大部分は「不起訴処分」とし、被告を釈放する。

 

というのは「外面的には権力者の立場にありながら、本質的には人民、特に農民の味方になろうと夢見た」らしい。が、あまりにも不起訴処分を連発し、被疑者を罪とならずと釈放するので、ついに部内の話の種となる。

 

そのうち、哀れな「母子の心中事件」の処分を契機に、意見が衝突し、辞表を叩きつける。検事代理に任命されてわずかに半年、ときに弱冠二十四である。

 

日本の司法の根幹にある「統治と支配」と「人権軽視」!日本の司法水準は近代以前!~岩上安身によるインタビュー 第871回 ゲスト 元大阪高裁判事・明治大学法科大学院・瀬木比呂志教授

 

このように、IWJの岩上記者明大瀬木教授のやり取りで、検察の「恐るべき有罪率(ゴーン氏以後「それは誤解」という情報スピンがなされているが)」を背景に、検察が「起訴するか/しないか」によって、刑確定の有無がハッキリとわかれていました。

 

それから東京へ戻り弁護士開業となるが、そのときすでに彼は“弱く貧しく無知なるがゆえに官憲に翻弄され搾取され、人権蹂りんされる民衆のための”第一線弁護士となるべく運命づけられた。この開業日がいみじくも対露宣戦日<日露戦争/1904年>であった(明治三十七年二月十日)。

 

青年弁護士・布施辰治の理想は、自己の職柄を通じて相互扶助、社会改造、弱者救済を主眼に置いたが、結局は、社会の犠牲となった“前科者”を引き受けて弁護し、さらに工場ストライキ、アナキストや社会主義者への人権擁護を一手に引き受けた。

 

そのうち、かの有名な“米騒動<1918年>”が起き(大正七年)全国に八〇〇〇人近くの起訴者があり、布施は多忙を極める。彼は法廷弁論にとどまらず著作にも乗りだした。すなわち「生きんがために」の著作がそれである。

 

そのころから彼の名声は高くなり、一躍「社会主義弁護士」と呼ばれた。

 

さて、布施辰治に“社会主義弁護士”の名称が付されるところに、「在京の朝鮮人、台湾人が事務所を訪れた」その訴えは、「官憲の干渉」と「家主など居住上の差別問題」であった(「布施柑治著『ある弁護士の生涯━布施辰治』五七ページ」)。

 

当時の官憲感傷はいうまでもなく、著者の寡聞によっても「貸間あり」の札に「ただし、朝鮮人・沖縄人お断り」と付したというから、居住上の厳しさに察しがつく。その布施は「憤慨して相談相手になった」が、義憤を感じやすくトルストイアンでもあった彼は、「トルストイが大地主であるのを恥じたように日本人であるのを恥じる態度で・・・・・・」朝鮮人・台湾人の居住問題に熱誠をこめたという。

 

貧富の差が激しく、貴族と富者がおごる一方に、都市の大部分が借地・借家人であるだけに、重大な社会問題だと感じたにちがいない。そのご(大正十五年四月)政府は借地法と借家法の新法律を制定するに至ったが、この立法促進運動に布施の精神的な働きかけがあったという。

 

それ以来「地主・家主がむやみに所有権をふり回して、高く貸し換えるために簡単に明け渡しを請求することなどできなかった」が、布施はさらに居住問題を徹底化するために、後年「借家人同盟」を主宰したのも偶然ではない。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その22(『三・一独立運動』前夜 蔓延る帝国の矛盾)‐

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その23(今年で100周年『三・一独立運動』を考える)‐

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その24(『三・一運動』弾圧と帝国主義の揺らぎ)‐

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その25(発展する独立運動と巧妙化する支配システム)‐

 

布施辰治が、在日朝鮮人の事件に、初めて活躍するのは、一九一九年の「独立運動」(三・一度運動)の高揚期である。布施柑治によると、ソウル<当時は京城、旧漢城>での行動と符節をあわせた在日朝鮮学生が、民族自決のために決起し「官私大学生三六〇名帰国」を決意し「東京・大阪でビラまきや集会があった」。そして布施辰治は、大デモ関連事件の弁護に奔走した、とある。

 

ちなみに、朝鮮学生のデモは、例のウイルソン米大統領が世界大戦終結の要綱に「民族自決」を唱えておきながら“朝鮮人の期待した対日強硬勧告をしなかったことを「勇気なし」”としてその虚偽性に対する抗議デモであったと思われる。

 

なお、表現欲の旺盛だった布施は「朝鮮独立の運動に敬意を表す」という論文を書いたために、検事局の取り調べを受ける。これが彼の最初の筆禍であった(布施柑治の上掲書五七ページ)。

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その2(柳宗悦の「予言」が適中す)‐

 

この種の論文では、一九一九年五月、柳宗悦<やなぎむねよし>が「朝鮮人を思う」と題して『読売新聞』に発表し、一九二六年六月号『改造』に矢内原忠雄<無教会主義者/戦後・初代東大総長>が「朝鮮統治の方針」を発表して植民地の統治を批判しているが、布施のように正々堂々と“たたかい”を論じてはいない。

 

当時としては誰しもまねのできないことであろう。

 

※<>は筆者註

 

『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社 112~115頁より

 

 

・知性と度胸を兼ね備えた 『達人』弁護士

 

‐韓国テレビ番組『非首脳会談』(海外の「植民地問題」)‐

 

 

『日本人弁護士 布施辰治』

 

https://www.youtube.com/watch?v=vxzxxjzwZn0

 

韓国のテレビ番組『非首脳会談』でも、布施辰治氏が取り上げられますが、日本人論客大木さんが、動画10分20秒において、日本人弁護士でありながら、初めて「韓国(朝鮮)の独立運動家たちを弁護した」ことに触れました。

 

次回シリーズでは、布施氏は直接朝鮮へ向かうことになります。そこで巡回講演を重ね、当時のリベラルを勇気づけ、後の『関東大震災』『朴烈大逆事件(※)』においても、おおいに活躍されます。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その34(天皇に爆弾・激化する朝鮮民衆の闘争)‐

 

当時の状況というものは、言論の自由や、個々人の人権など皆無の状況だったので、帝国政府に「逆らおうもの」なら、かつての幸徳秋水らのように、最悪『処刑』される運命が待ち受けていました。

 

‐東アジアの今とこれから その10(大逆事件と明治社会主義者の総括)‐

 

 

『大逆事件』

(幸徳秋水ら以下12名は1911年1月 同罪状にて処刑される)

 

https://shuusui.exblog.jp/13933382/

 

だからリベラルでさえも、「大それた発言」ができずに、行動も厳に慎んでいたわけですが、布施氏はそんな状況も、もろともせず、嵐の中の朝鮮の人々のために法廷弁論を展開し、あらゆる「リスク」を背負いながら、その弁護士活動に心血を注いだことは、とてつもない賞賛と、その並大抵でない「胆力」に、ただただ驚きと敬意を表したいと思います。

 

 

<参考資料>

 

・『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社

 

 

<ツイッター>

 

【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】

 

https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6As

 

 

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