前回の記事
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‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 最終回(なおざりにされる『教訓』と『生きづらさ』)‐
・戦後 『米軍事裁判』(北鮮スパイ事件)の弁護人
一九四五年八月、戦争が終わって、布施辰治は再び弁護士となり、人権擁護と解放運動の老闘士として第一線に立ったのは周知のことである。世界に布施の名は知られたとみえて、日本進駐の米軍政府関係者の多くが彼を訪ねたという。
その後の布施が、プラカード事件、三鷹事件、松川事件、メーデー事件などの弁護団長となったのはよく知られる法廷活動である。
彼は、じつに二〇年ぶりに再び活躍をはじめたのだ。
また朝鮮人関係事件も多かったとみえるが、ことに印象的な一面は、米軍政下の最初の「軍事裁判」(一名“北鮮スパイ事件”とも称し、大部分が朝鮮人で、被告一八名、軍事基地情報活動を起因とする軍事裁判)法廷での、布施弁護人の威風である。
この軍事裁判は、朝鮮戦争下、警視庁の五階で連日開廷され、裁判官・検察官・警備のMPも制服の米軍人であったが、そのときの模様を竹沢哲夫弁護士は次のように述べている。
「布施さんが審理の冒頭で“少なくとも朝鮮へいってきた裁判官は朝鮮人を裁判する裁判所を構成する資格はない、裁判の公正を期するが故に質問する”と前置きして五人の米軍人裁判官ひとりひとりに対して“朝鮮へ渡って戦争に参加したことはないか”と質問された・・・・・・その結果、多分二人だったと思うが朝鮮での戦闘参加を認めて裁判官席から去った。朝鮮戦争のさなか、・・・・・・何か戦場の延長のような一面をもった雰囲気の中での布施さんの、何ものに臆しない、道理をつくした申立に強い感銘をうけた」(『自由法曹団物語』二四六ページ)。
その後、朝鮮人を含む事件では、かの有名な「メーデー事件」「大阪吹田事件」(朝鮮人が反芻近くも占める)の弁護活動がある。
一九五二年、この偉大な弁護士は世界知名人として、北京のアジア太平洋地域平和会議に、ウィーンの世界各国平和会議に、翌五三年にはパリのフランス犠牲者救援大会に招待された。
しかし、三回とも旅券非交付で実現しなかった。
一九五三年五月、布施は内臓ガンで病床につき、まもなくブダペスト<ハンガリー>の世界平和会議で「世界平和評議連絡委員」に推せんされる。そして同年九月、七十四歳の生涯を閉じた。
彼の、在日朝鮮人への最後の言葉は、同年三月の三・一革命記念大会での演説である。ちなみに布施柑治<息子>によれば、その永眠の一ヵ月半ほど前に、かの「朝鮮共産党事件」被告の主領格の朴憲永(朝鮮独立後、副首相兼外相)が、対外通牒罪で粛清されたニュースを聞いたが、病床で衰弱した布施は「涙を浮かべて、このニュースを聞いていた」(『ある弁護士の生涯』━布施辰治 六一ページ)という。
二七年前、未来に託して今日を信じた弁護活動者としてこれを聞き、愛惜の念にたえなかったのであろう。
民衆の人権擁護に生涯を捧げ、今日の自由法曹団の伝統に築いた布施辰治の遺骨は、東京・池袋の常在寺の墓に眠るが、その墓碑銘には「生くべくんば民衆と共に、死すべくんば民衆の為に」の一句が刻まれている(森長英三郎「人権擁護運動史の二先達━布施辰治」『法学セミナー』一九五六年十二月号)。
どうして朝鮮人は、この人を忘れ得ようか。
森長英三郎(『史談裁判』)によると、布施家の起訴記録は、朝鮮関係のものは朝鮮大学校に、その他の明治大学図書館に贈られている。
参考文献
小生・本多共著『涙を憤りと共に━布施辰治の生涯』(東京、一九五四年)。
布施柑治著『ある弁護士の生涯━布施辰治』(岩波文庫、一九六三年)
自由法曹団編『自由法曹団物語━解放運動とともに学んだ四十五年』(東京、一九六六年)。
難波英夫著『救援運動物語』(東京、一九六六年)。
森長英三郎『史談裁判』(東京、一九六六年)。
布施辰治ほか著『運命の勝利者朴烈』(東京、一九四六年)。
金京鈺著『黎明八十年』第三巻(ソウル、一九六四年)。
同刊行会『韓国独立運動史』(ソウル、一九五六年)。
韓晛相『在日韓民族運動史』『民主新聞』(一九六〇年十月~六一年度掲載)。
森長英三郎「人権擁護運動史の二先達━布施辰治」『法学セミナー』(一九五六年十二月号)。
平野義太郎「人権を守った人々━布施辰治」『法学セミナー』(一九五九年十一月号)。
森長英三郎「秘められた裁判━朴烈・金子文子事件」『法律時報』(一九六三年三月号)。
※<>は筆者註
『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社 133~135頁より
・布施辰治の生涯を振り返って
激動の戦前・戦中を「反権力」の中で駆け抜け、その後も、貧しき民衆のために「自らのすべて」を捧げた布施氏について、その圧倒的な人間力の前に、この人が非凡の才覚の持ち主であったことが伺える。
あらゆるリスクを厭わず、時代の空気に呑まれず、ここまで芯の強さを「維持し続けること」自体、驚異的なものを感じるばかりだ。
その弁護士としての道筋は、決して楽なものでなかったものは確かです。
本来ならば、『エリートコース』として法曹界に身を置くことが、自分自身の「安泰なキャリア」として確立できたが、己の義侠心から、そのすべてに「ノー」を突きつけ、自らの知識と行動を頼りに、多くの人々、とりわけ人権が存在していなかった朝鮮の人々や、権力に脅かされ、金銭的にも厳しい状況に置かれている人たちに、積極的にコミットし、その権利保障を法廷と市井に訴えた。
結果、帝国政府の「不都合な存在」として、弁護士資格まで取り上げられ、まことに不当な扱いの末、一時は苦しい生活も余儀なくされた。大部分の人は、たとえ良心があったとしても、この遥か以前の段階で、問題から「エスケープ」していただろうが、布施氏は、そのような次元とはかけ離れたところで、困った人々に救いの手を差し伸べることこそが、己の弁護士人生の『責務』として、自身が病気で亡くなるまで貫き通したのです。
そこに見返りなど存在しない。
私はここに、氏の凄さを感じるのです。
<参考資料>
・『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社
<ツイッター>
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