前回の記事

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その14(新潟県水力発電所・朝鮮人土工「虐殺」の話)‐

 

 

関係記事

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その1(政府を決して信用してはならない)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その2(デマ拡散と大衆の「民度」)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その3(目玉や鼻をえぐり、腸や胎児を引きずり出す)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その4(「天皇制」サイコパス国家への批判)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その5(なぜ政府は『虐殺』を画策したのか)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その6(体制維持の「生命の道具化」と「隠蔽工作」)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その7(極度の「情報統制下」にあった朝鮮半島)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 最終回(なおざりにされる『教訓』と『生きづらさ』)‐

 

 

・ついに権力側が 「布施潰し」へと走る

 

 

このような使命を担った、勇敢な布施は「かれらの法律で、かれらを縛れ」(ブルジョアジーは、自己のつくった法律の合法則性を破るから、あべこべに、かれらのつくった法律で、かれらを縛れ)を喝破し標語とした(平野義太郎の前掲論文)。

 

この勇敢な弁護士に、裁判所は悩まされて官憲は手こずったにちがいない。

 

そのあげく、ファッショの台頭する中に、布施の手足をもぎ取るべく、ついに東京検事長の「懲戒裁判申し立て」があり、一九三二年控訴院で除名判決、翌三三年大審院の棄却で判決が確定し、弁護士資格をハク奪された。

 

と同時に、新聞紙法に問われて「禁固三ヵ月」が確定し、豊多摩刑務所に入れられた。ときに五十三歳。出獄するや、例の“治安維持法”の嵐の中に、日本労農弁護士団と共に一斉検挙された。その後“恩赦”により弁護士に復活するが、一九三四年再び治安維持法で起訴され、三九年「懲役二年」判決で弁護士資格を再び失い、再び千葉刑務所に入る。

 

すでに国際社会に知られた布施は入獄直前、ソ連最高会議より特別待遇章を贈られた。その監獄では「四〇〇日、風船を貼って暮らした」。ある評言を借りるならば、弱者の味方になり権力と闘ったために「牢獄に投げ込まれ、そのご一五年間も稼業を棒に振った」のだ。

 

彼が出獄する年(一九四〇年)は、六十の還暦であった。

 

ときの日本の軍閥は、冒険の大戦へ狂進する。弁護士資格を剥奪された布施は「点線ノート」を考案して発売したり、山の開発に放浪したが失敗し、自宅の売買差額を生活費にあて、戦争末期の四三年からは神奈川の海岸に移住し、「さびしく波の音を聞いて」暮らした。

 

戦争が終了したとき、布施は六十六歳の白髪であった。

 

そのとき彼は「獄中生活はファッショ反対の闘士として・・・・・・ぼくの生涯にふさわしい経歴となる」と語る。

 

『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社 132~133頁より

 

 

・自分を「捨て去って」 他者に奉仕しつくした偉人

 

 

もう言葉では言い尽くせないほど、布施弁護士の行動と貫いた信念というものは、凡人のレベルをとうに超える位置にある。

 

戦後において、彼の積み重ねてきた実績は、海外からも高く評価され、後の世に名を遺した偉人となるが、圧倒的な権力に対して、一切の臆面も見せず、威風堂々と正義を貫くさまは、心から敬服の念を抱く。それにより一時は弁護士資格まで奪われ自身の生活も「破壊」され、堪え難きを堪えた時期もあった。

 

それでも布施氏は、全くと言っていいほどブレなかった。

 

ここまで出来る人は、おそらく米粒くらいであろう。

 

結果、多くの民衆から得た信頼は絶大であり、大日本帝国が潰えたあとも、アメリカという「さらなる巨大な存在」に、時の朝鮮戦争下でおきた『軍事裁判(北鮮スパイ事件)』などなど、直接朝鮮半島で戦闘行為に参加した米軍人裁判官に詰問し、内数人を退席させたという偉業も、氏ならではの業であったと、歴史を学んで、あらためて感じたことでした。

 

 

<参考資料>

 

・『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社

 

 

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