前回の記事

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その7(虐殺真相究明に対する帝国政府の妨害と朴烈事件の経緯)‐

 

 

関係記事

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その1(政府を決して信用してはならない)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その2(デマ拡散と大衆の「民度」)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その3(目玉や鼻をえぐり、腸や胎児を引きずり出す)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その4(「天皇制」サイコパス国家への批判)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その5(なぜ政府は『虐殺』を画策したのか)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その6(体制維持の「生命の道具化」と「隠蔽工作」)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その7(極度の「情報統制下」にあった朝鮮半島)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 最終回(なおざりにされる『教訓』と『生きづらさ』)‐

 

 

・来たる朴烈裁判 あつまった『仲間たち』

 

 

『二代目大審院庁舎(最高裁)』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AF%A9%E9%99%A2

 

この「大逆事件」公判における布施らの立場は「弁護人の線を越えて」、「終始、徹底的に批判的態度で臨み・・・・・・公判準備の裁判所交渉に特別の役割を遂行した」のである。

 

ちなみに朴烈事件の弁護人は、官選に新井要太郎、田坂貞雄、私選に山崎今朝弥、布施辰治、上村進、中村高一および朝鮮からかけつけた晋直鉉である。

 

一度「大逆事件」につきつけられると、公判は大審院(最高裁)の特別法廷で行なわれるが「一審切り、宣告一下、上訴も上告も許されない確定審」であり「生命抹殺の死刑ルート」につながる。

 

ここに突き出された二十四歳の朴烈は、日本の国家権力を相手に堂々と自己主張を強調するが、それも背後に自由法曹団の先達がいればこそであろう。大正十五年二月二十六日の大法廷の模様は、裁判史上、記録的壮観であったらしい。正私服警官二〇〇、憲兵数十名の警備するうちに、傍聴希望者五〇〇名。その公判の冒頭で、朴烈は布施弁護人らを通じて、裁判長に次の四条件を突き出した。

 

第一に、裁判官は日本の天皇を代表して法冠をかぶり、法衣をまとっているのに対して、自分は朝鮮民族を代表して法廷に立つのだから、自分は朝鮮の礼装、ことに朴氏族の冠を着ること(布施の筆には、王冠と王衣になっている)。

 

第二は、自分は朝鮮民族の代表だから、裁判官席と被告席を同等の高さにせよ。

 

第三に、自分が法廷に立つ趣意を宣言させろ。自分は朝鮮民族を代表して、日本が祖国朝鮮を強奪した強盗行為を弾劾するために法廷に立つのだから、朝鮮の歴史について述べさせろ(布施の文では“裁判官は日本の天皇を代表して、自分の質問に答へよ”となっている)。

 

第四に、日本語を使わない。朝鮮語で言うから通訳をつけろ。

 

これらの要求を布施弁護人の「仲介的折衝」により第二と第四を撤回させ、第一(朝鮮礼服着用)と第三(朝鮮歴史を述べる)を牧野裁判長に承諾させた。

 

조선 전통관복을 입고 일본 법정에 출두한 박열(이제훈) <朝鮮の伝統的官服をまとい日本の法廷に出頭したパッキョル(俳優名:イチェフン)> 『大邱新聞』より

 

https://www.idaegu.co.kr/news/articleView.html?idxno=227483

 

そして朝鮮礼服を着用して、入廷する朴烈の風貌を、当時の『法律新聞』(二五一六号)が記載している。「朝鮮礼服を着替へるため大法廷の会議室のそばに入って・・・・・・見ちがえるような礼服に身を包んだ・・・・・・朴が入廷する、顔を綺麗に剃って髪をオールバックとし、紗帽に紫紗の礼服を着け内裏様のような礼帯を締め、おまけに小籏のような士扇打ち振り、シャナリシャナリと入って来るさまは天神様の様である。得意に笑をあたりに投げ・・・・・・後向き傍聴席の同志と目礼をかわす」とある。

 

そして三月二十五日の結審で、型どおりに朴烈と文子<日本人妻>に“死刑”の判決言渡しが終わったとき、朴烈は「裁判長!御苦労さま」と怒鳴った(布施辰治ほか著『運命の勝利者朴烈』四五ページ以下、森長英三郎「秘められた裁判━朴烈・金子文子事件」『法律時報』)。

 

ところで「死刑判決」の一〇日後、突然“天皇の恩赦により死刑一等を減じ、無期懲役”の通告が届く。ついでに書くと、その通告書をもってきた刑務所長に、朴烈は次のように言下に断った。

 

「生かすのも天皇の勝手だよ、殺すのも天皇の勝手だよ。・・・・・・しかし、それはあくまでも天皇の勝手で、俺は天皇の勝手になりたくないね。日本の天皇から恩赦だなんて恩を着せられる義理もなければ、理由もない。ただ俺は俺を呪いたいように、生きていれば生き霊になり、死ねば死霊になって天皇を呪うだけで、そんな恩赦令などというものに用がないね」

 

そこで「恩赦状」は宙に浮き、所長は大困惑し途方に暮れる。その困った所長を気の毒がったあまりに、朴烈は「天皇からの恩赦状は受け取らないが、君がやり場に困って途方にくれるというなら、君のためにその恩赦状を預かってやろう」と同情し、受け取ったのだ(『運命の勝利者朴烈』二一ページ)。

 

※<>は筆者註

 

『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社 121~123頁

 

 

・改めて考える 『あの時代』

 

 

死刑宣告を受けてなお、泰然とし、文字通り『現人神』としての「天皇陛下」からの恩赦を蹴とばし、他者である所長の気持ちを案ずる余裕すら見せる、朴烈自身気概胆力は、並大抵のものでない。

 

私が「ひとりの朝鮮人」という設定で、あの時代を生きると仮定するなら、とても生き残れる自信はないし、当事者の方々にとって『ナイトメアモード』だった大日本帝国の時勢というものは、おのずと「普通(ヤワ)の精神」を捨て、自らの命を当たり前のように賭け、民族や国の独立のために、あらゆる努力を惜しまなかった『猛者中の猛者』たちを生み出した歴史であることを、改めて認識させてくれます。

 

 

<参考資料>

 

・『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社

 

 

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