前回の記事

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その6(布施辰治の仕事歴)‐

 

 

関係記事

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その1(政府を決して信用してはならない)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その2(デマ拡散と大衆の「民度」)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その3(目玉や鼻をえぐり、腸や胎児を引きずり出す)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その4(「天皇制」サイコパス国家への批判)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その5(なぜ政府は『虐殺』を画策したのか)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その6(体制維持の「生命の道具化」と「隠蔽工作」)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その7(極度の「情報統制下」にあった朝鮮半島)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 最終回(なおざりにされる『教訓』と『生きづらさ』)‐

 

 

・真相究明に対する日本当局の「妨害」 布施氏と朴烈事件の絡み

 

 

その十月、朝鮮留学生によって「在日朝鮮同胞被虐真相調査会」がつくられたが、当局はこれさえ許さなかった。結局、東京地方罹災朝鮮人救援会が改めて遠慮がちに調査を始めるが、この活動に布施辰治は最初から顧問格で加わっている(同上二一ページ<自由法曹団物語より>)。

 

また、その十二月、在京留学生が主体となって日本青年会館で「被殺同胞追悼会」を催したが、ソウル<旧漢城・当時は京城>の『朝鮮日報』(一九二四年一月六日)の記事に「追悼式には、日本人社会主義者側より布施辰治(弁護士)、日本労働総同盟木村盛、労働運動者上一雄等の諸氏も参加した」とある(韓晛相『在日韓民族運動史』『民主新聞』五二四号)。

 

関東一帯に大惨劇が行われて「日本残虐史の絵巻」となったが、「甘粕一人をのぞいて、だれ一人直接の責任を問われなかった」ばかりか、あげくの果てに朴烈大逆事件という大ドラマがつくられる。すなわち朴烈と妻の金子文子が祭壇に供せられて“死刑宣告”を受ける。

 

ここで、少し朴烈に関する解説をさせて頂きます。

 

 

관동대지진 이후 험악한 분위기 속에서 일본인 부인인 가네코 후미코(일본어: 金子文子)와 함께 1923년 10월에 히로히토 황태자의 혼례식 때 암살을 기도한 죄로 체포되었다. 불령사가 다이쇼 천황과 히로히토 황태자 등을 폭탄으로 암살하기로 모의했다는 혐의 때문이었으나, 사건 자체가 과장, 조작되었다는 설도 있다.

 

<関東大震災以後(日本社会の)険悪な雰囲気において、日本人夫人である金子文子(かねこふみこ)と一緒に、1923年10月裕仁皇太子(後の昭和天皇)婚礼式時に暗殺を画策した罪で逮捕された。不逞社(同年4月に朴烈が立ち上げた秘密結社)が大正天皇と裕仁皇太子などを、爆弾の暗殺しようと謀議したとする容疑である。事件自体が誇張、創作されたという説もある>

 

『박열<パッキョル>朴烈』(Wikiより)

 

https://ko.wikipedia.org/wiki/%EB%B0%95%EC%97%B4

 

以前お話した李垠シリーズのように、他国の王家をぶっ壊しその国をも乗っ取って民衆を奴隷化した大日本帝国が、あらゆる歴史的ハレーションを作り出してきた過程で、いざ自分たちのロイヤルファミリーが「危機に晒された」とて、何ら文句を差しはさむ余地はないと考える。

 

事件の真偽によらず、ある種「当然の帰結」として、過酷な植民地化による虐殺などの含め、結果「どんなことが起きようと」、すべて自分たちが蒔いた種であると、私は冷静に切り捨てるであろう。

 

この大ドラマに布施弁護士らが付き添った。

 

こうなると「朴烈」は一個の無政府主義者というよりは、迫害と犠牲にさらされた“朝鮮人”を代表する一個の祭物であった。いわゆる「朴烈大逆事件」こそは、布施辰治と切り離すことのできない関係にある。

 

震災直後の九月三日、朴烈は、保護検束(救護ヲ要スト認ムル者ニ対シ必要ナル検束ヲ加フ)の名目で、いわゆる日本人自警団の危険から保護すると称して、世田谷署に検束された。

 

翌四日の警察犯処罰令(一定ノ住居又ハ生産ナクシテ諸方ニ徘徊スル者<浮浪者>)の該当者として“拘留二九日”に切り替えて留置を継続し、十月二十日に拘留期間満了と同時に、例の治安警察法違反被告として市ヶ谷刑務所に起訴収容した(布施辰治ほか『運命の勝利者朴烈』一一ページ)。

 

布施が言うように「警察犯処罰令は、毎年数百人を算する人権蹂りん法で、警察官憲にこれほど都合のよい合法的人権蹂りんの武器はないのである」が、不幸にも朴烈は筋書どおりの大ドラマによって「大逆事件」(天皇および天皇一家に害を加える者=じっさいは、そのレッテルをつけられた者)に結びつけられた。

 

※<>は筆者註

 

『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社 119~121頁より

 

 

・当時の社会的空気の中で 命を懸けた「被告」と「弁護人」たち

 

 

‐東アジアの今とこれから その10(大逆事件と明治社会主義者の総括)‐

 

先の、明治社会主義者たち「同様の罪」で処刑されたことは有名な話です。

 

大日本帝国において、『天皇(体制)の敵』と認定されたら、ほぼ生き残ることは不可能であり、この時点で朴烈(当時24歳)と金子文子(妻)の命運は尽きたかのように見える。

 

そんな朴烈らを支えたのは、布施辰治をはじめとする『自由法曹団』のメンバーであり、日本の裁判史上記録に残る壮観であり、正私服警官二〇〇、憲兵数十名の警備、傍聴希望者は五〇〇名。さらに有名は朴烈の『四ヶ条の要求』など、実に「内容の濃い」裁判となった。

 

 

<参考資料>

 

・『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社

 

・友人の翻訳協力

 

 

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