前回の記事

 

‐シリーズ・布施辰治と在日朝鮮人 その5(三・一独立運動以後の『義烈団』活動について)‐

 

 

関係記事

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その1(政府を決して信用してはならない)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その2(デマ拡散と大衆の「民度」)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その3(目玉や鼻をえぐり、腸や胎児を引きずり出す)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その4(「天皇制」サイコパス国家への批判)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その5(なぜ政府は『虐殺』を画策したのか)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その6(体制維持の「生命の道具化」と「隠蔽工作」)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 その7(極度の「情報統制下」にあった朝鮮半島)‐

 

‐シリーズ・関東大震災と朝鮮人虐殺の全貌 最終回(なおざりにされる『教訓』と『生きづらさ』)‐

 

前回は、義烈団の詳細について述べ、つづく同団体への「布施弁護士の弁護」関東大震災における「朝鮮人虐殺の真相究明」をお話いたします。

 

 

・義烈団事件の訂正 「震災後」の布施弁護士の活動

 

 

ところが、布施が弁護するために渡朝した「義烈団事件」を単に「金相玉事件」といっているが、これは明らかな誤りと思われるので、このさい訂正を要する。

 

その内容説明からみると、ほぼ同時期に起きた「黄鈺警部爆弾事件」であろう。

 

布施の説明によれば、「鐘路署在勤現職警部補、金相玉は義烈団に加盟し、自分の警部補という立場が義烈団に役立つなら、自分も朝鮮民族の一人として忠誠を捧げたいと誓い、義烈団員として加盟し鴨緑江を越える公用出張を利用して関門検査を無事通過し、上海よりの爆弾を京城<旧漢城・現ソウル>へ持ち込む作戦に成功した。そして団員金思変(金祉変の誤り)に爆弾と朝鮮革命書を手渡す前夜、金相玉は家宅捜査を受けて、爆弾などを押収され、同時に義烈団一味が悉く検挙された事件」とある。「所が公判になって金相玉の申立ては、じつは自分の義烈団加盟は、上官(総督府警務課長白山佑吉)の命を受けてスパイ政策を実践したのであって真の義烈団加盟ではない、と“総督府のスパイ工作”を暴露し、義烈団被告十二名は驚き、法廷は騒然となった」という内容である(布施辰治ほか著『運命の勝利者朴烈』一〇〇~一〇五ページ)。

 

しかし実際の金相玉は、上海より爆弾を京城<旧漢城・現ソウル>へと搬入し、その年の一月、鐘路署爆破に成功し、巧みに隠身中、六日後の夜中に警官一千余に包囲され、単身ピストルで応戦三時間、最終の一発で悲壮な自決を遂げている(金京鈺著『韓国独立運動史』二一五ページ、『黎明八十年』第三巻四三六~四四三ページ、李弘植編『国史大辞典』二七三ページ)。

 

また、布施辰治の長男・布施柑治著『ある弁護士の生涯━布施辰治』(岩波文庫、五九ページ)も、前記の内容を記している。ここでは「キン・シショウ」(金祉変か)の名が出てくるが、これも同様に誤りであろう。口述するように金祉変は、翌一九二四年一月、上海より東京へ潜入し、「二重橋爆弾事件」の当事者であり、無期懲役に処せられた。

 

したがって、上記のいずれも、敗戦直後の布施辰治の記憶ちがいであることを指摘し、布施が「義烈団事件」の弁護に渡朝した件は、おそらく「黄鈺警部事件」を指すものと思われる。

 

‐韓国テレビ番組『非首脳会談』(海外の「植民地問題」)‐

 

 

『日本人弁護士 布施辰治』

 

https://www.youtube.com/watch?v=vxzxxjzwZn0

 

さて「義烈団事件」弁護いらい、布施辰治の名は、朝鮮では文字どおり“義烈弁護士”と呼ばれて、名高くなった。そして布施が東京へ戻って間もなく、関東大震災が起きたのだ。

 

そして六五〇〇名以上の大虐殺がはじまる。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その29(関東大震災と朝鮮人虐殺)‐

 

このときから布施は、席の温まる間もない。後年、当の布施は「日本人がいつも朝鮮人をいじめているために震災の混乱に乗じた報復を恐れる心理が動いて・・・・・・警察関係などに“朝鮮人来襲”の妄想が生まれ、流言そのままの新聞号外まで出て、一般市民も良識を失った」と嘆く(布施柑治の前掲書六六ページ)。

 

そして布施は、創立満二年の自由法曹団の先頭に立って、虐殺真相の調査にかけまわる。

 

 

憤りに燃えた彼は、まず虐殺の責任追及のため自由法曹団の人々と共に、亀戸警察署に迫り、平沢計七人らの死体を求めて荒川土手へかけつけた。

 

そのとき、殺された朝鮮人二、三百の死体を確認している。

 

さらに布施らは警視総監湯浅倉平に会って詰問するが、そのときの布施の姿を、中村高一弁護士は次のように語っている。「闘士の塊りのような顔をして、白い帽子をかぶりサイドカーで乗りつけ、憲兵や警官の並ぶなかをかきわけて入っていって、死体を見せろと要求した。その勇気と威厳とは側にいても何かピリピリ伝わってくるような感じであった」(『自由法曹団物語』二二ページ)。

 

※<>は筆者註

 

『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社 117~119頁より

 

 

次回は、時の朝鮮留学生ら『在日朝鮮同胞被虐真相調査会』に対する「当局の弾圧」東京地方罹災朝鮮人救援会「顧問」として布施弁護士が関わったり、当時の日本人リベラル(木村盛、上野一雄など)、さらには朴烈事件の絡みも含めて、植民地支配における迫害と犠牲の果てにさらされた“朝鮮人”の存在を今一度想起する意味でも、何度も復習していくことが大切だと思います。

 

 

<参考資料>

 

・『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社

 

 

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